見出し画像

健康論考(流行病に臥して以降)

5300字程度

2023/11/21
 いつも見出しに困る。だいたいAIにつけてもらうようにしていたが有識者にはわかる。私自身もAIの文書構成パターンを掴みはじめて、記述が人の手によるものか判るようになってきたので、修練のためにもAIの活用は最小限に止めている。とはいえAI文章でも改良を重ねパーソナライズ化されることにより、綻びのアップデートがされていくのでより目利きが必要となる。
 「健康」という見出しをつけたところで東洋医学者、西洋医学者、生物学者、心理学者、武道家、地域柄、世代など視座が異なるので読みとる認識(道筋)も大いに異なるので、私の経験を基にあれこれ調べ実践したことなどを踏まえて語る。




健康論考

 ここ最近は急に冷え込んできた。2022/1月に流行病にかかり、およそひと月間という長い時間病に臥し、その間に読み書きを本格的に始めた。私は医学上ではインフルエンザだと思っているし、そもそも病の原因は己の心身に無理がかかることによって生じると考えており、パソコンでいうと心身からのエラー警告表示だと認識している。ひとの身体というものは機械より精密複雑にできている。

 寝込むときに医療従事者の母が昔よく言っていたことがある。冬は温度だけではなく湿度の管理と適度に換気、保温性のあるものを着て、湯船で体の芯を温め、旬の野菜(特に根菜や茶色のものだったか)や温かい飲食をとり、適度に汗を流し、病に対処しきれないなら薬を飲み安静にする。だったかな。病人は健常者に比べて意識薄弱となっているので、無意識下に刷り込みレベルで落とし込まないと難しい。

 私はその流行病に臥したときより、ルドルフ・シュタイナーの思想を中心に様々な著作をとおして学ばせていただいている。私にとって彼らはよき師であり資である。生きた時代や歳、場所といった時空は違えど友人のようなものだ。
 最近、三島由紀夫に少し触れたが共感するものがあった。

 日光浴 一年を通じ、十二月だろうが一月だろうが、快晴なら、裸で、庭のテラスで朝食をとる。鳥肌が立ったって、かまうことじゃない。風邪は過労からひくものであって、寒さは風邪とは関係がない。

三島由紀夫 『生きる意味を問う』私の健康 日常の健康法

 通年日光浴の時間が多いものは、暑かろう寒かろうと気温変化の寒暖差を受けにくい。人間と野生動物の気温に対する環境適応能力の違いのようだ。寒暖差アレルギーなるものは他にも条件があるが主として、このあたりが影響している。例えば冷えたガラス容器に沸騰した水を入れると直ぐに割れるが、ゆっくり温めてゆくと割れにくい。それと同じで真冬の北海道から真夏のオーストラリアに移動した場合、気温の差から身体が不調になる。ガラス容器が割れるように。

 20年ほど前にガングロギャルと呼ばれた人々が一世を風靡し、表舞台から姿を消して以降、段々と紫外線が敵視され、日光すらも忌避(きひ)される時代となっていった。医学上では日光浴によりビタミンDが人体内に生成されて身体の病を癒し防ぐ効果がある。


 心理学上では(たしかスウェーデンで昔見た記事が見当たらないが検索すれば似た資料はでてくる)北欧の地理的日照時間の少ない人を対象にした実験により、鬱といった精神病や幸福度が日照時間と関係しており、日光浴が推奨されている。


 先に挙げたコップの例えのように、身体はもとより精神も等しく急激な変化に弱く、外気と内気の差が激しいほどダメージは大きい。真冬の大阪にせよ北海道にせよ、厚着をしたまま店内で長時間いると店外に出た時の温度差は大きく身体は震える。運動においても最初は軽い運動から入るように、精神も同様に急ではなく徐々に変化させなければならない。これはどの学問や過去の賢人も説き方は違えど、普遍的共通事項なのだろう。

 エアコンや厚着に問題があるのではなく、その使用者が正しく活用できるかが肝心だ。殺人事件の例えで云えば、ナイフに問題があるのではなく殺人者に問題があり、殺人者が100%悪いのではなくその背景たる社会に問題があり、もっといえば社会の最小構成単位である個々人の自他を弁(わきま)える自律や道徳に問題がある。よそにはよその都合や考えがあり生きている。

