2018年のLGBT― 現実と創作、そして『しまなみ誰そ彼』

※本稿は漫画『しまなみ誰そ彼』のネタバレには極力配慮しておりますが、台詞などへの言及を含みます。また逆に物語に大きく踏み込んだ紹介ではない旨ご了承ください。

「お前ホモ動画観てたん?」
「お前、そうなん?」
「うわーやばいやばい。」
「そういうの俺、絶対無理。」

* * *

 古い木の梁。ゆっくりと回るシーリングファン。不揃いな、でもどれもやわらかそうなソファ。蓄音機から控えめな音量で流れる音楽。使えるのかわからない天体望遠鏡。金魚の水槽。ぎっしりつまった本棚。手書きの貼り紙。さきほどまで誰かがお茶を飲んでいたカップがきれいに並んでさげられた台所。

 自殺を考えた男子高校生がふとしたきっかけで迷い込んだのはそんな場所だった。坂の多い町、尾道を舞台に、セクシュアル・マイノリティの少年と、彼をとりまく人たちそれぞれの歩みを描いた漫画『しまなみ誰そ彼』。美しい絵やこまやかな人物描写に定評のある鎌谷悠希による作品が、この夏、完結した。

* * *

貴方は誰かを好きになったことがあるだろうか。
その人が同性だったことはあるだろうか。
貴方は誰かに好きと言われたことがあるだろうか。
その人が同性だったことはあるだろうか。

■ 知られるということ――アウティングの悲劇

 2015年8月、一橋大学法科大学院の学生が自死した事件を覚えている人もいるかもしれない。一橋アウティング事件とも呼ばれている。アウティングとは、セクシュアル・マイノリティ当事者が公にしていない性的指向などを、本人の了承を得ずに他者に告げてしまうことだ。ある学生が想いを寄せた同性の友人に告白したところ、友人は約2ヶ月の後、その学生がゲイであると他の同級生数人に話してしまった。アウティングされた学生は、以来パニック障害の症状に苦しんだ末、自ら死を選んだ。

 この事件は多くの同性愛当事者に衝撃を与えた。大学や医者も適切なサポートができなかったのではと問題になった。一方、なぜそのくらいのことで死んでしまうのだ、同性から告白されて追い詰められた友人も被害者では、などと事件の受け取り方に悩む声も聞かれた。暴露に至ったのは、友人としてこれからも仲良くしようと言ったものの相手から連絡が来る負担に耐えかねたためだと言う。亡くなった学生の家族からの訴えに対しては「打ち明けられた内容を、他人に話してはいけないという法的義務もない」とも主張した。大学が家族に状況を説明するときには「ショックなことを申し上げます。息子さんは同性愛者でした」……との言葉があったと言う。 [1]

「胸を張ってればいいってネットの書き込み見たけどそんなふうに思えない。」「もう行けない。もうダメなんです。もう…もう」

『しまなみ誰そ彼』1巻より

 『しまなみ誰そ彼』の主人公、たすくが追い込まれた状況も、この事件ほど苛烈ではないが、通じるものがある。級友たちに自身の性的指向(この場合は、ゲイであること)がばれそうになった彼は、慌てて「きもいわ、そんなの。」と――周りの目を逸らすためにゲイを貶める発言をし、そのことに自ら傷つく。それでもまだ疑いを晴らすことができたかわからない。翌日登校した先に待っているかもしれない嘲笑や忌避を想像して展望台から飛び降りることを考えたとき、その柵を横からふわりと飛び越える人物がいた。物理法則を超越したようなこの人物――一見、男性か女性かすらもわからない人物の後ろ姿をおいかけるようにして、たすくは「談話室」という場所に辿り着く。そこにはさまざまな悩みを抱えた人たちが集まっていた。

