夏休みの記憶とひとりぼっちの子ども
もう夏休みだね。友人との雑談にそんな言葉が出てきた。
一日中鳴いている蝉、強い日差し、民家の前に置かれた支柱つきの朝顔。この家の外はなにもかもが夏休みになっているのに、私は全然気がつかなかった。毎日夏休みみたいな生活を続けているからだろうか。
自分が小中学生のときの夏休みを思い出そうとした。でも、一ヶ月半もあった夏休みをどう過ごしていたのか、うまく思い出せない。
少なくとも、外遊びはしていなかったと思う。運動神経が抜群に悪く、鬼ごっこをすればすぐ捕まり、ドッジボールをすれば外野になるので、何をしても楽しくなかったのだ。
ただ、プールだけは好きだった。特に、小学校低学年の頃、夏休みに学校のプールに行くのはわくわくした。プールのときよく着ていった、ワンピースの色まで覚えている。(褪せたような、子どもには似つかわしくない水色で、濃い青で小花の刺繍が入っていた。半袖でボタンもチャックもなく、すとんとかぶれば着替えが終わるので、とても楽ちんで好きだった)
夏休みにプールに行くと、授業が終わった後のお楽しみタイムがあった。みんなでぐるぐる歩いて流れるプールを作ったり、プールの底にカラフルな小石を沈めて宝探しゲームをしたことを、さっき突然思い出した。
私はその宝探しが、ものすごく好きだった。息を深く吸って、底まで潜って、小石を手につかむ。みんなの足をすり抜けて、するりと底に潜るときの、魚やペンギンになったような気持ち。学校のプールのばかみたいな水色と、青と黄色のプラスチックでできた浮きのぼこぼこした感触も、いま触ったみたいに思い出した。
夏休みの宿題は、溜めずにどんどんやっていた。三つ子の魂だなぁと思うのだが、宿題がたくさん残っていると思うと、遊んでいても楽しくないのだ。
子どもの頃はよかったなぁと思う。期限が決まっていて、なにを何ページやるかも全部大人に決めてもらって、それさえこなせばあとは遊んでいていいなんて。
なにをやればいいのか、期限はいつなのか、どうすれば次の学年に上がれるのか、わからないままずっと社会人を留年しているみたいな私には、ひどく羨ましい。
一人遊びが得意な子どもだったことは覚えている。友達と遊ぶこともあったけれど、兄弟とは年が離れていたので、家ではたいてい一人で遊んだ。
トランプタワーに熱中していたこともあるし、けん玉や、トランプ占い、折り紙、お絵かき、粘土、裁縫、パズルなど、およそ目についた一人遊びはなんでもやっていた。もちろん読書も。
いま思うと、小さい頃から一人の世界が充実しすぎていたから、友達を作るのが苦手だったのかもしれない。一人でも構わないと思っていた。いつも友達と一緒にいるなんてかっこ悪いと思っていたし、一人で過ごせる自分を誇らしく思っていた。
大学に行っても同じで、どうしてみんな大学生になってまで群れて騒いでいるんだろう、と冷ややかな目で見ていた。
それがその頃の私だったから仕方ないけれど、片意地張らなくてもよかったな、と思う。本当は友達がほしかったし、みんなで楽しく過ごしてみたかった。でも、物心ついたときからかっこつけて生きてきたので、ちっぽけなプライドの捨て方がわからなかったのだった。
おかげでいまも友達は多くはないけれど、こんな偏屈な人間とも付き合ってくれる人しか残っていないので、みんな優しい。
もっと素直にみんなと仲良くできていたら、違う人生だったのかなぁ。
でも、偏屈でかっこつけでプライドだけは高い子どもだった過去がいまの私を作っているとしたら、これもまぁ悪くないじゃん、と思うのだった。
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