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構造主義•ポスト構造主義を元に生き方を考える

部活をやめて3ヶ月がたつ。

部活を辞めるという選択肢は社会構造の枠からはみ出すことができたのではないかと考えたが、それも辞めるか辞めないかの選択肢を組織という概念から選択肢を与えられているのに過ぎず、構造の奴隷なのだという考えに至った。


原始時代で見れば弓を持ち狩りを行うように、現代で言えばマックのポテトがサイズがS .M.Lと決められて好きな分量を頼めないように、意思決定は構造の枠からは抜け出せず、与えられた選択肢の中で生きているに過ぎない。

そうなると人の意思決定とは自分で選んでいるものでは無いのではないか? という問に至る。

例えばスタンフォードの監獄実験を見てみるとわかりやすい。

スタンフォードの監獄実験とは、スタンフォード大学で心理学者フィリップ・シンバルドーが行った実験で本物に似せた実験用の刑務所を作り実験参加者にそれぞれ看守と受刑者のグループに別れてもらい、人は地位や役割を与えるとその役割に合わせて行動してしまうことを証明しようという実験である。

結果は看守役の被験者は自分たちの役割を当然のことと思い込み、受刑者役の被験者たちに対して残酷で非人道的となり、受刑者は日が経つにつれ、権力に服従するようになって言ったと言う。

背景としてこの実験を行った心理学者フィリップ・ジンバルドーは元々スラム街出身であり、悪事に手を染める友人たちを見て、状況が人を変えるということを目の当たりにして育った。

ジンバルドー自身はスラムから出るために学問を志し、心理学を学ぶ。
しかし、当時の心理学では人の行動は元々の性格や気質で決まると考えられていた。
そんな中、ジンバルドーは状況が人の行動に強く影響するという状況論を強く支持し、それを実証しようとした。


 この実験結果を見てみると周囲の環境や役割などにより無意識に考えや行動が決定づけられているのが分かる。

つまり、人間がどう考えるかもその人が生きる社会の生きるシステムによって無意識に形作られてしまっているということである。

それは、人々の考えも与えられた社会構造という環境の中から生まれたものに過ぎず、私自身、哲学に興味を持っているのもこうしてnoteに投稿しようと思うようになったのも過ごしてきた社会構造の環境による影響を受けているに過ぎないのである。

すなわち構造主義とは

「人間がどう考えるかはその人が生きる社会のシステムによって無意識に形作られている」

ということである。


さて話は戻るが、

私が言いたいのは「人は環境によって決定づけられている」ということである。
これはポスト構造主義的考えに近い。

ポスト構造主義とは簡単に言わば構造主義を乗り越えようとしたが結局は抜け出せなかったという考えだ。

構造主義はあくまでこの構造を作っているのは自分達であるため、自分達で構造を作ることができるという希望があった。

しかし、ポスト構造主義はそうして変えようとする意思自体が構造主義に囚われているものに過ぎないとし、希望をぶち壊した考えである。そして現在、この考えをひっくり返す考え方は出てきていない。

ポスト構造主義の代表例としてイギリスの哲学者ベンサム(1748〜1832)の設計したパノプティコン刑務所が挙げられる。

パノプティコンとは翻訳すると全展望監視システムのことである。

パノプティコンは、円形に配置された収容者の個室が多層式看守塔に面するよう設計されており、ブラインドなどによって、収容者たちにはお互いの姿や看守が見えなかった一方で、看守はその位置からすべての収容者を監視することができた。

ベンサムの構想では、収容者には職業選択の自由が与えられることになっており、刑期終了後も社会復帰のために身体の安全が確保され、更生するまでこの施設で労働することができる。パノプティコンは単なる刑務所ではなく、社会に不幸をもたらす犯罪者を自力で更生させるための教育・改造するためのシステムであった。

このパノプティコンは刑務所の話にとどまらず、社会全体がそうだと言える。

つまり、私たちの住む社会は「監視による強制」という刑務所と同じような社会で出来上がっているのである。

例えば私が何か組織を抜けたとしよう。

その組織にとって抜けるという行為はおかしい、間違っている。という人間が現れる。そして組織内で変わったことをすれば排他的に扱われたりすることが多々ある。そうした事例から組織内の人間は誰かに監視という眼差しに晒され、人と違うことをひどく恐れる様になる。

つまりこの組織内で人が眼差されることにより、正常と異常を区別させることでその人の考えから人格までをも矯正させているのである。

また、最近はSNSの発達により、誰もが簡単に監視の目を公に晒せる様になった。そうしたテクノロジーの発達により監視の目は強固となり、矯正がより徹底された社会構造となった。

そうして、監視社会から相互監視社会へと移り変わったわけだが、この構造は破壊のしようが無くなってしまった。これは先ほど述べたポスト構造主義の考えと位置している。私たちは監視という構造の枠組みを作ったが為に、抜け出すことができなくなってしまったのだ。


故に、人は、自分を支配する構造を、自らの意志で変えることも抜け出すこともできない。

それは、もはや人間が「人間にとっての正しい社会」を作っているのではく、社会が「社会にとって正しい人間をつくるという立場逆転が起こってしまったのである。


私は部活を辞めた。

10代の大部分を部活動で占めた私にとって、失うものが多いと思ったが存外そうでもないらしい。

時折、新しい私という未知に排他的である人々がいる中、新しい私でも変わらず接してくれる人がいるのを知っている。

故に私は新しい私でいることに躊躇いを持たずに生きることができている。

それは私の構造社会が素晴らしい友人らとともに出来上がっているからである。



生きていくということは選択の連続である。

進学から就活、部活動と

学生ともなれば嫌という程選択を迫られる。

たくさんの選択肢がある中この時は間違っていたと思う時が来ても

ただせめてあの時はこれが最善であったと言えるように生きていきたい。


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