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メメント・モリ 死について語り合うこと

 感染症の流行や自然災害、そして戦争やさまざまな事件。そういうニュースを目にする頻度が高くなってきたと思えるこのごろ、ふと、死について考えることが増えた。私はクリスチャンだけれど、死後どうなるかわからないから神や天国を信じて生きようと思うのであって、自分の死が怖くないわけじゃない。
 どんなに考えても死が未知の領域であることに変わりはないから、だったら「天国でイエス様に会えるのを楽しみにしておこう」と、そう思うようにしている。

 死はオカルトでもなんでもなくて、いま生きている全員がやがて迎える現実。だから、ふだんから死について話すのを避けないで、夫とはなるべく語り合うようにしている。といっても「あなたは死ぬのが怖くないの?」「うーん、ここまで生きたからね」とか、「子どものころ、親に聞いたら○○って言われて怖かったんだよ」「それは怖いよね」とか、そんな他愛もない会話として。
 それでも話せばいくらか気が楽になるし、漠然とした恐れや不安が多少なりとも薄れていく。

 日常的に、死について語り合うのは大切なことだと感じている。私と夫とはキリスト教という道筋を共有しているから、その路線で話し合えるという安心感もある。

 宗教的な考え方が苦手な人には、こんな本もある。
 ケイトリン・ドーティ『煙が目にしみる 火葬場が教えてくれたこと』(国書刊行会)

 著者は8歳のとき、同年代の少女が転落死する瞬間を目撃。以来、死への恐怖を抱えて過ごし、やがて「敵」の正体を知ろうと葬儀場に就職。そこで火葬技師として働きながら、いろいろな人の死と死者に触れ、自身の内面を変化させていく。本書はそのプロセスと、そこから得た哲学を語った回想録だ。

 本音で語られる火葬場のリアル。その点ももちろん興味深いのだけれど、加えて、著者の洞察や思索の深さに感銘を受ける。
 たとえば、こんな一節。

死を否定する社会は、そこで暮らす人がよき死を迎える邪魔をする。死についての不安や大きな誤解を克服するのは容易なことではないだろう。それでも、思い出してほしい。ここ何十年かを振り返っただけでも、私たちは多くの文化的偏見を短期間のうちに打ち砕いてきた。人種差別、性差別、同性愛嫌悪。そろそろ死と真正面から対峙する番ではないだろうか。

ケイトリン・ドーティ『煙が目にしみる』

 さらに、こんな箇所も。

 自分の死や、愛する人の死について考えるのは、いまからでも遅くはない。(中略)死を受け入れるのは、愛する人が死んでも平然としていることとは違う。悲しむことに専念できるということ、「どうして人は死ぬのか」「どうして私だけがこんな目に」などという答えの出ないよけいな疑問に悩まされずにすむということだ。死はあなただけが経験するものではない。誰もが等しく経験するのだ。

同上

 メメント・モリ。ラテン語で「死を想え」。自分がいつか必ず死ぬということを覚えていなさい、死を忘れないで、というような意味で使われる。日本でも一時期、よく目にした言葉だ。
 死は誰もが等しく経験する。それをできるだけ受け止めた上で、どう生きるかを考えたい。その先に、もう少し優しい社会が生まれたらいいのにと思う。

◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから
鍬形(kuwagatg_bass)さんの作品を使わせていただきました。
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