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10代、好きだったもの 20代、いま好きなもの

大学を卒業してもなお、「まあ、まだほぼ二十歳だから」というマインドで生きてきた。数年前まで高校生でしたし?みたいな。
しかし今年は25歳という、さすがに「ほぼ二十歳」とは言えない年齢になった。高校生だったのは7年も昔のことである。記憶が遠い。

この歳になると——などと言うと年上の人には笑われそうだが——10代の頃とは趣味嗜好や考え方が随分変わったなぁ、と思わざるを得ない。

最近、「ペルソナ4」というゲームをクリアした。
私は中高生の頃、同じシリーズの「ペルソナ3」というゲームが本当に好きで、狂ったように何周もプレイしていた。
ペルソナは、ジュブナイルRPGというジャンルである。高校生の主人公たちが、「ペルソナ能力」という特別な魔法の力(のようなもの)に目覚め、現実世界とは異なる世界へ導かれ、強大な敵と戦い、世界を救う。簡単に言うと、そんな作品だ。

ペルソナ3は、私にとって特別な作品だ。出会ってから今まで10年ずっと、「一番好きな作品はペルソナ3」と断言している。
それなのになぜ、続編の4や5を今までプレイしていなかったのか。
中高生の頃はお金がなく、ハードが入手できなかったからだが、大人になってもやらずにきたのは、怖かったからだ。

3が好きすぎて、きっと4や5をやっても3ほど好きになれないだろう、そうしたら悲しいだろうと思っていた。

そして、それは現実になった。
ペルソナ4は、面白いゲームだった。一周目にしては異例のやり込みを重ね、80時間かけてクリアした。
しかし予期した通り、3ほど好きにはなれなかった。それは作品のせいではなく、受け取り手である私がもう少年少女ではないからだと思った。

主人公たちだけに与えられた特別な力、ペルソナ。連続殺人事件の謎を解き、真犯人を突き止め、警察すら解けない事件を解決する。
夢物語だ。あんなに格好いいと思っていたペルソナのキャラクターたちが、ひどく子供じみて見えた。

ゲームなんて、二次元なんてそんなものかもしれない。でも、ペルソナ3にのめり込み、主人公と自分を同一視してプレイしていた10年前と比べると、私の目線は随分冷めたものになってしまっていた。

キャラクターたちの個性も、なんだか単純すぎる気がした。筋肉バカの千枝ちゃん。おしとやかなのに親父ギャグ好きな雪子。ぶりっ子のりせちー。男装の麗人だけど実は女の子らしい直斗。

男女通して、どのキャラも大して好きになれなかったのは、作品のせいなのか私のせいなのか。
きっと中高生の頃にプレイできていたら、もっと好きになれたんだろうなぁ。

そういうことが最近多い。対象年齢じゃないなぁ、という感じ。

音楽の話をするなら、私は中高生の頃聴いていたボーカロイドや歌い手などのニコニコ系、米津玄師を全く聴かなくなった。
高校生の頃神様だと思っていたBUMP OF CHICKENは、ライブには今も行くけれど普段聴く音楽には選ばない。歌詞が眩しすぎる。こういう感情はもう通り過ぎてしまった、と感じる。

最近毎日聞くのは、もっぱらスピッツだ。スピッツの軽やかなサウンド、水彩絵の具みたいな声、抽象的な歌詞はこちらに干渉してこないので、他人事として聞き流せる。うっとうしくない。

こちらの感情や思い出を揺さぶってこない、共感を求めてこない、というのは今の私が好きなもののキーワードかもしれない。

小説でいうなら、二十歳を過ぎてからは、江國香織ばかり読んでいる。
さらりとした読みやすい文体、難しい男女関係を描きながらも淡々とした筆致、きれいな言葉選び。水を飲むみたいにするすると読めてしまう。

逆に最近読めなくて愕然としたのは、桜庭一樹だ。
高校の友達に読まされて衝撃を受け、読み漁った作家である。一番好きだった『ファミリーポートレイト』を読もうと、開いては閉じを何日も繰り返し、諦めた。
25歳の私には、この濃くドロドロに煮詰められた「少女」が受け止められない。好きだった。それはよく覚えているけれど、もう読めない。もう読めない。

概して、薄味のものが好きになったなぁ、と思う。いまの私にとって心地よいゲームは、きっとペルソナ以外のなにかなのだろう。もしかしたらもう、ゲームにハマる歳でもないのかもしれない。

有川浩も森見登美彦ももう読めないかもしれないと思うと怖い。伊坂幸太郎はまだ大丈夫な気がする。太宰の女生徒、高校生のうちに読んでおいてよかったなぁ。

作品にはそれぞれ最適な対象年齢がありますよね、というお話でした。(もちろんずっと同じものを楽しめる人もたくさんいるんだろうけれど)

ペルソナ4が好きな方、悪口を言ってしまったようで申し訳ありませんでした。久々のペルソナを夢中でプレイした80時間、間違いなく楽しかったです。


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