「親のように立派に」という呪い

父親が社会的にも認められた立派な人物である場合、子どもも立派に育つかというと、そうではないらしい。ガンジーは世界的にも知られる有名人で、その偉業は誰もが認めるところだけれど、息子は父親であるガンジーに反発していたらしい。

農林水産省元事務次官が息子を殺害した事件も、その一つかもしれない。事務次官といえば、官僚の世界で頂点を極めた人。息子も小学生くらいまではとても成績優秀だったらしいが、長じるにしたがって歯車が狂い出し、家に引きこもったような状態になっていたらしい。

「お父さんは努力して今の地位についた。お前も頑張れ」
このように常に声をかけられ、育てられた子は、小学生くらいまでは素直に言うことを聞き、優秀な成績をおさめるかもしれないが、思春期になるとどうも歯車が狂い出すらしい。

「疲れる」のだと思う。子どもは親に認めてほしい。だから幼いうちは素直に言うことを聞いて頑張る。親に認めてほしくて。ほめてほしくて。しかし中学生の思春期あたりになると、「親にほめてもらえる」は動機になりづらくなる。親ではなく、家族ではない第三者との関係が重要になってくるらしい。

中学生にもなると、親の欠点が見えるようになる。それまでは親はとても立派な人物だと素朴に信じていたし、好きでもあるけれど、思春期特有の反発が嫌悪感を生み、嫌悪感から様々な欠点が目につき、鼻につくようになる。

こうなると、子ども(というより青年)は、「お父さんのように努力しなさい、立派になりなさい」と言われたら、アマノジャクな気持ちが頭をもたげるだろう。勉強はしなきゃと思う反面、「お父さんみたいになりたい」はもはや動機にはなり得なくなる。

「お父さんみたいになりなさい」だけは断固拒否したいお年頃なのに、親はこれまでの成功体験(子どもが素直に親の凄さを認め、憧れ、やる気を示してきた成功体験)があるものだからついつい今まで通り「お父さんみたいに』と声をかけてしまい、子どもの反発を招いているのかもしれない。

なぜ親は「お父さんみたいに』のように、親を尊敬し、親のようになれと育ててしまうのだろう?2つほど理由があるだろう。上述したように、子どもが素直に親の言うことを信じ、親を尊敬し、親のようになりたいと願う年少時代があるから、つい安易にその手を使ってしまうこと。
もう一つは。

親の承認欲求かもしれない。努力し地位を築いた人間という自画像を、子どもにも受けとめてほしい。子どもから尊敬されたい。憧れられ、「お父さんみたいになりたくて頑張りました」と子どもに言ってもらいたい。そうした承認欲求を子どもに、ぶつけている面があるかもしれない。

小学校卒業くらいまでは、子どもも素直に親の言うことを聞くから、それで歯車が回るかもしれない。しかし、ともかく親のやることなすこと話すことに反発を覚える思春期を迎えた場合、「親に憧れ、親の言う通りに努力してきた」これまでの自分の存在そのものが許せなくなるのかもしれない。

勉強はしたほうがいい、成績も良いほうがいい、とリクツではわかっていても、「親の敷いたレールを走る自分」を許せなくなる思春期を迎えた場合、一体自分をどう動機づければよいのかわからなくなるのではないか。勉学のすべてに「オヤジのニオイ」がこびりついているように感じるのかもしれない。

私が「親の背中を見せる」という考え方に疑問を持つのはこのあたり。思春期前は素直に親の背中の大きさを認め、すごいなあ、と思うし、憧れるかもしれない。しかし思春期で反発が強まった時期には、その背中は蹴りたいとは言わないまでも、小突きたいものに変わってしまう。
https://note.com/shinshinohara/n/nf3039be0e41e

なのに、勉学を「親のようになるため」で染め上げられた過去があると、反発したくなる反抗期を迎えた場合、勉学そのものが親の象徴となり、やる気のわかないものになってしまうリスクがある。

思春期、反抗期の時代に、本来自分のためであるはずの勉学に拒否症を示すのであれば、「親のように」という声かけを幼い頃から続けることは、危ういように思う。
恐らくガンジーの周りには、ガンジーを尊敬する人が大勢いただろう。そしてガンジーの息子に「お父さんのように」と言ったかも。

それが思春期に入ったとき、「父親のようにだけはなりたくない」となったのかも。周りが「お父さんみたいに」と囲い込み、追い詰めようとしているように感じ、別の生き方をしたくなるのかもしれない。しかし父親が世の中で立派とされる行為をすべてやっていたら、それらの道はすべて父親で汚される。

すると、父親が手を出さなかった分野、すなわち不良、非行の道しか見つけられず、そちらに進まざるを得なくなるのかもしれない。
私は基本、子どもとはアマノジャクな生き物だと考えている。特に思春期はアマノジャクの権化となりかねない時期。ならば、それを頭に入れた接し方が求められるのでは。

「宿題なんかすんなよ、お父さんと遊ぼうぜ」「勉強すんなよ、お父さんとダラけた道を進もうぜ」と言った方が「お父さんみたいになるのはイヤだ!」となるから面白い。そして宿題したり学んだりしたとき「お父さんがお前の頃はそんなマジメではなかった。お前すごいな。誰の子や?」と驚くと。

子どもは誇らしく思う様子。そして、自分がそうしたいから学んでる、という動機づけになる。この場合、思春期になり、反抗期になっても、自分が学びたいから学ぶ、ということになるだろう。むしろ学ぶ道は、親の歩かなかった未開拓の道のように感じるのかもしれない。

「親のようになりなさい」で育て、思春期で崩れた事例をこれまでも見てきたが、解決がなかなか困難。原因は、親が変わらないから。社会的地位も高く、努力家で、識見の高さでも定評があるから、自分の見解に自信がある。しかもこれまでのやり方でうまく行ったから何がまずいのかわからない。

「あなたが立派過ぎるからアカン」のだけど、努力家で常に立派でいようとしてきた人は、立派であることの何がダメなのかわからない。ダラけた姿を子どもに見せることができない。できないところを見せることができない。ダメなところを子どもに見せることができない。

近年、特別養子縁組や里親制度で新たに親になる人には、「ダラけた姿を見せてください」とアドバイスするのだと言う。頑張る親、立派な親じゃない姿を見せて「そうか、家族とは、よそ行きじゃない素の姿で構わない関係なんだ」と子どもに感じてもらうためらしい。

私は、親は立派過ぎてはいかんのだと思う。むしろ弱いところ、ダメなところを見せた方がよいと思う。その上で子どもをよく観察し、「昨日はできなかったのに、今日できるようになったんだな!やったな!」と差分に驚き、感心する方がよいように思う。

子どもが好きで学んでいる。好きで成長している。そうした構図を幼い頃から作り上げた方が、子どもも学ぶこと、成長することを素直に楽しめるのではないだろうか。

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