励ますよりも、見守ること。それが大切なときもある
悲しみに沈んでいる人を見ると、つい励ましたくなってしまうものだけれど、それは必ずしも適切とはいえない。むしろ、かえってその人を苦しめてしまうこともあるということを、片柳神父の本を読んであらためて思った。
片柳弘史『何を信じて生きるのか』
この本の中で、ある青年が神父に質問をする。知り合いのご夫婦が何年か前にお子さんを失くし、今も深い悲しみの中にあるのだが、「過去のことでいつまでもくよくよするな。いまを精いっぱい生きろ」とはとても言えない、という内容だ。
それに対する神父の答えがいい。
心の怪我は目に見えないから、周りの人は良かれと思って励ましてしまう。でも本人にとっては、「そんな怪我のことなんか気にせず、立ち上がって歩け」と要求されているようであったり、悲しんでいることを責められていると思えたり。それでは励ましどころか、かえって重石を積んでいることになりかねない。
だから、無理して前向きになれと励ます必要はないし、そうするべきでもないと私も思う。
神父の言葉を聞いて安心した青年は、さらに質問を続ける。実はそのご夫婦は、親戚から「いつまでもくよくよしても仕方がない」と言われて傷付いている、と。
神父の答えはこう。
心に沁みる回答だ。
さらに私はこんなことも考えた。
仮によかれと思って励まして、「その言葉はつらい」とご本人たちから言われた場合、励ました側はつい、「悪気はなかった。ただ励ましたい一心だった。どうかそれをわかってほしい」と理解を求めてしまいがちだ。でも、そういう場合に理解をしなければいけないのは励まそうとした側であって、心に怪我をしている側ではない。
「しまった、悪いことを言ってしまった」という気持ちをわかってほしいのだとしても、傷付いて沈んでいる相手に気を遣わせて「励まそうというお気持ちからのお言葉だったことは承知しています。お心遣いありがとうございます」などと言わせるのはいただけない。そもそも、相手がそんな余裕のない状況にあるからこそ、励まそうとしたのだろうし。
励ました側に、本当にその人たちをいたわる気持ちがあるのなら、言い訳しないで「かえってつらいことを言ってしまってごめんなさい。できれば力になりたいのだけれど、何ができることはある?」といった言葉のセレクトをしたらいいのではないかと思う。
そのあたりの温度感を、片柳神父はよく練られた言葉で適切に説明してくれている。
また、片柳神父の本にある「相手が昔の話を始めたら、その話を何度でも聞いてあげること」はまさしくそのとおりで、私は100%賛成できる。自分もそうしてもらえたら、どんなにうれしいだろうと思うからだ。
とはいえ、心に怪我をしている当人たちが自分から「私たちが昔の話を始めたら、その話を何度でも聞いてほしい」とは言わないだろう。だからこれは励ます側が心に留めておいて、黙って実行してあげられるかどうかが鍵になる。
やがて時間がたって、その人たちが悲しみの淵から立ち上がったとき、「あのときはありがとう」と言ってくれるかもしれない。
あるいはそういう機会はないかもしれないけれど、「それでもいいさ」くらいの気持ちでいられたらいい。見返りを求めるなということでもなくて、自分が人にしたことは、やがて巡り巡って自分のもとに返ってくるから。当人たちからでなくても、いつか何らかの形で自分に返ってくるのだし、それこそ「困ったときはお互いさまですから」と思っていられたらいいんじゃないか。
少なくとも私は、そのくらいのあっさりとした距離感が好きだ。
◇見出しのイラストは、みんなのフォトギャラリーから
_kei_さんの作品を使わせていただきました。
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