「親の背中」考

「親の背中」は「見る」ものであって「見せる」ものではないと思う。
大人は自分のカッコよいところを見せて「親の背中を見て育てよ、オレみたいになりたいと思えよ」と考えるかもしれないけど、子どもはきちんと無理に背伸びしてエエカッコしいなのを見抜いてる。

見せたい「背中」は見ずに、見せたくない「背中」に子どもは気づいている。まだ子どもが小さい時は「お父さんお母さんはそのことを知られたくないみたいだから黙ってよう」となるけど、思春期になり、反抗期に入るとはっきり異を唱えることも。偽善だ、仮面だ、と。

里親だったか特別養子縁組だったか記憶が定かではないが、施設からは「ダラダラした姿を見せてください」とアドバイスされるという。
施設のスタッフはみんな「よそ行きの顔」で接している。だから外面しか子どもは見ていない。ダラダラしてる大人を見て驚くし、それが家族なのだと安心するという。

私は、自分の背中を見せようとするより、子どもを観てほしいと思う。子どもは親に観ていてほしい。できなかったことができたら、それに驚いてほしい。子どもが「ねえ、みてみて!」と決まっだように言う理由がそこにあるように思う。親は自分を見てもらおうとするより、子どもを観てほしい。

結局、「親の背中を見せよう」という話は、親が自分の承認欲求を子どもに満たしてもらおうということなのだと思う。あわよくば子どもから尊敬を勝ち得たらさらに承認欲求は満たされる。
でもそのとき、子どもは?子どもは親の観客でしかないの?

立場を逆にしてみてほしい。親は子どもを観察する観客に。そして一つの「できない」が「できる」に変わった瞬間、共に驚き、感心してほしい。すると子どもはますますハッスルする。

子どもが大きくなってくると、じっと見られるのを嫌がるようにもなる。そんなときは意識の片隅に子どもを置いて、そばを離れて家事をするなり本を読むなり。
それでも子どもは「できない」を「できる」に変えたら「ねえ、みてみて!」と呼びに来る。そのとき、駆けつけて驚くとよいように思う。

やがて子どもは、背中しか見せなくなるかもしれない。それが成長なのだと思う。でもその頃に初めて、子どもは親の背中を見るようになる気がする。いつも自分を観ていてくれたな、できることが増えたら驚いてくれたな、それが嬉しかったな、忙しかったろうに、と。

親の背中を子どもがみるようになるには、親が子どもの様子を観察し続けることが大切なのかもしれない。見せようとするよりは観る。そちらに意識をシフトさせた方がよいのかもしれない。

子どもさえ観ていたら、親は自然体でいて構わないと思う。いや、自然体でよいのだと思う。忙しい中でも自分を観、驚いてくれた。そこから尊敬と感謝の念が生まれてくるように思う。

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