「祈り」は願いを伝えるより、神さまの言葉を聞こうとする時間 ~洗礼から10年経って、そう思えるようになりました

 私はプロテスタントのクリスチャンなので、日常的に、さまざまな場面でお祈りをします。プロテスタントの場合は、文言が決まっているのは「主の祈り」くらいなので、基本的には自分の言葉で祈ります。

 洗礼を受けてはじめのころは、間違いがないように先輩クリスチャンたちの祈りを参考にして、いわば〝優等生的な〟お祈りをしていました。
 たとえば、「どうか〇〇が無事にすみますように」などの自分の願いごとを言ってから、イエス・キリストがゲッセマネの祈りでしたように、「すべてが神さまの御心(みこころ)のとおりになりますように」と付け加える流れです。
 御心のとおりに~の部分は、自分のなかで自然とそう思っていたというよりも、なるべくそう思えるように努力して、型を踏まえて言葉にしていた感覚でした。

 型を踏まえるというのはけっこう大事なもので、続けているうちに、ほんとうに気持ちがついていくようになることもあります。
 私も、日々の祈りを続けるうちに、だんだんと、祈るときの気持ちというか、意識が変化してきました。

 まず、御心のとおりに~の部分に重なる自分の気持ちが、無理のないものになってきました。
 そして、前半の願いごとについては、なんといったらいいでしょうか、願いごとを伝えるというよりも、神さまとの対話、というような意識になってきたのです。自分の願望を叶えてほしいと言う前に、その願望が御心に合っているかどうかをまず聞く、という感じです。
「私は〇〇をしたいと願っていて、それを実現しようと行動しています。それは神さまのみ旨に沿っていますか? 沿っているといいのですが……間違っていたらどうか教えてください。正しい道へお導きください」みたいな祈り方ですね。
 そういう祈り方だから、御心のとおりに~の部分にも、自然に連結されるというわけです。

 さらに最近は、対話といっても、より「聞く」ことに重点を置いた祈り方になってきているように思います。
 実際に、神さまの声や言葉が聞こえたことはありません。肉声のように聞こえるものではないのだろうな、とも思っています。でも、聞こうとする。心を澄ませ、耳を澄ませて、神さまが自分に何を望んでおられるのか、気づけるように努めます。
 それで、気づけているの? と問われると、自信を持って「はい」とは言えません(笑)。いったんは「きっとこれでいいんだ」と思っても、心は揺れ、迷うものだからです。
 むしろ、「これでいいんだ」と思い込まず、いつも「これでいいのかな」と確かめる意識を持って、神さまに祈り、聞き続けることが大切だと、私は考えています。

 洗礼を受けてから10年とすこしが経ち、そんなふうに思えるようになりました。まだまだこの先も、祈りのなかに、自分の変化を発見していくのかもしれませんね。

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
(ローマの信徒への手紙12:12 聖書新共同訳)



◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、HanaKokoroさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

↓「主の祈り」については、こちらの記事をご覧ください。

↓食前の祈りについては、こちらの記事をご覧ください。


この記事が参加している募集

ありがとうございます。みなさまのサポートは、詩や文章を生み出すための糧として、大切に使わせていただきます。また、お仕事のご依頼はページ下部の「クリエイターへのお問い合わせ」からお願いします。キリスト教メディアの出演・執筆依頼も歓迎です。