 私の住む寝屋川市には、92歳の健康な老人がいる。この老人は私の見てきた限りでは年中タンクトップで寒暖をものともせず、朝イチの公園でランニングをしたり腕立て伏せをしており、肉体美も40,50代の筋肉質な人と同じぐらいだ。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』やユウェリウスの健全な肉体には健全な精神が宿る(高校の体育長兼生徒指導長がよく言っていた)を思いだす。この老人は大正生まれの元軍人だろうか、顔や姿勢を含め全身が若く意気揚々としており、その人を見かける度に勝手ながら尊敬の念をいだく。健康とは何なのか、生きるとは何なのか、年功とは何なのかいつも考えさせられる。
 今年だったかの初詣の帰りしな、その人を通り越したがそのときも92歳というゼッケンをたしかつけており、話しかけられた気がするが話損なった。またそのような機会はくるだろうか。

 健康論を考えだすときりがないが、何事も古い書物や知恵にならう方が確実だ。今や本は安くなったが昔の書物は高級品で、現代まで伝え遺されたものは万人共通に価値が高い。民俗学者が志向していることはこのあたりにあり、土地々々の風土やある生業をする者たちの間で口伝でしか残せなかった伝承を探索している。こう書いてみると学者というものは、読んで字のごとく学ぶ者、もしくは探究者なのだろう。


対人関係考

 私はここ最近、私自身が宗教にハマっているんじゃないかという声を耳にしてきた。たしかに流行病に臥して時間のゆとりができ、読み書きを本格的に始めて以降、昔よりモノをはっきりいうようになった。というより昔の自分を思い出した。もとより人と争うことが嫌いでコトは穏便に済ませたいのだが、争わず穏便に自責のみで生きていくことはむずかしい。他人や社会の良い面にしか興味がなく、建設的(前向き)でないと、いろいろと価値の損失だと今でもおもっている。わるい面に縁を持たぬように、自衛のために人を責めたり口論するぐらいならと、会社をやめたり身を引いてきたがどこの社会でも同じでいろんな人間がいる。

 結局のところ社会というものは、相手への悪意や疑念といったものは理解の不足にある。情報収集不足だ。情報収集量(サンプルの質や量)が少ないほど、誤認識に陥りやすい。レッテル貼りは16タイプ論(MBTI)や占い(統計学だと認識しているが)と同じくその者次第で良くも悪くも転ずる。知識も知恵も力であるので使用者次第だ。
 レッテル貼りとはいうなればあるモノたちを集団ごとにカテゴライズ(既存のある概念を用いて分類)する行為で、服の素材でいえば絹や綿、麻、ポリエステルといったふうに分類し、それ以上思考しないよう留めておく行為だ。多様性や人格について思考する際、八百万の神々十人十色干支十二支十干、MBTI、血液型、一神教といったふうに、レッテル張りをする者がレッテルという手札をいくつ持っているかで思考の上限値は決まる。物事を好き嫌いといった二択で見る者もいればメリットデメリットの指標を加える者もいるが、選択肢が二つしかないのはシンプルで決断が早い反面ざっくばらんとしており、16通り、60通りと複雑性を加える場合は遅い反面的確さを得る。

 私はワクチン非接種者で、打たない方がいいと今でも思っているが打とうとしている者を止めるほどの気力は持ち合わせていない。陰謀論とレッテルを貼られる側の考えではあるが、打った者にその考えを押し付けてしまった場合、相手が頭の片隅にでも打ったことを意識してしまい、その考えを受け入れるほどにその人自身で負の連鎖となってしまう。これはワクチンを打てマスクをしろと強制する人々以上に罪なことで、これを呪いという。
 呪いには良し悪しや占いの意味合いが含まれる語ではあるが、悪い面は遠ざけるに限る。深淵を覗くとき、深淵に覗かれているように。


 他人にどう言われようともその言葉は本人に跳ね返るので、流行や社会正義といった多数者の内の私ではなく、私たち一人一人が多数といった社会を作り出しているので、まずは自分を大事にしたほうがいい。私はどう思われるかではなく、どうありたいかと。身から出た錆という言葉のとおり。


11/25 追記

 会社関係者のお通夜があり、久々に一人3500円2時間食べ放題のお店に行く運びとなった。安く飲食をいただいているので味に不満の不の字も言うに憚(はばか)られるが、味気無い。お店にかかる経費と提供物の広さを考えれば、すぐ味の良し悪しは想像がつくので普段は極力避けている。この部分のみを読んだ読者ならば、普段いいモノしか食べてないから舌が肥えてるんでしょうとツッコミを入れられそうだが、問題は他にもいくつかある。 

