孤独との距離感
古いCDを、ふと思い出し、かけてみた。
クスコというドイツのユニットの、幻想的なインストゥルメンタルの楽曲とか、バッハの名曲集、エンヤなど。どれも20代~30代のころに聴いていたアルバムで、なかには20年以上前のものもある。
当時は、孤独だった。
ひさしぶりに耳から流れ込んでくるそれらの音は、単に懐かしいというだけでなく、当時の空気感のようなものをまとっていて、私の領域のしばらく触れていなかった部分に触れてくる。
平たく言えば、そのアルバムを好んで聴いていたころの心情や、肌感覚のようなものまで甦ってきて、センチメンタルな気分になった。
北海道の札幌という街の片隅で、ひとりで気を張って生きていたころ。あるいは小樽の山の古い家で、やはりひとりで、神さまは、これほどの困難を与えるくらいなら、なぜいっそ私の命を取り上げてしまわないのだろうかと考えていたころ。
正確にはひとりじゃなくて、2匹の猫がそばにいてくれたのだけれど、どうして自分はこんなにも孤独なのか、友人でも恋人でも仕事仲間でもいいから、もう少し自分と価値観の近い人と出会いたいと切望していた。
そんなころに聴いていた音楽は、北海道の冬のひんやりとした空気や、ひらひらと舞う白い雪の静寂をも連れてくるものだから、胸に広がる感傷にちょっと困った。
その感傷を抱えるのは、痛かった。
いつか、痛みなしにこれらの曲を聴ける日がくるのだろうか。そんな自問が湧き上がったが、その日はこない気がするし、こなくてもいい、とも思う。
いま少しだけ冷静に当時をふり返り、何か言えることがあるとすれば、
「望むものに出会いたいなら、自分から動いていくことだよ」
ということ。傷ついても、立ち止まって休むときがあってもいいから、あきらめないで、勇気を出して進んでいくしかないのだと、あのころの自分に伝えたい。
実際、私は自分の足で立ち上がり、いまいる場所まできたのだから、「自分から動いていく」を実行したとはいえるけれど、できればもっと早いタイミングで、軽やかにできたらよかった。
たぶん神さまは、それまでに何度もチャンスを与えてくれていた。でも臆病な私は踏み切れず、ことごとく機を逃してしまった。結局ぎりぎりまで追い詰められて、ようやく腰を上げることになったから、その分つらい思いをいっぱいすることになったのだろう、と考える。
孤独になりたくないために、自分を偽って周りに同調していても、余計に孤独が深まるだけ。
だったら自分の孤独を抱きしめて、それを共有できる、あるいは分かち合える誰かのもとまで動いていく方がいい。
横浜にきて、結婚して10年がたった。
いまが孤独でないわけじゃない。いまだって孤独は孤独だ。人はひとりずつ、別の存在だから。
けれど幸い夫とは、お互いの孤独を少しずつ分かち合えているように思うので、昔とは孤独の性質が異なるというか、孤独との距離感が変わったというか。
私にとっては夫のほかに、イエス・キリストの存在も大きいかもしれない。
いつもそばにいて、ともに歩んでくれる。
ひとりではないと、信じさせてくれる。
魂の同伴者であり、心の友。
その存在が、孤独を支えてくれている。
◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから
鍬形(kuwagatg_bass)さんの作品を使わせていただきました。
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