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人から大切にされたいと願うなら、まず自分を大切にする

 ふり返れば、子どものころからずっと、人から大切にされたいと願い、求めていたように思う。だから自分も、ある時期までは周囲の人を大切にしようと努めていた。
 でも、それは順序が違ったらしい。

 自分が大切にされたいから先に人を大切にするというのは、一見美しいようでいて、実はそうでもない。
 もちろん、周囲の人を大切に扱うのは悪いことではないけれど、昔の私がとっていた態度は、「だから私のことも大切にしてね?」という、ある種の見返りを求めるものだったのではないか。
 その気配は周囲にも伝わってしまっていただろうし、そもそも本当の意味で相手を大切に思っての言動ではないのだから、うまくいかなくて当然といえば当然だった。

 自分が大切にされたいから人を大切にするのではなく、まず先にしなくてはいけないのは、自分自身を大切にすることだった。
 私自身が大切に扱うことのできない私を、他の人に大切にしてほしいと願うのは(とはいえ、自分で大切にできないからこそ、そう願いたくなるのだけれど)、やはり無理がある。
 まずは自分を大切にする、自分で大切にできる自分になる、そういう自分でい続ける、という意思と努力が先に必要だったのだ。

 自分を大切にするということは、自分を守るという意味でもある。だから嫌なことは断るとか、そういうことも含んでいる。
 私の場合は、あるときそのことの価値というか必要性に気がついて、自分自身を抱きしめた。そして、自分を大切にしようと決めた。現在の自分だけでなく、そこまで生きてきた過去の自分もまるごと愛する包容力や優しさが求められたし、一方では強さも求められた。

 慣れないことだったから最初はたいへんだったけれど、自分を大切にしていると身の周りにいいことが起きてくる。その分、快く暮らせるようになってくるし、応援してくれる人や味方も増えてくる。
 応援してくれる人や味方になってくれる人は、自分を大切にしている私を大切にしてくれているのだな、と思った。

 そうなってようやく、私自身も、見返りなしに人を大切にできるようになってきた。たとえばスーパーで買い物をしてレジでおつりを受け取ったとき、笑顔でありがとうを言う、とか。
 誰かから受け取ったあったかいものを、他の誰かに手渡していこうという気持ちになれた。
 小さなことでも続けていると、身の周りに素敵な循環ができてくる。それが自分の生きる環境をますます居心地よくしてくれるようだった。

 いま読んでいる片柳弘史『何を信じて生きるのか』に、人を大切にすることと愛についての言葉があった。

 登場人物は片柳神父とおぼしき神父と、おそらくある架空の学生。ほぼ全編が、ふたりの対話形式で綴られている。
 神父がマザー・テレサについて語る部分に、以下の文章がある。

神父 マザーにとって、愛するとは、目の前にいる人を大切にすることだったといってよいでしょう。わたしたちがマザーから愛されたというのは、マザーから本当に大切にされたということです。

片柳弘史『何を信じて生きるのか』

 その少しあとには、こんな文章も。

神父 そうなんです。自分の大切さに気づけば、自分を愛さずにいられなくなり、相手の大切さに気づけば、相手を愛さずにいられなくなり、わたしたちを取り巻く世界の大切さに気づけば、世界を愛さずにいられなくなります。じっと見つめて、目の前にあるものの大切さに気づくこと、それがすべての愛の出発点なのです。

片柳弘史『何を信じて生きるのか』

 自分で自分を大切にするということは、愛のある人生を歩むための出発点なのかもしれない。


◇見出しのイラストは、みんなのフォトギャラリーから
ekakinotenさんの作品を使わせていただきました。
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