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憑依現象(霊障)について

今日は、憑依現象(霊障)とその対策についてお話しさせていただこうと思います。

「霊」というと、どうしても「幽霊」のようなおどろおどろしい怖いイメージを持たれてしまって嫌悪感を感じて逃げたくなる人もいるかも知れませんが、そういう話ではないのでご安心下さい。また僕はそういう霊の怖いイメージを利用して人を脅かしてお金を稼ぐ詐欺師ではありませんから、どうかご心配なさらないで下さい。

では、「霊」っていったい何でしょうか?
あなたはこの世の全ては素粒子でできていることはご存じかと思いますが、それは究極は超弦の波動です。そしてその波動はエネルギーであると同時に、思念・意思の乗り物なのです(音と同じですね)。そして意思というものは物質的ではなく霊的なものであり、実はこの世のすべてが霊だと言っても過言ではないのです。

殆どの人は、誰の意思も介在せず勝手に宇宙(物質世界)が生じ、物質から生命(意思)が誕生して、勝手に進化している(進化論)と考えていますが、そんなことはあり得ないんですね。物質も生命もすべては創造主の霊的思念によって生じているのであり(創造論)、我々はその分け御霊なのです。

霊的意思は集合して塊(かたまり)を形成します。細胞・ウイルスもその結果として生まれる霊の結晶のようなものです。もし脳が意思を作り出しているのであれば、脳を持たないウイルスのような極小生物が意思を持って動けるわけがありません。人間のDNAのほとんどはウイルスのものであり、人はいわばウイルスの集合体で、そのごく一部である「自分」が統括しているに過ぎないのです。

細胞・ウイルスは霊的意思の塊であり、それはフラクタル(相似形)連鎖し、指数関数的に自己増殖を繰り返します。(細胞・ウイルスは病気の原因ではなく結果なのです)そしてポジティブな霊とネガティブな霊が常に覇権争いをしているのであり、その戦いの場があなたの心(精神世界)であり、この物質世界であり、あなたの肉体なのです。そしてその戦いの結末はあなたという主人公次第ということです。(それが人生というRPGの基本設定です)

霊というものを単純に何か恐ろしい幽霊のようにイメージして怖がらないで下さいね。それはあくまでも霊のネガティブな一側面(霊的思念の汚れ=霊障)であり、もちろん注意は必要ではあるのですが、決して恐れるべきものではりません。そもそもすべての存在はワンネス(創造主の思念)であり、人間=霊で、世界=霊でもあるのですから。霊が霊を怖がるなんていうのは本来笑ってしまうほどバカげたことなのです。

人間というのは霊的思念の入れ物のようなものであり、それは上位次元の存在(神我)のアバター(化身)のようなものなのです。上位次元の魂(ハイヤーセルフ・本当のあなた)は智慧そのもののような存在であり、そのままでは成長できない・愛を経験できないので、あえて欠点が多く過ちを犯す愚かな存在(無明)である人間というアバターに入り込んで困難の多い人間界で自己成長し、愛とは何かを経験を通じてより深く学び、その過程の物語を楽しませてもらっているのです。

素粒子というのは究極は完全に同一のものであり、それが超時空的に遍在していて(だから素粒子には自己同一性がない=個性がないのです)それが周波数によって塊を作ることにより個性を形成しているのです。

個性というものは愛が存在するための必要条件です。そして個性は必ず欠点や過ちを含みます。お互いを尊重しあって欠点や過ちを許し合い補い合うことでしか愛は存在し得ないのです。個性(欠点や過ち)の存在ゆえに僕らが自分なんて大した存在でないと思わされているのは、そこから自他の存在の尊さに気づく過程が物語として美しいからです。

人類が最も知らなければならないことは、人間というアバターは、肉体だけでなく、左脳にある「これが自分である」という自意識(分離意識・自己同一化意識)までがセットだということです。このあたりの話は左脳の機能障害を自身で経験した脳科学者ジル・ボルト・テイラーの話が面白くてわかりやすいと思います。

我々は自意識・自己同一化意識により「自分」という存在を認識し、分離意識によりお互いに自分は他の存在とは違うものだと認識しなくては「他者」と関わることができず、人生という愛と成長の物語は成立しないのです。

人間の自意識(自我・分け御霊)は人生経験の主体者として仮に置かれているだけであり、それが自分の中の無数の霊を統括しているのです。つまり広義には憑依されていない人などいないのです。