『しまなみ誰そ彼』1巻14ページ、談話室の俯瞰。
やわらかな筆づかいが心地よく、
木のにおいや音まで伝わってくるようだ。

 『しまなみ誰そ彼』の作者、鎌谷悠希も自身を「FtXのアセクシュアル」と名乗るセクシュアル・マイノリティの一人だ。たすくのような同性愛者(ゲイ・レズビアン)が最も代表的ではあるが、セクシュアル・マイノリティと括られる中にも様々な分類がある。FtXとは「Female to X-gender」の略。持って生まれた体の性は女性だが、性自認はXジェンダー――女性・男性どちらとも当てはまらない、ということだ。体の性についても染色体がXYであれば男性、XXであれば女性と単純に括れないが(注1)、性自認についてもどちらとも断言できないケースがある。体の性と性自認が異なれば「性同一性障害(性別違和)」である(医学的に診断されるには別途要件が必要となる)。
 アセクシュアルは性的指向の種類のひとつ。性的指向とは好きになる性別のことで、自身と異なる性別を広く恋愛対象とするのが一般的ではあるが、同性愛、男女とも好きになるバイセクシュアル、男女に関わらず好きになるパンセクシュアル、そして精神的な恋愛感情が性的欲求とむすびつかないアセクシュアル……などに分かれる。先天性かもわからず、きっちり線を引いて区分できるものでもない。長い医学上や法律上の考慮を経て今のところそのように区分されている、というだけだ。
 これら体の性と性自認、性的指向の組み合わせとをかけ合わせると性別には多大な種類があることになり、たとえば大手SNSのひとつFacebookでは、ユーザーの性別欄で56種類の性を選べるようになっているという(2014年2月現在) [2]。

 鎌谷氏のそういった属性は作品にもどことなく反映されているように思われる。処女作でありアニメ化もされた『隠の王』の登場人物たちは性別とは自由な友情で繋がれており、ある程度年齢のいったキャラクターの男女も、エロティックな要素のない、理解しあうパートナーといった関係性として描かれていた。ボーイ・ソプラノの少年と合唱団の関わりを描いた『少年ノート』でも、少年少女の登場人物が多い作品にありがちな恋愛描写はなく、きわめて繊細ですがすがしい感情のやりとりや表現者を待つ壁との苦闘にスポットが当たっている。『しまなみ誰そ彼』ではそのテーマ上、恋愛関係も描かれてはいるが、そこにもどろどろした欲はなく、やわらかな絵柄と相まってどこか絵本のような雰囲気も漂わせているのが特徴だ。そしてアセクシュアルと思われる人物を含む、様々な――先に挙げた性同一性障害をはじめとして、性自認や性的指向が一般と異なるマイノリティたちの――キャラクターを丁寧に描くこの作品は、そんな鎌谷氏だからこそ誰より説得力のあるものとできたのではないかと思う。

■ 知るという救いと、抑止

 私自身、自分の性別がよくわかっていない。好意を抱いてくれた異性と交際したこともあるし、同性を好きになったこともある。性的なことにあまりに興味がわかないのでシゾイドパーソナリティ障害(注2)も疑ってみたし、鎌谷氏と同じアセクシュアルにも共感を覚える。とにかく普通の女性ではないのだろう。セクシュアル・マイノリティについて知ったのはいつだったろうか。類型や名前があるのだと安心したことは覚えている。このことは日常生活上は伏せているし、伏せることに慣れているので不自由は感じていない。マイノリティ同士はなんとなくそうとわかることも多く、ありがたいことに周りにはマイノリティ寄りの人も多い。同性愛者である人、バイセクシュアルを自称する人、同性愛に興味を持つ人、創作作品上の観賞用の同性愛――いわゆる「BL(ボーイズラブ)」「GL(ガールズラブ=百合)」にロマンを感じる人など。切実さや、本音を我慢して一般的な生活をできるかなど、どの人もそれぞれで、誰が……またはどこからがマイノリティにあたるか、境界線を引くことは非常に難しいと思う。
 一方で、この前会った奴がゲイだったよ、あの人はゲイらしいよ、などと面白おかしく話したがる知人友人も少なくない。正直なところあまり気分がよくはない。幸いなことだ、自らがマジョリティであるのだから。哀れなことだ、自らの視野が全てだと思っているのだから。ただ、だからといって彼らと接したくないわけではない。その一点で遮断するには大事な、尊敬する人たちだ。本来ならば自身の性的指向を伝えるほうがフェアなのだろうかという気持ちもある。でも、せっかく築いた信頼関係を必要以上に荒立てたくないし、言わず知らせず過ごせるならそれでいいと、まだ、思ってしまう。マイノリティである自分が全てではないからだ。これは逃げだろうか。私を知る誰かが彼らにアウティングしてしまったら、私はどうするだろう?

