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一週間で夜行バス4回乗り継ぎ紀行 第2話

https://note.com/shinzan_kaiin/n/naf13940f0daa
第1話を読んでいない方はこちらからどうぞ

夜行バスの旅なのにわざわざ昼行バス(20時発23時着というある意味夜行バスだが)でいわき市まで移動してホテルに泊まったのには理由があります。それは、ここから常磐線の始発列車に乗って移動し、福島第一原発の至近、夜ノ森駅と大野駅の周辺を視察するためです。常磐線は原発のすぐそばを通るので長らく運休区間が残っていましたが、東京五輪開幕予定前の2020年3月に全線開通を迎えました。週刊文春によるとこれは「復興五輪」の掛け声の元、政治的に行われたものだったそうですが、五輪がなかったら今も不通のままだったのでしょうか?その辺りの事情も現地に行ってみればわかるかもしれません。なお、この日は平日だったということだけ一応言っておきます。

5時23分、5両編成の列車でまだ暗いいわき駅を出発しました。乗客は1両あたり2、3人。6時7分に夜ノ森駅に到着、乗降客は僕だけでした。次の電車までの50分間で街を探索します。線路は堀割の中を走っており、駅は震災以降に橋上化されました。以前は戦前の鉄道開業以来使われていた木造駅舎が残っていましたが、(恐らく除染のため)降り壊されました。この駅は線路を挟んで東西の様子が全く異なっているという点に特色があります。まず線路の西側は、駅に面して割と新しめのごく小規模な住宅地と、その奥には農地があり、概して普通の田舎という印象を受けました。

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それに対して線路の東側は、駅前に銀杏の巨木が聳え立っていて、西側より大きな集落が広がっていました。しかし、この先は世界有数の異常領域です。

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建物も道路も、駅から東に伸びる県道以外は全てバリケードで封鎖されているのです。駅から300m先の南北に走る道路まで、入れる場所は一つとしてありません。Googleマップなどを見るに、取り壊された建物も少なくないようですが、10年間時が止まったままの建物もまだ沢山ありました。僕がこの場所で見かけた人は5人。東口の駅前広場に駐車していた車の中に建設作業員が2人、駅前通りと南北通り(共に仮称)の交差点が六股になっていてその交差点のロータリーに警備員が2人、同じ電車を待っていたサラリーマンが1人です。警備員さんは、許可証を携えた車が来た時にバリケードを開けることが任務だと察せられます。車道の真ん中を歩きつつビデオカメラで街を撮影するという行為は全く咎められないどころか、そのような光景は日常茶飯事なのか、見向きもされませんでした。探索中に日の出を迎え、音のない街に光が差すわけですが、この風景、この感情は言葉になりません。これは震災の前の日本人が知らなかった感情かもしれません。時代を変えてしまう事件事故は度々起こるものですが、オウムの前、戦争の前、維新の前、日本人は何を考えて生きていたのか、もし自分がその時に生きていたら何を想って生きていただろうか、などと考えてしまいます。

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腹が立つのは新聞の書きっぷり(恐らく朝日新聞だったと思うのですが、記事を保存しているわけではないので明言は避けます)。震災10周年特集だったかでこの辺りを歩いた記者が伸びきった草花や木々を見て「植物も悲しそうだ」と思った、なる記事があったと記憶しています。何故に生い茂る草花が喜ぶのではなく悲しむのか全く理解できません。百歩譲って避難民の心情を草木に代弁させるにしても、もう10年にも及び、これから一生続くかもしれない避難先での生活を「悲しみ」の一言で終わらせる傲慢さ。木々が根を張るように、避難民も避難先で根を張っているわけですが、避難民は死ぬまで帰還を望む可哀想な避難民でいなければならないということなのか?その論理なら在日朝鮮人は朝鮮語を教えて祖国へ送り返さなければいけませんね。もちろん避難民が実際にそう言ったのならそう書いて構わないのですが、この記事に被災者は登場しません。流石です。とにかく、原子力の利用には、人間は自然を制することができるという浅はかで西洋的な理性主義的発想が根底にありますが、そこに何らの反省もない記事がボツにならない点には驚かされるばかりです。まぁ営利企業なので、戦争の旗を振り、戦後民主主義の旗を振り、SDGsの旗を振り、何をしてもらっても構わないんですけどね。

