自分「が」主語になると、不器用になる

最近どうしたわけか、教育系雑誌から取材をよく受ける。私が教育者というわけではなく、農業研究者であることを知ったうえで。なんとも不思議な気分。
たぶん、私の表現も悪かったのだろうけれど、取材を受け始めた当初、上がってきた原稿で気になる傾向があった。

「先生が~してあげる」「先生は~すべきである」「先生は~であるべきである」あるいは、先生が親に置き換わっていたり。これらの表現の何が気に入らないかというと。先生や親が主語になっていること。子どもは「~してあげる」の対象でしかないこと。で、こうした表現はことごとく修正してもらった。

先生がどう振る舞うか、親がどう振る舞うか、そればかり気にすると、何がまずいかと言うと、「子どもが見えていない」になってしまうこと。教師である自分、親である自分がどう振る舞うかばかり気にして、肝心の子どもを見ていないこと。観察していないこと。

いわば、「理想の素振り」をしているようなもの。テニスコーチから理想のスイングを教えてもらって、その通りにするために、ボールがどんなコースを飛んで来ようと、ボールは無視して「理想の素振り」を続けているような。もちろん、ボールは空振りに終わる。テニスも上達しない。

「新インナーゲーム」の著者、ガルウェイ氏は、生徒がバックハンドを上手に打つようになったのを見て、ほめた。するとその瞬間からホームラン。
違うよ、さっきはこんな風にきれいなフォームで打っていたよ、と指導すると、ますます動きがぎこちなくなり、まったくボールを返せなくなった。生徒茫然。

ガルウェイ氏は指導のやり方を見直し、次のように声をかけてみた。「ボールの縫い目をよく見て。スローモーションで見るような気持ちで」。すると、またバックハンドで見事に打ち返せるようになった。フォームを一切気にせず、打とうとも思わないのに。なぜ?

教えられたとおりのフォームで打とうとすると、身体の操縦権が無意識から意識に移る。ところが意識は身体の操縦がヘタクソ。当然、球を打ち返せない。そして意識は罵るのがものすごく上手。「下手くそ!なんだ今のは!」すると体の動きはますますぎこちなくなり、どうしたらよいか分からなくなる。

ところが「ボールの縫い目をスローモーションで見るかのように見つめて」と言われると、意識はボールの縫い目を見るのに必死になって、身体の操縦権が無意識に戻る。すると、無意識はボールの軌道、距離、必要な体の移動、ラケットをどの角度と速度でスイングするか、並列計算して柔軟に動かす。

ガルウェイ氏の指導のコツは、意識に身体や思考の操縦権を与えないこと。そのために視線をそらさせる何かを用意し、意識がそちらに目を奪われているスキに、身体・思考の操縦権を無意識に渡す、というもの。これは子育てに関しても、とても重要なことのように思う。

子どもを親「が」ほめるべきだ、叱るべきだ、なんだかんだと、親を主語にして考えると、子どもを見るのではなく、自分の振る舞いを観察してしまう。その結果、コーチに教えられたとおりのフォームでスイングしようとした生徒のように、実に不器用で無様な動きになってしまう。

親「が」、教師「が」、などと、親や教師を主語とするのではなく、子どもを主語にする。「子ども「が」今、何を感じているのか、どう思っているのか、彼らの置かれている環境はどうか」などと、子どもを主語に置くと、意識は子どもを観察することに集中する。そして思考と身体の操縦権が無意識に移る。

子どもをしっかり観察することで膨大な情報が五感を通じて流れ込み、無意識はそれらを同時並列で処理し、「もしかしたら子どもは、こんな接し方があるとこんな風にふるまうかも」という仮説を無意識が導き出してくれる。その仮説に基づき、実際に試してみる。

子どもを主語に置くことで、子どもを観察し、観察することによって無意識がはじき出してくれる仮説に基づき、新たな工夫を試してみる。こうした観察・仮説・実験ということを繰り返すと、非常に柔軟に対応ができ、しかも仮説の精度がどんどん上がっていく。

主語を自分に置かないこと。主語を子どもに置くこと。すると、ボールの縫い目を見ていた生徒と同じように、無意識が思考と身体の操縦権を握り、適切に処理してくれるようになる。しかも、意識の得意技である「観察」が、子どもから情報をとってきてくれる。情報収集も、無意識が支援してくれる。

意識を自分に向けると、だいたいろくなことにならない。意識は罵るのが上手だから、「オレのバカ野郎!このウスノロ!この不器用者!」と悪口雑言の限りを尽くして、さらに思考と身体が不器用にしか動かなくなる。観察はなるべく、自分の外に向けた方が健康的。

自分以外のものに目を向け、観察した時に内側に湧き上がるものを楽しめばよい。それが「己を知る」ことではないか、と思う。己を知るには、自分以外の他者と関わった時に起きる自分の変化を楽しむことが何よりだと思う。自分だけを観察しても、タマネギみたいで、むいてもむいても何もないから。

他者との関係性の中から、「そうか、自分はこういう事柄に喜び、こうしたことに悲しみを覚えるのか」を知ることができる。自分を知るには、他者という入力が必要。入力がなければ自分の中では、大したことは起きない。意識が罵るのにちょうどよい、くだらないものが流れるばかりで。

デカルト以来、自己を確立するということが近代合理主義で求められてきたけれど。それによって心病む人が増えている気がする。自分が、自分が、自分が。でもそのせいで、意識に操縦権が移り、よけいに不器用になり、だから余計に意識の悪口雑言が激しくなり。悪循環。

主語を自分から離し、観察対象に移してみよう。「花が」「空が」「町が」。目を自分以外のものに向けた途端、無意識がアシストして、観察対象から膨大な情報を五感通じて取得してくれる。それによって自分の中が豊かになる。「自己」を意識しすぎな近代合理主義、ちょっと見直してもよいのでは。

自己、自己、自己。自己ばかり云々する自意識過剰な近代合理主義が、子育てを不器用なものにしている気がする。子ども「が」にすれば、私たちは、無意識が教えてくれる仮説に従って、柔軟に接することができるのに。自分を主語に置くこと、ちょっと考え直した方がよいと思う。

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