人間は常に無数の霊に影響されているのにも関わらず、自意識は自分(肉体)の思考・行動の全てを「自分のものである」と自動的に統括します。しかしそれはあくまで自動的に行われるもので、その作業を「自覚」することはできないように人間は作られているのです。自意識が無数に分離していては人間は人生経験の主体者として成立しないからです。人生には常に変わらない「自分」が経験者の主体者・エピソード記憶者(語り部)として必要なのです。そうでなくては人生は物語になりませんからね。

「自意識(これは自分である)」は「分離意識(自分は他の存在とは違う存在である)」と「自己同一化意識(自分はこういう人間である)」で構成されており、これらが人間を経験主体者として成立させているのです。それらなしには成立しなくなるのですから、自意識(分離意識・自己統一化意識)の力というのは食欲・睡眠欲・性欲の三大欲求を超えるほどすさまじいものなのですが、その作業は無意識に全自動に行われ、誰もその作業を自覚することはできないように作られているのです。

人間に異なる複数の意思(霊的意思)があることは、分離脳(左右の脳の連絡が断たれた脳)の実験でも明らかになっています。左の脳では服を脱ごうとして右の脳では服を着ようとするなど、左右の脳で別々なことをやろうとしてうまくいかなかったりするのです。それでも自意識が「自分の経験」として自動的に後付けで統括してしまうため、分離脳患者でも意識が複数存在していることは自覚できません。

あなたが幼少時代の夢を見る時、あなたはその夢の中ですっかり幼少時代の自分に戻っているのに、夢の中でそれを自覚することはできません。例え夢の中でそれが夢であることに気づけたとしても、起きている時の自分の思考には戻れませんし、その思考を想像する事さえできません。その夢で例えどんな非現実的な事が起きてもその夢の中ではあっさりとそれを現実として受け入れてしまっています。結局、夢の中の自分が(世界が)いつもとは違っていることを自覚するのは目が覚めた後なのです。つまり自我の主体者が起きている時の自分に戻った後です。しかし自意識はどちらも一人の自己であるかのように「自分」の経験として自動的に統括してしまいます。それもまったくシームレス(継ぎ目なし)に。

夢の中で自分がいつもの自分と違っている(おかしくなっている・意識が顛倒している)ことを自覚できないのですから、この我々のいる仮想現実=夢の中において、自分が本当の自己とは違っている(おかしくなっている・意識が顛倒している)ことを自覚できないのは当然です。この仮想現実世界にいる限り、我々は本当の自己(神我)の思考を想像することすらできないのです。

またキレると人格が豹変する人は多いですが、それも実際に自我の主体者がほとんど切り替わっているのです。そして特に男性で性欲が高まってムラムラすると抑えが効かなくなる感じの人がいますが、それも自我の主体者はほとんど切り替わっているということなのです。どちらも醒めた後で本人は「なんであんなことをしたのだろう?」と思うのでしょうけども、自分も他人も別人がやったとは決して考えません。このように我々は常に霊的意思(の穢れ)に自我を犯され振り回されているのです。

記憶喪失の人は、自分が誰だかわからないのに、大抵の場合は会話をしたり食事をしたり着替えたりトイレに行ったり日常生活を普通に送ることができます。それは失われているのが記憶ではなく主人格の方であり、主人格不在でも霊的意思によって肉体・脳が動かされているからです。「自意識は肉体というアバターとセットである」というのはそういうことです。

この点については飲酒もわかりやすいです。酔っぱらって絡んでくる人に「あなたは酔っぱらってます」と教えても絡むのをやめたりはしません。酔っている時は酔っていない時の意識が眠っている状態なのです。だから例え自分が酔っていることに気づけたとしても、酔っていない時の意識・思考には戻れません。やはり酔っているということを本当に自覚するのは、酔いが覚めて自我の主体者が酔ってない時の自分に切り替わった後です。つまり人間は「今、酔っている」ということを本当の意味で自覚することは不可能であり、醒めた後に「『自分は』酔っていた」と過去形で認識することしかできないのです。

しかし自意識は酔っている時の自分も酔ってない時の自分も両方が自分だと自動的に統括して考えます。そして酔っている時に何か悪い事をしていれば自己嫌悪に陥るでしょうし、人間単位(肉体単位)で他人から責められ、その責任を負わなければいけないのがこの世の定めです。「酔っぱらっていたので覚えていません」は他人にも自分にも通用しないのです。