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6時58分、再び5両編成の列車に乗って隣の大野駅へ移動しました。乗客はサラリーマンと僕のみ、降客なし、車内は始発列車の1倍から1.5倍、といったところです。この夜ノ森駅から大野駅の間は、かつては複線でしたが現在では単線となり、線路を剥がした場所にはアスファルトが敷かれています。これは原子力災害が発生した場合の緊急避難路だそうです。東北新幹線が開通するまで、常磐線は東北本線のパイパスとして長大特急や貨物列車が行き交う幹線でしたが、今では確実に線路容量を持て余しています。しかし、流石は世界最大の鉄道会社とあって、未だに電化複線5両編成を貫いているのです(単線になったのは一駅間だけなので実質全線複線と言っても差し支えない)。JR東日本は世界最大の都市・東京に路線網を持つスーパーマンモス旅客鉄道故に、東北の赤字ローカル線を維持することなど朝飯前なのです。JR西日本がコロナ禍でローカル線廃止を検討し始めたのと対照的に、東日本と東海はコロナ禍を経てもいけそうな感じになっています。

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しかし、それでも本州の三社の経営環境は天国といえます。厳しいのはそれ以外の、北海道・四国・九州の三社、通称三島会社です。中でも、最も経営環境が厳しいと言われているのがJR四国です。廃線や事故、沿線環境など話題に事欠かないJR北海道が一番ヤバいというイメージがありますが、実は北海道には隠れた武器があります。それは、札幌大都市圏です。この自動車全盛の時代に、大量定型輸送手段たる鉄道の優位性を活かせるのは、大都市圏を置いて他にありません。札幌は日本で4番目、即ち三大都市圏以外で初めて地下鉄ができた街なのですが、これは鉄道移動に一定の需要があることの証左と言えます。札幌近郊においては、物理的、また財政的に列車増発の余地があるという主張も散見され、加えて新幹線や駅前の再開発などで新たな収益源が生まれるとされています。一方、四国最大の都市は人口50万人の松山で、宇都宮や姫路ほどの規模しかありません。それでいてほぼ全線が高速道路との競争に晒されているのです。そして、最も驚くべきは、既に四国が経営努力の限界を迎えているという点です。つまり、増発の余地がないほどに列車を走らせており、鉄道事業でこれ以上の売上増加は見込めないのです。Twitterとかでは北海道の経営陣が無能扱いで、四国の経営陣は占守島や硫黄島の守備隊並みに厳しい環境で頑張っていると讃えられる光景をよく目にします。国鉄分割民営化のとき、既に「どうあがいても四国は黒字にならない」と言われていたそうで、本当に政治家の無責任ぶりがよくわかると言いたいところだが、高速道路はしっかり整備されているから割と責任は果たしているのかも。

それはともかく、偶然東京や大阪の会社の域内に入った東北や中国の路線が残り、それより需要(輸送人キロ)が大きい北海道の路線は廃線になっている現状があります。国鉄では輸送人キロが一定数を下回ると(代替交通手段がないなどの事情がなければ)廃止もしくは三セク化されると全国一律で決められていたことを考えると、民営化してかえって非合理的になっていますね。国鉄民営化は、大都市圏以外では完全に失敗です。そもそも根拠からして日本は間違えています。英国の国鉄民営化はサービス向上が第一で、日本のように財政再建のための施策ではありません。(建前上、労組潰しは民営化の理由ではなかったですよね?英国ではどの程度企図されていたのでしょう。)もちろん英国が全て正しいというわけではありませんが、日本の新自由主義は米英を見習ってやり始めたのですから、そこの整合性は取らなければなりません。そして、英国のジョンソン政権は、保守党政権でありながら鉄道再国営化を決断しました。だから「新自由主義からの脱却」を掲げた岸田政権には当初期待したわけですね。中曽根、小泉政権以来の失政を取り返してくれるのではないかと。

個人的には、民間のJR東日本が首都圏、JR西日本が名古屋圏から京阪神圏の路線を経営し、新幹線と残りの在来線は引き継ぎ国が補填しながら国鉄が経営するべきだと思います。サービス向上という観点からすれば、大都市圏における民営化は大きな効果が認められますが、地方ではその通りではありません。JR九州の経営多角化(というよりローカル線の切り捨て)による株式上場や、並行在来線の分離なんてものは政策的な意義がさっぱりわかりません。国鉄はともかく、電電公社と郵政の民営化に至っては、100%失敗です。あの米国でさえ郵便は公社がやっているのですから、当たり前の結果です(普段から既得権益を叩いている人は日本最大の既得権益・アフラックを絶対に叩きません。不思議ですね〜)。