 先に挙げたお店にかかる諸経費以外に、どれほど食べても満足感(≠満腹感)がない、味気がないことが大問題だ。私は一般的な人より一日あたりの食総量が少なく、一食の満足感や総量もなるべく制御している。今の時間から目の前の食事を食べ切ると体験上、消化が始まりだす2時間後まで眠ることが出来ないし、朝まで胃の中に残っているから寝起きが悪く、消化が終わる昼まで動きも遅くなるなど。

 一日三食満腹に食べるためには相応のお金が必要となり、健康を捨て食欲を満たすために100円のカップ麺なりでも毎日毎月食べていれば物足りなさを感じて食の量が増える。カップ麺でなく家の弁当やごはんであっても三食食べ続けている限り持病に悩まされる。適度に留めていればその限りではないが、菓子パンや砂糖菓子、アイス、ジュース、スポーツ飲料なども同様だ。


持病について

 私の持病は主に二つあり、皮膚の持病(貨幣状湿疹)と花粉症がある。どちらも医者にかかっていたが免疫系の暴走でしかなく、皮膚病は一日一食など他いろいろ試してはいるが未だ治らない。要因としては湿気や過度な清潔以外にも、空気かおそらく父親から持病の遺伝も影響している。

 花粉症に関しては科学一般でいわれる通り人間の免疫が過敏になる思春期間、小学生のいつごろからか、学期末テストの時期(2月終わりごろだったか)から4月中頃までがたいへん酷く、毎春鼻水を垂らしながら熱も37℃半ばで意識朦朧としながらテストに苦戦していた。中学生の頃まで家での予習復習含め勉強好きだった私はこの学期末テストで必ず点数が落ち、鼻水を垂らしながら筆記試験を受ける姿は周囲から笑われることもあり、学期末テストの時期をなぜずらしてくれないのだろうとよく恨めしくおもったものだ。年々勉強が嫌いになったなぁ。

 花粉症は3年前の春に一日一食になって以来、症状は激減している。摂取する食べ物飲み物に注意していることの影響は大きい。鳥取から大阪へ越してきた音楽の縁を通じて友人となった彼と身体の健康談義を時折しているが、彼曰く19歳まで鳥取にいたときは花粉症はなく、大阪に越して以降発症し、シャワーヘッドを交換したり飲食を変えたり諸々努力した末に行きついた先が一日一食だった。それによって症状は治まったようだ。

まとめ

2024/02/12 追記
 未病という考え方からすれば健康や病といったものは原則、生活環境や自由意志による社会奉仕か、飲食の対象や量は私に適切かといった複数の指標を基にしており、それら一つ一つの指数が閾値を超えた母数が多いほど発病する。対処療法では若さという再生力の高さがあればともかくも一時しのぎに他ならず、時をおいて別の箇所や別の病として芽吹く。



 以上、自律ということばで正しく伝わるかはわからないが、現代人には修身よりはまだ伝わりやすいかとおもい、身を修めるより自分を律するという語を用いている。最後に貝原益軒を引用して終える。

 養生の術は、先わが身をそこなふ物を去るべし。身をそこなふ物は、内慾と外邪となり。内慾とは、飲食の慾、睡の慾、言語をほしゐままにする慾と、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の七情の慾を云。外邪とは天の四気なり。風・寒・暑・湿を云。内慾をこらゑて、すくなくし、外邪をおそれてふせぐ。是を以(て)元気をそこなはず、病なくして天年を永くたもつべし。

貝原益軒 『養生訓・和俗童子訓』総論 上




参考になるもの

共産党宣言はネット上無料で見れたのでリンクを貼っている。

カール・マルクス フリードリヒ・エンゲルス.1848『共産党宣言
オルテガ 著.桑名一博 訳.1991『大衆の反逆』白水社
三島由紀夫.1982『生きる意味を問う』大和出版
貝原益軒 著. 石川謙 校訂.1961『養生訓・和俗童子訓』岩波文庫
国立環境研究所.2013『体内で必要とするビタミンD生成に要する日照時間の推定-札幌の冬季にはつくばの3倍以上の日光浴が必要-


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?