だからお酒でも精神薬でも麻薬でも自我の主体者としての地位を霊障に明け渡すような行為を意図的にやること(自分自身・現実からの逃避)はとても愚かなことなのです。霊障は自由にその人の記憶を利用して悪さをすることができますし、脳は霊障がやったことも「自分」がやったと自意識で統括しますから、ものすごく厄介なんです。霊障が言わせたりやらせたりした嫌な事でも、相手も自分自身も本人が普段抑えている本心ゆえだと考えますからね。

精神病も基本的に全て霊障が原因であり、言わば1日中酔いから醒めないようなもので、霊障によって半ば自我を乗っ取られている状態なのです。霊障というのは敵対的TOBにおける株式取得のようにジワジワと自我を占有していき、50%を超えたところで完全に本人の経営権(自我)を乗っ取ってしまうのです。それでも変わらない自意識というものがあるために、本人に現在の自分が本当の自分とは違っている(おかしくなっている・意識が顛倒している)自覚はありません。長年精神を病んでいると、それが本人の性質であるかのように思ってしまいがちですが、決してそうではないのだと知って下さい。

酒や麻薬やギャンブルなどの依存症もすべからく精神病であり、霊障が原因なのです。その根本的な原因もやはり鬱と同じで自分と世の中からの「逃避」です。自我を霊障に乗っ取られている状態なので、例え愛する家族を不幸にして将来がめちゃくちゃになるのが目に見えていても、完全に破滅するまで自分ではやめられないのです。(だから身内に何かの依存症の人がいても、自分は愛されていないなどと考えてはいけません)

この「現在自意識の主体者が切り変わっていることを自覚することは不可能なのに、その全責任を『自分が』肉体単位で負わなければいけない」というこの世のシステムはとんでもなく人生の難易度を上げています。「自分」というものは常に霊的意思に振り回されて主体者が切り替わるような脆いものなのに、誰もそれを認識していません。今の自分を本当の自分だと思って疑うことすらできないのです。

ですから我々は「自分」というものが最初からあるものだと考えず、芸術作品のように日々作り上げていく必要があるのです。「自分」というものを深く見つめ、「自分」の哲学を構築し、「自分」との約束を守り続けるのです。そうすることで「自分がどんな存在になりたいか?」というその理想通りに自分で自分を形作っていくのです。そしてその意思こそが本当のあなた(神我)なのです。我々はそうやって己の魂で様々なネガティブな霊の思念に影響される感情をコントロールできるようにならなければいけないのです。そして気づかない間にネガティブな霊に主体者としての地位を犯されて明け渡すようなこと(飲酒や薬物など)はしてはならないのです。

自己(本当の自分)がしっかり確立されてくれば、いつもの自分とは違う悪い思考が起きた時に「ああ、これは霊障がやらせようとしていることだな」と冷静に考えて悪い行動を途中で回避することができますし、他人がやった悪い行動も「この人は霊障に犯されているのだな」と同情して許すことができるようになります。

この己の魂による霊の制御を難しくするものが「自己否定感や自己嫌悪心」であり、「人生・世界を嫌になる気持ち(厭世観)」なのです。あらゆる精神病は基本的に霊障が原因であり、自分(=人生・世界)を嫌うあまり「自分が自分である事」に耐え難くなり、気づかない間に少しずつネガティブな霊たちに主体者としての地位を明け渡してしまって、精神が分裂状態になり、自分をコントロールできなくなっているせいなのです。

多くの人は他人に見下されたり社会から排除されたりしないようにその自己否定感・自己嫌悪心・厭世観を必死で押し隠すことにより余計に悪化させ、それが無意識のレベルに深く浸透しています。そして自分自身ならいくらいじめても構わないかのように自分を責め、劣等感の解消のために他人を見下したり責めたりして人間関係が悪化して益々自己嫌悪に陥るのです。

そうして飲酒にしろ精神薬にしろ麻薬にしろ自己逃避のためにやれば霊障に主体者としての地位を奪われるのは当然でしょう。かくして霊障に犯されてコントロールが利かなくなった人は悪い思念が止まらなくなり、悪い出来事を引き寄せ、ますます自分が嫌いになり、人生が嫌になる悪循環にハマるのです。統合失調症や多重人格症など重篤な精神障害も基本的にはそのような負の連鎖の結果で起こるものなのです。

