いじめをなくすには?

「風雲児たち」の一場面。大黒屋光太夫一行は何ヶ月にもおよぶ漂流を続けたが、他の日本人漂流者達と違って仲間割れをせずに済んだ。その秘訣を尋ねられ、光太夫は「目標をはっきりさせた」と答えた。マンガだけど、これ、重要な示唆のように思う。

「風雲児たち」第9巻


「子育ての大誤解」という本の中で、面白い事例が紹介されている。ある伝説的な教師がいたのだけど、その生徒たちはその先生の教え子であることを大人になっても誇りに思っていたという。さらに興味深いことに、担任してもらったことのない別クラスの生徒まで「自分は教え子だった」と記憶が改ざんされるほど。

この教え子らは、社会に出て活躍する人たちが大変多かったという。そしてその理由は、先生の生徒であったからだと考えていたらしい。大人になっても強く記憶されることになったその教師は子どもたちに何をしたのか?
何度も繰り返し「あなたの使命は?」と問いかけたらしい。

あなた達一人一人に使命がある、その使命は何なのか、考え続け、探し続けなさい、と諭したのだという。生徒たちは「そうだ、自分には自分にしかない使命があるはずだ」と探し続け、努力を怠らなくなり、普通では考えられないほどたくさんの成功者を出す原動力となったらしい。

「子育ての大誤解」という本では、とある家族の物語も紹介されている。両親は学歴も社会的地位も特にあるわけではない平凡な人だったが、父親は子どもたちに繰り返し「お前たちには重要な使命がある」と語りかけていたという。その使命が何なのかは子ども自身が探すわけだけど、使命を探すうち。

これこそが自分に与えられた使命だ!という分野に出会ったとき、それに邁進するものだから、どの子も学をおさめ、社会で大活躍するようになったという。
自分の使命、天命を探し求める。これだろうか、というものを見つけたら邁進する。これはとても大きな力になるらしい。

小泉八雲「怪談」だったと思うけど、こんな話がある。ある罪人が今にも首を切られようとしていた。しかし罪人は「この場にいる連中、全員呪い殺してやる」とすごい剣幕。その場にいた人間はみな震え上がった。そこで代官が「本当に呪い殺せるなら、首になったあと、あの石にかじりついてみせろ」とけしかけた。

そして打ち首。コロコロと前に転がった首は、なんと本当に石にかじりついた。その場にいた人間たちはパニック!本当に呪い殺されてしまう!しかし代官は平然としてる。部下達はやや腹を立てながら「呪い殺されるかもしれないのに、なんでそんなに平気な顔をしてるんですか?」と尋ねた。すると。

「なに、石にかじりつくことに必死で、呪い殺すことなんて忘れていただろうさ」と答えたという。
ここで光太夫の話に戻すと、光太夫以外にもいくつか日本人漂流者のグループはあったという。しかし仲間割れが絶えず、喧嘩ばかりしていた事例が多かったようだ。

しかし光太夫達は、少しずつ仲間が減っていった(死んでいった)ものの、基本的に結束が失われることはなく、何年にも及ぶロシアの生活でも常に仲間たちは行動を共にした。他の漂流者たちが仲間割れする中で、光太夫達がそれを起こさずに済んだのは、目標、使命の有無が大きいのかもしれない。

仲間割れやいじめというのは、目標や使命を感じることができずにいるとき、手持ち無沙汰になった心が、ヒマを持て余して、弱い者、憎い者を標的にして起きる現象なのかもしれない。心がヒマになったとき、少し気に入らない、あるいは気になることがあると、そこに意識がフォーカスしてしまう。

意識がフォーカスしてしまうと、意識はあら探しが非常に上手なものだから、どんどん腹の立つ事柄が浮かび上がってくる。意識はさらにその意味を増幅させてしまう。ついには「許しがたい悪人」に仕立て上げ、仲間割れやいじめの原因にしてしまうのかもしれない。

首を落とされた罪人に、代官は「石にかじりつけ」という「目標」を巧みに与え、「呪い殺してやる」という罪人の本来の目標から微妙にずらすことで、呪い殺すことから意識をずらすことに成功した。この「意識をずらす」ことの一つの形として、目標、使命を考える、ということがあるのかもしれない。

秩序重視の教師の場合、教室の中で陰湿ないじめが発生することがある。これは恐らく、秩序を守るということが目標としては物足りず、心がヒマになってしまうからだろう。むしろ秩序を表面的には守りながら、気に入らない人間をいかにやり込めるかというゲームを始めるゆとりを与える。

秩序重視の教師のもとでは、しばしば優等生がいじめの主導格になることがあるらしい。気に入らない人間をクラスメート全員でターゲットにし、その子を苛立たせるような陰湿ないじめを続ける。ついに我慢が切れ、その子が暴れ出すと、「秩序を乱した」として教師に罰せられるのはイジメられっ子。