鉄道再国営化は地方創生にも寄与します。そもそも地方の人口は終戦から一貫して減り続けていますが、それは地方から雇用が消えていったからです。戦前の地方で最大の雇用先は、軍隊です。終戦を機に金の卵が東京へ流れ始めますが、それでもまだ地方には良い勤務先がありました。国鉄、郵便、農協、炭坑です。あるいは休耕期に公共事業で稼ぐこともできました。いずれも見事に潰されましたね。こう考えると、地方創生を実現させる方法はいとも簡単にわかります。いま政府がやっていることと反対のことをすれば良いだけです。政府が雇用を創出する、たったそれだけです。未婚率や出生率も改善するでしょう。

そして、もうどこで見た車窓か覚えていないので、ここでまとめて車窓の話もしたいと思いますが、とにかく原発付近では、全ての農地が見事に荒地へと変貌していて、あまり他の地域では見たことのない景色が広がっていました。いくら過疎化で休耕地が増えているとは言え、地の果てまで全部ススキしか見えない土地というのは、中々お目にかかることはできません。これでは農家が帰還して再び作物を植えるというのは不可能でしょう。福島の農地が全部メガソーラーになるという話を聞きましたが、それも仕方がないと思います。なお、車中からはソーラーパネルも残土置き場もあまり見えませんでした。グーグルマップで見るとよく見えます。

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あれやこれやと考えていると、あっという間に大野駅に到着です(読者の皆様、これが何のnoteか覚えてますか?笑)。時刻は7時丁度ですが、ここでも乗降客は僕だけです。、駅舎も橋上化された立派なものとなっています。この駅は大熊町役場の最寄り駅なので、駅舎も駅前広場も夜ノ森駅以上に立派に造られています。相変わらず人はいませんが、少し離れた場所にある道路は車が盛んに往来していました。大熊町の復興整備計画において、街の玄関口である大野駅周辺は復興拠点の一つに指定されており、駅周辺で再開発を行うようです。

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まず降り立ったのは西口。町役場の方面の出口とあって、多くの個人商店が線路沿いに立ち並んでいた往時の様子が今も窺えます。しかし、この辺りは放射線量が高いそうで、駅前から丁字に伸びる道路のうち、線路と並行する南北の道路はバリケードで封鎖されていました。バリケードの向こうでは、商店の取り壊しが行われていましたが、色々と制約があるのか、数十軒ある商店を2棟ずつ解体していくという恐ろしくゆっくりした速度で工事が進められていました。

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残る駅から西に進む道路も沿道はバリケードで全部封鎖されていますし、100m先でまさかの「歩行者は通行できません」の看板が出現。歩行者は駅から100m進んだ所で行き止まりという、ポケモンのゲームの街より狭い行動範囲を強いられるというわけで、復興はまだ遠いと感じました。

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駅前広場はとても広いとは言え、客待ちのタクシーはおろか人の気配もありません。ここからどうやって役場まで行くのかと思いましたが、その疑問は間もなく解消されました。駅前広場にバスがやってきたのです。しかしこのバス、見慣れないデザインをしており、よく見たら中国製のバスでした。車体に大熊町が2050年の二酸化炭素排出量ゼロを目指していると書かれていることから、恐らく電気自動車だと思われます。こんな小さな町なら30年もかけなくてもゼロカーボンが実現出来そうな気がしますが、逆にこの規模の街でゼロカーボンまで30年かかるのなら東京や太平洋ベルトの工業地帯なんかは何年かかるのでしょうか。もっともSDGsを訴えておられる世界中の多国籍企業が節税をやめれば、予定より数十年ほど前倒しで実現できると思いますけどね。しかしながら、この復興という国家事業の中でも特に重要な原発事故の被害地域に中国製バスが走ることを許してしまうあたり、日本の国策不在ぶりが現れています。第一に復興、第二に気候変動対策、第三に自動車産業保護、これらのことが全て出来ていないのが今の日本政府の体たらくですよ。

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そんな環境投資ブームに乗って、水素産業で福島を活性化するという構想が以前からございまして、2020年には浪江町に世界最大の水素製造施設「福島水素エネルギー研究フィールド」が開業し、いよいよ本格化するかと思いきやコロナ禍で国も自治体も忙殺。だからかどうかは知りませんが、今年6月、トヨタが十数社の大企業をまとめて福島県と水素利用の検討を始めました。民間主導というやつです。そもそも政府の水素政策が迷走している感があります。水素を使った燃料電池自動車はバスやトラック向きだとトヨタが散々言っているのに、政府の補助金などは自家用車向けに重きを置いていて話になりません。我が国はこの30年、公務員の質も量も落とし続けてきたので、「官」の力が弱りすぎています。もはや幕府か?

