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親の介護は突然やってくる(要介護4の父と要介護5の母)

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突然訪れた親の介護。いつか「やっと終わりました!」って投稿が出来るまで。
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2019年5月の記事一覧

両親を信頼していない自分に気づいた日

今日は父の病院へ。昨夜あたりから腹部が痛むとのこと。それが切った箇所なのか内蔵なのかは分からず。言葉少ない。 姉によると最近父の機嫌が悪いらしい。どうも体調がすぐれないことが原因とのこと。この辺りは誰もがそうかもね。機嫌が悪いと風邪ひいていたりする。僕もそう。 食事制限が解かれ、経口食となったから首に刺さる痛々しい点滴は外れた。ただ酸素のチューブだけは鼻の下に残る。僕が行った時は止めてあったけれども、たぶん頻繁に必要となる感じなのだろう。同時に肺機能の低下を意味している。

長期入院の課題

高齢になってからの医療費については保険のCMで煽られているけれども、1割負担となる現実として、実際の請求書などを見ればその心配は不必要ということが分かる。 ただ、残りの9割が現役世代の税負担と考えるとモヤモヤする気持ちは相変わらず。 さて、現役世代が背負う見返りとして何か良いことがあるのだろうか。 国としては老人を見殺しに出来ないという人道的なモラルでしかないのだろうけれど、姥捨て山とは言わずとも延命治療は禁止にしてもいいと思う。死ねずに苦しむ人を見る家族も、必ずしも全員

これは介護なのだろうか。

母は相変わらず病院に入院中。父も令和初日から病院暮らしとなっている。事実上全ての対応はどちらとも病院に任せきりなので、僕らの役割はない。 週に一度家の窓を開けて空気の入れ替えと、一通り水回りを使うことと、病院へのお見舞いくらいが僕のしていること。これは介護なのか。 捉え方の問題ではあるのだけれども、「弱り行く親の姿を見る」ことでの心理的な負担はあるものの体力的な負担はまずない。実家への往復も仕事を兼ねた移動でもあるので、特別に行っている気持ちも少ない。(実家近くに仕事を作

命の価値に差はある

誰にとっても命は平等であり、奪われてはならないモノ。それは倫理としての基本であって、疑うことはない。ただ、今考えるならば命の価値は不平等であるものと思う。 病室に横たわる余命いくばくの老人の命に価値があるとするならば、それはとても小さなものだ。 「生きているだけで価値がある」という言葉の指す価値に差を感じただけのこと。他人の命に価値に対しては、誰であっても判断出来るものでもないのだけれども。 機器に繋がれ生命反応がある老人。全快した後に目的を見失う。強いて言うなれば「誰

永遠に続く様に見える地獄

もやもやした気持ちがずっと続いていることが一番の負担なのかもしれない。「危ない」→「ご臨終」となる「→」を永遠に過ごしている気持ち。退院すれども健康状態に戻ったわけではなく、自宅でも生活出来るレベルになっただけ。病気は消えることはなく、確実に身体を蝕んでいるのははっきりわかる。 本人がどれだけ意識しているのか分からないけれども、近くで見ている姉や僕には、その変化が明確に分かる。診察時に見せてもらうレントゲンやCTの画像でも進行ははっきりとしている。 病気になった人間は早く

手術は無事に。

月曜日の今日手術となり、姉が付き添ってくれた。僕自身は手術に立ち会ったところですることも無いし。という判断で完全に任せる形に。 2時間かからず程度で終了なのかな。姉から報告を受けて無事完了の旨を知る。胆嚢の摘出。膿んでいた場所は小腸にも癒着していたとのこと。この辺りは洗浄で様子見なのかな。肝臓が脆くなっていて、出血もそれなりに多めだったみたいだけれど、輸血するほどではないとのこと。たぶん、胆嚢摘出ではない出血が見られたという程度だろう。 あとは回復待ち。全身麻酔の負担もあ

ジンクス?

「勝手な勘だけど、6月があぶないかなって。祖父母も6月だったし。」って姉が話してて、祖父母の葬式を思い出した。 少し暑さを感じる季節なんだけど、まだ夏じゃなくて。でも晴れてた日が挟まっていた気がする。礼服を夏用か冬用かいつも迷っていた。 日差しは完全に夏で、コントラストの強い緑が記憶にある。 父も夏を前に旅立つかもしれんね。悲しみはあるかな。でも、きっと皆が安堵の気持ちを持てると思う。

生きるって目的要らないもん?