以前、「魔法を使う先生」というブログが評判になったことがある。筆者が幼稚園(保育園?)児だったとき、ある普通の先生は叱って脅していうことを聞かせようとばかりして、子どもたちは反発し、なかなかいうことを聞こうとしなかったという。そこに別の先生が現れた。

「はーい!この指の数は何本でしょう?」数人の子どもが振り返り、「いっぽーん!」
「正解!じゃあこれは?」「さんぼーん!」なんか楽しそうなことが始まってるぞ、と、他の子どもたちもワラワラ集まってくる。こうして指の数クイズを続けてるうち、子ども全員が集まった。

「さあ、最後の問題!今度は難しいぞ!答えられるかな〜?」子どもたちはみんなワクワクして待機。「これは?」「じゅっぽーん!」
「大正解!さあ、次は競争だ!みんな教室に戻るよ!よーい、どん!」子どもたちは一斉に教室に我先と走り出した、というような話。

教師によっては、秩序重視の場合がある。しかし秩序というのは「結果」として得られるものでしかなく、どうやら「目標」とするのに向かないものらしい。今紹介した幼稚園の先生は、楽しい目標を掲げることで自然に生徒たちの心をまとめ上げ、結果的に「急いで教室に戻る」という秩序を確保している。

光太夫は、「どれだけ時間がかかろうと、絶対伊勢に戻るぞ」という、全員が楽しめる目標を掲げることで、いじめや仲間割れするヒマを与えずに済んだのだろう。そんなヒマがあるなら、伊勢に戻るための工夫と努力をしたほうがマシ、という心理にみんながたどり着けたのだろう。

「奇跡の教師」と呼ばれた人も、使命は何なのか、具体的なことは一つも明示しなかったとはいえ、どの子にも「あなたにしかできない使命がある」と伝え続けたことで、子どもたちはいじめや仲間割れといったことに余計なエネルギーを費やすヒマを持たずに済んだのだろう。

松平定信や水野忠邦らの改革が、終盤には大変評判の悪いものになったのは、恐らく秩序重視だったからのような気がする。武士が一番、特に徳川が一番という目標は、庶民からしたら楽しくない目標。それはただの「秩序」。だから心がヒマになり、反発したくなるのだろう。

みんなが共有できる、楽しい目標、使命を掲げる。秩序は、その結果として現れるものなのかもしれない。スポーツ漫画なんかでも、勝つという楽しい目標をチームメイトで共有できたとき、ものすごい力を発揮する、というストーリーは、読者をワクワクさせる。他方。

「勝つためにはオレのいうことを聞け」と、勝つという楽しい目標より、誰かのための「秩序」を守ることが重視されると、とたんにチームがバラバラになってしまう話も漫画でよく描かれる。漫画だからフィクションかもしれないが、案外、共感できるところが多いのではないか。

秩序は結果でしかない。結果でしかないものを目標に掲げてしまうと、むしろ秩序は内部崩壊してしまうらしい。けれど、楽しい目標があり、その目標達成には助け合ったほうがよいことが誰の目にも明らかになっている場合、自然と秩序は生まれる。みんなが楽しめるように。

いじめをなくすにはどうしたらよいか?ということがテレビなんかでもよく話題になる。今のところ、私の仮説は「楽しい目標を掲げること」、「楽しいから心がヒマを持て余さなくなること」、この2つの状態を実現することがポイントになるのではないか、と考えている。

ちなみに、「子育ての大誤解」という本の中には、もう一つ事例が紹介されている。ある一定数の子どもたちを放置すると、2つに分裂し、互いにいがみ合うようになるのだという。いわゆる仲間割れだ。
子どもたちは心がヒマになり、誰かが気に入らないとなると、「なあ、あいつ腹立つと思わない?」

「思う思う!」と共感し合う子どもたちで群れるようになり、相手方は相手方で「あいつら、腹立つと思わない?」「思う思う!」と、共感を求めて集団を作る。こうして2つに、人数が多い場合は2つ以上に分裂し、他グループとの違いを際立たせ、自グループの共通点を強調する。分裂抗争が激しくなる。

心は、ヒマを持て余すと、自分と同調してくれる人間を求めつつ、気に入らない人間をなんとかしてやりこめてやろうという「ゲーム」を始めてしまうらしい。指導者に求められるのは、もっと楽しい「ゲーム」を示して、そうしたヒマのないようにすることなのかもしれない。

いじめをなくすには、みんなが共有できる楽しい目標をはっきりさせること。あるいは、各人が自分なりの使命を探し、それを探す上では助け合うほうがメリットのある状態を作り上げること。それが一つのコツなのかもしれない。

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