「言霊(ことだま)」は「言騙し(ことだまし)」考

日本には、よく知られているように言霊信仰がある。受験問題で平安時代の文章問題だったか、見事な和歌をしたためたら、季節的に起こり得ない自然現象が起きた、なんてのも読んだ記憶がある。言葉には霊が宿り、それが自然現象にも影響する、という「願い」が日本人にはあるらしい。

まあ、自然現象に言葉が影響与えるのは無理としても、「予言の自己実現」という現象はよく知られている。「未来はこうなる」と予言すると、みんなが「そうなるかも」と準備することで、本当にそうなってしまうというもの。予言がみんなの行動に変化を与えて、予言通りの結果を導く、ということはある。

これは人間に、言葉に引きずられやすい性質があるためだろう。でも、言葉には自己実現性がいつもあるとは言い難い。むしろ、笛吹いて子どもたちをどこかに拉致してしまったハーメルンの笛吹きのように、言葉が思わぬ方向へと人々を引きずり込んでしまうことがある。

「主体的な学び」も、そうした危険性を感じている。教育現場にいる人達の一部には、「子どもの主体性を大切にせねばならない、だから教師や親はいらぬ口出し手出ししてはならぬ、本人が動き出すまで放っておけ」というネグレクトに近い放任主義を「主体的な学び」と捉えているフシがある。でもこれは、

「主体性原理主義」とでも呼んだほうがよいもの。周囲の大人が何もしなければ、今の時代、子どもはゲームか漫画か動画に行くに決まっている。そういう現実を見ようとせずに、現実の子どもはどう動くのかを観察せずに「主体的、主体的」と唱えても、実現しはしない。

けれど、この「主体性原理主義」の方向へと引きずられてる言説が少なくない。これは、言葉が「言霊」なのではなく「言騙し(ことだまし)」であるためだと思う。私達は「この言葉、素晴らしい!」と感じてしまうと、現実を見ずに言葉の魅力のほうを優先し、言葉に引きずられて行動してしまう。

PDCAが流行するときにもそれが起きた。計画(Plan)→行動(Do)→評価(Check)→改善(Action)を回していって事態をどんどん改善していくというのだけど、「では立派な、画期的な成果を出す計画を立ててください」と指示する上の人が多く、PDCA回して計画を変更しようとすると「計画を変えるな、目標は下げるな」と。無茶。

これは「言騙し」に騙され、引きずられて、一度言葉にしてしまった計画を実現せねばならないと思い込みやすい日本人の悪いクセをうまく顕在化した。うちの職場でもそうだけど、PDCAが流行したときは本当に迷惑した。上の人が、当初の立派な計画を決して変更させようとしなかったからだ。

日本人は、いったん言葉にしたものは実現しなきゃいけないという「言霊」信仰のせいで、実際には言葉のうわべの美しさに騙され、それで現実の観察を怠り、行動の柔軟性を失うという、二重に問題のある状態に持っていってしまう。つまり日本は「言霊」ではなく「言騙し」の国なのだろう。

私は、言葉は、現実になるべく近似した理解ができるよう、常に現実に肉薄するために、「違う」と思ったらどんどん別の言葉に置き換えていくべき「道具」に過ぎないと考えている。もちろん、言葉でしか私達は伝達できないのだから、言葉は道具としては大切。でも道具は道具でしかない。

たとえば「主体的な学び」は、今の日本に必要な力にある程度近似してるとは思うけど、微妙にズレてる。他者のことなんか配慮せずに自己主張しろ、我を通せ、という身勝手さを主体性だと勘違いさせる妙な「言騙し」の力がある。

しかしここ(https://note.com/shinshinohara/n/n69fce7450b6f?sub_rt=share_b)で指摘したように、人間は関係性の中で生きている。他者の存在を考えない社会行動はあり得ない。身勝手を主体的と捉えるのは明らかに現実を見ていない。相手がいて、自分もいて、自分の意志と相手の意志のすり合わせこそが大切。ダンスを踊るようなもの。

PDCAも一見、科学の五段階法(観察、推論、仮説、検証、考察)に似ているけど、最初に計画を持ってきたために「言騙し」が起きやすくなっている。まずは現実をよく観察することから始めたほうが、「言騙し」に引きずられにくくなるだろう。

私達は「言霊」信仰を捨てたほうがよい。むしろ「言騙し」という呪いに変じているからだ。「神風が吹く」と言えば神風が吹くと信じるのと同じ。日本はあの頃から「言霊の幸わう国」ではなく、「言騙しに引きずり回される国」でいるように思う。いったん、言葉は道具でしかないと割り切るほうがよいだろう。

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