鬱になると「自己同一化意識」がネガティブに働き、自分の欠点や過ちや世の中の嫌な部分だけを選択的に思い出し、それを反芻して追体験を繰り返し(反芻思考)、「自分はダメな人間である」とネガティブに自己同一化し、自分自身や世の中を嫌になる自己嫌悪と厭世観の高速回路が脳内に出来上がってしまうのです。

だから鬱を解決するには、まずそのネガティブな自己統一化意識を外せるよう、自分が霊の集合体であり多面的な存在であることを意識しなくてはいけません。そして欠点や失敗は誰にでもあるもので、悪いことは全部霊障がさせているものだと気づいて自分も他人も責めずに許し、自分を好きになれるようなエピソードを積み重ねることです。そして日々霊的穢れを清めることです。それが鬱(自己嫌悪と厭世観の高速反芻回路)から自分を救います。

さて、ここまでは広義の憑依の話でしたが、狭義の憑依はレベルが違います。狭義の憑依は実際に生きている人やかつて生きていた人のネガティブな霊の塊(人生経験を記憶し人格を有している霊。エーテル界やアストラル界の意識体。動物などの場合もあり)に自意識をほぼ完全に乗っ取られることであり、主人格は乗っ取られている間のことをあまり覚えていないことが多いです。そうなりやすい人は恐らく特に自己肯定感が低く自己嫌悪心と厭世観の強い人ということなのでしょう(本当はもっと色々な素養がカルマとしてあります。そしてこれはポジティブな霊や神々に神がかりされる人には当てはまりません。また霊感が強ければ霊に乗っ取られやすいということではありません)。信じられないかも知れませんが、僕が毎週参加しているシャーマニズムの儀式において、憑依現象というのはお約束みたいに日常的に起きることです。

因果(原因と結果)は循環しているものであり、自己肯定感が低く自己嫌悪と厭世観が強い人が霊障に乗っ取られやすくなるのと同時に、霊障側は乗っ取るために常に主人格の自己肯定感を下げて自己嫌悪と被害妄想に陥れ、悪い出来事を引き寄せて厭世観に浸らせようとしてくるのです。そして自己逃避・現実逃避から酒や精神薬や麻薬など自ら自我を明け渡すようなものを求めさせます。そして自分も世の中もとことん嫌にならせて「そんなに要らないなら私がもらってあげるよ」と自我を完全に乗っ取りに来るのです。これはどっちが先でどっちが後かを考えることに意味はありません。どっちみち自己肯定感が上がる生き方をしなければ幸せにならないことに変わりはありませんから。

ネガティブな霊(思念の塊)というのは、自分の経験した痛みや悲しみなどを、波動が近くて自分に似た人間や、恨みのある人間(その子孫などへの逆恨みってこともあります。彼らは被害妄想の成れの果てですからね)に憑りついて相手を自分のコピー化し、同じ経験をさせて強制的に同情させるよう導こうとするのです。

そうならないようにするにはどうしたらいいかというと、まず信心を持つことです。(霊障は自発的に信心を起こさせるためにあるとも言えます)そして神に尽くし神に守ってもらい、日々霊的な穢れを祓うことです。つまり浄霊ですね。

どうかたくさんの宗教を学んで下さい。一つの宗教に固執すると騙されたり道を誤りがちです。比較対象がないと良し悪しを考えることは難しく、だからこそ宗教詐欺というのは信者が他の宗教も同時に信仰することを嫌がります。騙しにくくなり、吸い上げる利益が目減りしてなくなってしまうかも知れないと考えるからです。自信があるのなら「どうぞ他所とウチを比べて下さい」となるはずでしょう。

世界救世教や真光などは無料で浄霊をしてくれますから、騙されたと思って行ってみて下さい。入信しなくていいですし、お金を払う必要もありません(自発的に寄付することは素晴らしい事ですが、ごくごく少額で大丈夫です)。無理に勧誘されたり奉仕や寄付を強請されそうになったら一目散に逃げて下さい。

僕らの魂はトイレのように常に汚されますから、常に掃除を怠らないことが大事であり、それこそが信心を形にすることであり、霊的成長なのです。たまに大掃除をすればしばらくはOKというものではありません。常に霊的にも衛生的にも清潔を保ち、心の波動を高く保って下さい。

そして憑依の根本原因は自己否定感・自己嫌悪心の強さなのですから、自己肯定感を高くして自分を愛し、心の波動を常に高く持つことが大事です。それはつまり真理を求め覚りを開いていくということです。

