見出し画像

病気はタスクがあるから生きがいになる

父の気持ちが少し分かったかもしれない。もしかすると「ゲーム」してるんじゃないかな。それは良い解釈では無い方で。

目的も楽しみも無い中で、治療をタスクとして受けているフシがある。けして前向きな考え方ではなく、タスクを受けることでそれをクリアさせる。だから「生きること」を目的にしちゃって、完治というゴールには何も無いパターン。ただし、そこまで見えていない。

治療というタスクを持つことで、様々な社会との接点もある。病院の担当医や看護師、細々としたサポートをしてくれるスタッフの方々。自宅に戻れば複数の介護士さんが日替わりで顔を見せてくれる。

今の日本社会の一人暮らし高齢者の何割がこうしたタスクを楽しんでいるのだろうと想像する。一人の生活は侘しい。趣味も楽しみも無ければ、本当に人との接点も無くなる。誰からもタスクを与えられない立場で何も始められなければ、立ち尽くすだけになってしまう。

「指示待ち人間」の末路とは見たくない。父の場合、いつの日か趣味だった釣りを止めた。あれは何がキッカケなのか僕はわからないけれど。そして、花壇の手入れを楽しんだりする時期もあったけれど、今は全く手入れをしていない。そうしていつか趣味が「料理」になったのだけれど、今そこに力をいれる感じでもない。そんな中に「治療」というクエストが発生。日々出されるタスクをこなしながら、それをキッカケに人と出会い会話が生まれる。いつかそれが心地よく感じてくる。というところだろうか。

様々な治療を行いながら、肺癌の治療を進める。退院したらレベルが上がる。自分で食事の支度をする。出された薬を正しく飲んでその日のタスクが成立する。そんなクエストを一人で進めている気がした。

現実としては肺癌の進行は止まらず、一時的に遅くすることが出来ても確実に広がりを見せる。それは定期的に撮られるレントゲンを見れば素人でも一目瞭然。肺機能が低下しているから運動能力も下がり、今では寝ている時以外は酸素の数値が低い。(これは回復傾向に向かうのだろうか?)

だから、半年前にカウントダウンは始まっているので、その半年の中で人生のやり残したことをこなすべきなんだ。行きたい場所、食べたいもの。半年前なら間に合った。既に遠出は出来ない身体になってると思う。

一方で病気の治療は受け身でしかない。薬の効果が見えない限り、自分ではどうしようもない。とはいえ、守りに入ったところで少しずつ死に向かう事実は変わらないのだから、何かをしたければ少しでも早く一歩を踏み出すべき。ただ、その一歩を踏み出す対象がなければ、何もないよね。

死を前に現実を直視できているかと言えば...、そうは思えない。というのも自分の病気の状態を正しく理解しようとしていないから。

僕が医者の説明を聞くのは、父が必ず同席している場だけ。(この点は医者が気を使っていると思う。)なのに、先日の救急車の中で、姉が隊員に「肺癌ステージ4」と告げるのを聞いて「そうなの?」と聞いたらしい。

いくつか病院から出された資料にも記述はあるのに見ていない。
もし、自身の末期を悟った上で目の前にある治療の一歩一歩をタスクとして丁寧にこなしているとするならば、この点がズレる。完治しないまでも、肺癌の変化を注意深く観察して先生に質問するんじゃないかな。

現実から目を背けたい気持もゼロじゃ無いのかもしれない。でも、病気というより、自分の身体のこと知りたいとは思わないのかな。まず状況を正しく把握できなければ、病気と戦うことなんて出来ないだろうに。

と思う点で、父は『治療』を「完治」のためではなく、日々受ける「タスク(=言われたことをこなす為だけのもの)」として受け止めているのでは無いかと思った次第。治療を終えることを目的としていないし、完治してしまったらタスクが受けられなくなってしまう。ただ、そこまで深く考えて無くて、タスクを失って落胆するタイプだと思う。既に完治はないけど。

あとで後悔するタイプな気もする。もうやり残したことはないのかな。

色々な意味で沢山のことを教えてくれている。

頂いたお金は両親の病院へ通う交通費などに活用させて頂いております。感謝いたします。