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家族にとって一番負担なこと

トイレの世話も、本人が病院や施設に居る限り家族に負担は無い。家族だからこそ手を出しにくい仕事もある。この点はとても感謝している。そうしたメンタル的な負荷の大きな仕事から開放されていても尚、体力的にも気力的にも疲れ果てている自分がいる。

水曜日に家に届いている書類などを確認し、簡易な掃除をした上で、病院へ様子を見に行って1時間弱過ごす。
父からの要望と病院からの連絡などはLINEで姉と共有。父に欲しいモノがあれば、病院の近所で買い物も済ませる。

淡々とこなせば大した仕事じゃない。なのに、帰ってきた日は全く何も出来ないくらいに疲れ果てている。これ、なんでだろう?と考えてみた。

結論から言えば、父の衰え行く姿を見ることでのショックがデカイのだと思う。

容姿も大きく変わり、一気に老化が進んだ状態。言葉も滑舌が悪くなり、耳も遠い。勘違いというか、記憶違いなども増えてきた。もちろん運動能力も衰え、ひとつひとつの動きが危なっかしい。今は栄養の点滴が首のところに繋がり、腕にもまた異なる点滴が繋がっている。鼻には酸素のチューブ。指先に酸素濃度の検査機器。

去年の夏まで母の看病として手作りの料理を持ち、クルマで病院へ通っていた姿と重ねることは難しい。その時も耳は遠くなりはじめていたりはしていたけれど、ここまで一気に進むのは本人の気力の問題もあるのだろう。

僕自身、父や母を恨むほどの負担やストレスは無いものの「二人とも早く死ぬことが出来たら苦しむ必要ないのに。」と常にどこかで思っていたりはする。

病院のコンビニに行くと、病院内で家族に付き添っている人たちを見る。父ほどの年齢の患者さんには、僕くらいかそれより若い家族が付き添ってることが多い。社会とか経済回さないで良いのかな?って思うよ。

生先の短いジジババに付きそうことで、どれだけ経済に負担掛かってるのかなって。老人の数だけ生産性も落ちれば、使う税金も増えてるってことだし。そして僕らが働かない時間は、社会的な損失でもあるけれど、僕らの家庭の経済的な損失もあるよね。

幸い理解ある人が多くて僕の仕事はマイペースで進められる。報酬も好きなものを好きな時に好きなだけ食べるくらいにはもらえている。でもさ、これ状況によってはとても大変な人も居ると思う。

誰にも会いたくなくなって、好きな趣味にも身体が動かない。これって鬱なのかなって思い始めたのはその時。この生活、早く終わらないかな。

頂いたお金は両親の病院へ通う交通費などに活用させて頂いております。感謝いたします。