もちろん「それができたら苦労しねーよ」と言われることでしょうが、どうすべきかは既にnoteに書いています。本当に霊障に犯されているカルマの深い人はこういう情報を無意識に避けてしまうのでしょうけど、どうか頑張って読んでみて下さい。

「誰でも自信満々になれる方法」
「悪いカルマの解消法」
「反省してはいけない」
「人の価値とは?」
等々。一読で理解し受け入れられるような内容ではないので、何度も繰り返して読んで少しずつ実行してみて下さい。

霊障を解決するには霊能力者になる必要は無く、霊が見える必要などは全くありません。基本は信心を持って日々浄霊することであり、神の分身である自分と他人に等しく無償で奉仕することです。奉仕というのは必ずしもお金や労働を提供することではなく、出会った人(神の分身・霊障に犯されている人)を無条件で尊敬し、存在に感謝し、罪や恥を許し、愛することです。出会った人の自尊心を一人ひとり高められる人になれば、みんなから愛され、自己肯定感は自然と上がるのです。相手の自尊心を上げるというのは変にお世辞を言ったり遜ったりする事ではなく、出会った人を例外なく許し・尊敬し・感謝し、愛することなのです。そしてそれを心からの笑顔で表すことです。このあたりの話は誰でも自信満々になれる方法に書きました。

心からの笑顔が素敵じゃない人はいない

そして相手の話を真剣に、肯定的に聞くことです。相手の言う事に従う必要はありませんが、その場で否定することはありません。それは当人が美味しいと思ってプレゼントしてくれている言葉という料理をその場でゴミ箱に捨てるようなものですから、人間関係がうまく行かなくなって当然です。

そしてもしあなたに何か悪いことをする人がいたら「ああ、これは霊障がやらせていることなのだな」と許し、あなたがやったことも「霊障がやらせたことだから仕方ないな」と自分自身で許すことです。相手に許されるかどうかより自分で許せるかどうかが大事です。人がやることはみんなそれぞれのカルマの中でそれなりの事情(歴史・因果)があってやむにやまれずやってしまっていることなのですから、自分も他人も責めず同時に許すことが肝心です。答えはいつでも「誰も何も悪くない」です。ただすべてを精神病(霊障)のせいにさせてもらえば良いのです。

「反省してはいけない」に書いた通り、霊障に犯されて悪い行動が止められない自分や他人を責めても、ますます自己嫌悪と厭世観が強まって逆効果です。だからどうすれば自分と相手の自尊心が高まるか以外考えてはならないのです。

霊障に犯されている人というのは自己嫌悪と厭世観に満ちているため、大抵は愛すべき家族(特に嫌な世の中に嫌な自分を存在たらしめた親)を一番恨んでいるものです。しかしカルマは連鎖するものであり、あなたが親のせいで不幸になっていると考えるのなら、親もまたその親のせいで不幸になっているのであり、その親もその親もずっとそうなのです。それは神の人間創造まで果てしなく続き、親を恨むのは創造主を恨むのと同じなのです。だからこのカルマを断ち切るにはあなたが親と自分を許す以外にないのです。

あなたという存在は永遠不滅の魂であり、この仮想現実世界にログインする際に、プレイヤーであるあなたのアバターが今の親から生まれてきたという設定(運命・必然・シナリオ通り)になっているということなのです。仮想現実RPGであるこの世界に偶然は一つもなありません。「親ガチャ」などという発想がいかに愚かかを知って下さい。そして時間は幻であり、全ては一つ(ワンネス)ですから、親を自分の子供のように思ってより高い見地から許すことが大事です。

霊障というのは人の痛み・苦しみ・悲しみ・恨みなど負の感情の結晶のようなものです。僕が浄霊してあげると本人は訳もわからず泣き出すことがとても多いです。それは霊障が流している涙であり、僕は「さぞつらかったのだろうな」といつも貰い泣きしそうになります。霊障(に犯されている人)にも同情と愛をもって接して下さい。どうかそういう菩薩のような優しい人になって下さいね。その愛は連鎖し、いつか必ず世界は救われるのです。