父は最近頻繁に口にする言葉がある「頑張るからよ」と。何を頑張るのか、頑張ってまで生き延びることに意味があるのだろうか。その言葉を聞く度に僕は同じことを思う。 食べ慣れた近所のスーパーの寿司を食べ、住み慣れた実家で何もしない時間を過ごす。くだらないテレビを観ながら。 そういうもんなの? いや、分からなくもない気持ちもあるけど、「明日死ぬ」という思いがある時に「あれやっておきたい」って思うのは映画の主人公だけなのか。 こんな話を聞いた。重度の病人が朝目覚めた時、「今日も目

そして愚痴

未来への不安からか愚痴しか出ない。それで気を紛らわせている。気持ちも不安定だ。長生きって周りをそこまで巻き込んでするものなの? 父の退院後の生活、資金は最低限ある。父が死ぬと母の入院費用が年金収入に対し赤字になる。その補填額はおおよそ4〜5万と予想。年間60万円。 父の葬儀はシンプルにと言われているけれど、戒名代やらなんやらで墓場に入るまで200万弱は掛かるんじゃないだろうか。この時点で完全に父の資金が完全に赤字。二人の年金満額で母の入院費になってるので、父の入院や治療費

父への腹立たしさ

最近父に対してイラつくことが多い。僕自身が鬱症状ってことも少し自覚しているんだけど、その原因を色々と考えている。 たぶん「父の認識が甘いから」なのではないだろうか。 僕は仕事柄、常にバックアップを考えている。クリエイティブは細かなミスで取り返しのつかなくなることが多い。また、大きな予算と多数の人が関わるから、それぞれにかかる責任も重い。 とはいえ、事故は起きる。その時に回避策としてのバックアップをどう残すかを常に考える癖がついている。データだけの問題ではない。晴れた日の

父、手術予定となる

胆嚢炎と判断された膿は抗生物質でも完全に引かず、外科手術にて胆嚢自体を取り除くこととなりました。今週中に準備と検査、来週月曜日に術の予定。 一番気がかりなのは体力の消耗。腸を切ってつなげる程の負担ではない。という見方もある。ただどの程度耐えられるのかは未知数。原因が癌の転移として、腸との癒着があれば手術は一段と難しくはなる。 更に言えば、回復も含めた入院の期間延長によって、普段の生活に戻れなくなる可能性が高まること。今は入院しているものの、父は実家での一人暮らし。母は病院

俺、なんでこんなに疲労してるんだろ。

そう思うことがある。たぶん選択の誤り。 休日は釣りかパチンコ。平日は早朝から出勤するサラリーマンの父との思い出はあまりなくて、突然の入院からの肺癌告知、余命告知を受けて、なにか思い出を作りたいと思った気持ちが大きいのかもしれない。 定年してからの父との会話はそこそこ増えたけれど、今は更に増えた。10分以上話すことの無かった生活から、1時間近く話をしていることもある。すっとぼけてるところもあるけれど、人間らしさが面白い人だと思う。 「あと半年」と思って頑張り過ぎたよね。

家族にとって一番負担なこと

トイレの世話も、本人が病院や施設に居る限り家族に負担は無い。家族だからこそ手を出しにくい仕事もある。この点はとても感謝している。そうしたメンタル的な負荷の大きな仕事から開放されていても尚、体力的にも気力的にも疲れ果てている自分がいる。 水曜日に家に届いている書類などを確認し、簡易な掃除をした上で、病院へ様子を見に行って1時間弱過ごす。 父からの要望と病院からの連絡などはLINEで姉と共有。父に欲しいモノがあれば、病院の近所で買い物も済ませる。 淡々とこなせば大した仕事じゃ

病気はタスクがあるから生きがいになる

父の気持ちが少し分かったかもしれない。もしかすると「ゲーム」してるんじゃないかな。それは良い解釈では無い方で。 目的も楽しみも無い中で、治療をタスクとして受けているフシがある。けして前向きな考え方ではなく、タスクを受けることでそれをクリアさせる。だから「生きること」を目的にしちゃって、完治というゴールには何も無いパターン。ただし、そこまで見えていない。 治療というタスクを持つことで、様々な社会との接点もある。病院の担当医や看護師、細々としたサポートをしてくれるスタッフの方