時刻は7時19分でラッシュアワーと言っても差し支えない時間帯ですが、バスにはお婆さんが一人だけ乗っていました。ただでさえ人口が異常に少なく通勤通学需要がない上に、バスの本数も毎時1本以下なので、地域の足としての活躍はほとんど見られませんでした。もっとも被災地のみならず多くの日本の田舎はそうだと思いますが、特にこの被災地は子供や若者の姿というのが全くありません。

今度は西口を後にして東口へ向かいます。東口は西口以上の賑わいがあると期待できました。何故なら、東口からすぐの場所にある学校(っぽい建物)が東電の社員寮と残土置き場になっていて、朝早くから多くの作業員たちがいる様子が伺えたからです。しかし、この期待は儚くも打ち砕かれます。

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まず、僕が東口に降り立ってすぐ、駅前広場に車のエンジン音が響き渡りました。とんでもない猛スピードでバス(今度は普通の車両)がやってきたのです。西口の中華バスがいつまでも発車せず駅前に留まっていたのですが、それは東西でバスの接続を図っていたわけですね。公共交通としてしっかり全体的に設計されているなと感心していたら、間髪置かずにいわき行きの列車がやって来ました。ここは橋上駅なので、ギリギリ接続不可。もっと頑張りましょう。しかしながら駅前広場に強襲揚陸してるのかと思うほど荒い運転で驚いたのですが、駅で接続を済ませた後も、変わらず猛スピードで駅前広場を転回し走り去っていきました。車体の傾きがカースタントなんよ。あれでは車内にお婆さんがいたら十中八九負傷するでしょう。つまり、東口のバスは完全に空気輸送に徹していました。なんとなくですけど、かなり手際が良かったので、この光景は毎朝繰り返されているような気がします。そんなバスを見送り、相変わらずバリケードで封鎖された駅前広場周辺を見つつ、広場から30m歩き出したところで、驚異的な事態に直面します。

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「歩行者は通行できません。」
歩行者は駅前広場から出ることができない。なるほど大野駅は駅前広場のための駅なんですね。ここに大野駅前広場前駅の成立を宣言します。広場の正式名称は大野駅前広場前駅前広場になります。夜ノ森駅はなんだかんだ言って駅から歩いて移動することが可能でしたが、大野駅は完全にバスに乗るか迎車を頼むかしなければ駅前から脱出できません。西口と異なって、建物を解体したりする様子も一切なく、復興の息吹も感じられない状態ですわ。なお東電社員寮は駅前広場に隣接していますが、入口は広場を出た道路沿いにあるので駅まで徒歩では行けず、作業員たちは専ら車で移動しているようです。あと思ったのはこの看板はバイクや自転車も通行できないと謳っていますが、電車に自転車を乗せるか、もしくはバリケードの奥に放置された廃バイクを強奪するかしなければ、この駅前広場にバイク自転車で辿り着くことはできません。読者の皆さんは、是非チャレンジしてみてください。

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まぁ平日朝ラッシュでも原発周辺の街は極めて人が少ないということがわかりましたが、だからといって常磐線全線開通に意味がなかったと断定できるかどうかは難しいところです。鉄道利用者の大半は、原発周辺を跨いでの利用と見られるので、微妙なところです。ただ、大野駅の駅舎は立派すぎると思います。もちろん経済的に考えれば、被災地(というより過疎地域)に公共投資を行うことは正しいことなのですが、いかんせん旅情がないんですよね〜。本当に日本の公共施設はコスパを求めすぎ、もう少しデザインを考えてほしいです。こんな長期停滞下で公共事業の予算を絞るなんて言語道断、全くあり得ません。日本の財政について言いたいことは山程ありますが、とりあえず建設国債と赤字国債の違いぐらいは最低限勉強してください。

第2話はこれにて終了です。原発周辺の話だけで一話分書いてしまい、またもや夜行バスに乗らなかったじゃないですか…。でも安心してください。ここから翌朝までの間に、私は約800キロ移動します。お〜これは学生らしい!実にエクストリームだ!

次回へ続く

0日目

(夜行バス泊)

1日目

東京観光

(先輩宅泊)

2日目

東京観光

同級生宅見学

バス移動

(いわき市のホテル泊)

3日目
夜ノ森駅・大野駅周辺視察
続く

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