霊障というのは、元々一つの光である我々の魂を分離するための影(無明・愚かさ)であり、分離意識を強めるためのもので、言わばお餅や蕎麦がくっつかないようにまぶす「粉」のようなものです。それがないと我々の魂は最初から一つになってしまいますから「個」が成立せず、人生は愛と成長の物語には成り得ないのです。このあたりの話はエゴ(欲)とは何か?をご参照下さい。霊障は憑りついた人をエゴまみれで暗く愚かにさせます。それが他人の心を見えないように心の目を遮るのです。愛が引力であるのに対してエゴは斥力(反発力)ですから、エゴ同士は必ず反発します。だから霊障に犯された人は無意識に嫌な事を言ったりやったりして、全体から分離され孤独になろうとしてしまうのです。霊障は自分と言う「個」を成立させるために自らを孤独に陥れる「個・毒」なのです。

人が嫌な性格になるのはすべからく霊障のせいであり、本人のせいではないのです。霊障は憑りついた人の人間関係を破綻させるために、相手が一番嫌がることを完全にわかった上でピンポイントでそこを攻めさせますから、霊障に憑りつかれている人の話を聞くというのはかなり忍耐力が要りますが、それこそが修行であり、それを避けていたら誰も救えません=成長しません=ゲームが進みません。嫌な人を無理に追いかける必要は無く、ただ会ったら避けずに笑顔で接し、話を肯定的に聞いて気持ちを共有すれば良いだけです。どんな嫌な事を言われても笑い飛ばせるようになれば、相手を救うことができるようになります。相手は相手のゲームをしているのですから、直接答えを教えるのではなく、己が(愛の)実践を通じて相手に答えを覚らせなければなりません。

精神病は霊障であり、それは人を不幸に導くものです。しかしそれは成長し幸せに至る物語を生むために必要な課題なのです。不幸を乗り越えずに幸せを感じることはできません。より大きな不幸を与えられているほどそこを乗り越えたらより大きな幸せが待っているのであり、そういう人が他人の不幸を救って幸せにできるのです。悲しみへの同情=慈悲こそが愛であり、悲しみを経験せず、悲しみへの同情を伴わない愛など愛とは呼べないほど軽薄なものにしかなり得ません。悲しみは愛のマテリアル(素材)であり、創造主の愛によって与えられているものだと知って下さい。

だから今現在精神病・霊障に陥っている自分を責めたり劣等感を感じて余計に自己否定感・自己嫌悪心を強めないで下さいね。またそうなった自分を誰かのせいにして恨んだりしないで下さいね。精神病・霊障という困難はあくまでも成長して真理に至るため・幸せになるための課題(カルマ)であり過程に過ぎないのです。そういう痛み・苦しみ・悲しみを乗り越えて自分も他人も含めてすべての存在を愛せるようになるための試行錯誤の経験こそが人生の価値なのです。

人生はRPGであり、ネットゲームでログインした人が全員主人公であるように、あなたの人生の主人公はあなたです。あなた=世界なのです。あなただけに用意されたシナリオがあるのですから、決して他人と比べたり、クリエイターに恨みで返したりしないで下さい。悪いカルマの解消法に書いた通り、与えられた困難をありがたいと思って受け取って乗り越えればその困難の大きさに乗じた幸せが与えられるのです。

霊障とはあなたが悪いから存在しているわけではありません。バイオハザードでもゾンビはあなたという主人公が悪いから存在しているのではななく、またゾンビになった人やゾンビウイルスを作ったアンブレラ社やゲームを作ったカプコンを責めてもゲームは進みません。人生というRPGもそこは全く同じなのです。すべてあなたの勇気を試すため・成長を促すため・物語を面白くするために与えられている課題なのです。だから誰のことも責めることなくただ前に進んで下さい。

世界は全て自分次第にできていますが、それは悪い事を全部自分のせいだと考えるということではなく、過去を全部必然・設定・伏線だと考え、それを起点に現在の思考・行動を変え、より良い未来のシナリオを選択していくことなのです。

この人生というRPGは愛と勇気を試すためのものですから、当然この世界はあらゆる存在があなたを脅して臆病・不安にしてくるでしょうが、決してそれに屈してはいけないのです。人が臆病に作られているのは、最初から何も恐れない人の勇気に存在価値はないからです。臆病なあなたが愛によって振り絞る一握りの勇気にこそ価値があるのです。

〖追記〗
「霊・霊障とは何か?」「どうすれば浄霊できるか?」ということについて更に詳しく知りたい方は、こちらの質問箱の浄霊の効果を高めるには?をどうぞご参照下さい。

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