 今年、一橋大学の亡くなった学生の家族とアウティングした友人側とはようやく和解が成立した。内容は明らかにされていない。大学とは引き続き係争中の模様である(10月末現在)。また4月には、一橋大学のある東京都国立市で、アウティングを禁止する条例が、日本ではじめて制定された。

 知ることは大事だ。ひとの苦しみを我が事のようにはわかるのは難しいとしても、たとえ外圧であっても「それはやってはいけないことだ」との認識があればアウティングをする前に踏みとどまれたのではと思う。大学もより積極的に、或いは真摯に対応を検討したであろう。法律や条例は善悪を決めるものではない。それらが治める地域をどのようにしてゆこうかというデザインや仕様書のようなものだ。そして条例とすることで話題になればアウティングへの認知も広がる。その意味で、国立市の決定は個人的に非常に支持したい。

■ 「現実世界」2018年のセクシュアル・マイノリティ

 LGBTという言葉が最近急速に広がりつつある。同性婚。レインボー・プライド。そういった言葉もさほど特別なものでなく聞かれるようになった。日本でも人口の7.6%がLGBTにあたるという調査結果もある。(電通ダイバーシティラボ「LGBT調書2015」による) [3]
 今年は、勝間和代氏のブログでのカミングアウトも話題となった。勝間氏といえばマッキンゼー・アンド・カンパニー出身の知性と合理性の塊、男勝りの女傑といった感じで、登場したときは一世を風靡したものである。当時サラリーマン生活を始めたばかりの私にとっても彼女は憧れの存在で、その著書を買っては目を通したものだ。テレビの生放送で論客として登場しては、こんこんと経済について語る姿はなんとも頼もしかった。そんな彼女が同性愛者であるというのはお子さんの存在を別にしても意外であったが、さておきそんな勝間氏をもってしても、カミングアウトは「緊張した」という。そのパートナーが増原裕子氏だというのも驚きのひとつだった。増原氏は2015年に交際相手である東小雪氏とともに渋谷パートナーシップ制度の適用第一号として、その存在を世にしらしめた人である(『しまなみ誰そ彼』の取材協力欄にもこの二人の名前はクレジットされている)。私も女性の交際相手との結婚やウェディングドレス姿をかすかに心に描いたことはあるので、彼女たちのこともまた憧れであった。だから増原氏と東氏の二人が添い遂げなかったことはショックでもあった。しかしその気持ちは次第に変わっていった。世の夫婦もかなりの確率で離婚するご時世、女性同士のパートナーシップだから解消することがないというのも変な話だ。彼女たちが一人のひととして、惹かれ、恋をし、また別れていく。普通の(今のところ、シスジェンダー(注3)でヘテロセクシュアルの人間を普通と呼ぶものと思う)カップルや夫婦のように。そのひとつひとつを都度セクシュアリティと切り離して祝福なり支持なりしてゆければよいのかもしれない。まだまだ問題はあるだろうが、カムアウトを終えて増原氏と一枚の写真におさまっている勝間氏の顔はとても穏やかで、この告白に拍手を送りたい、ただただ応援したいと思わせるものだった。

「二人ともきれいね。なんか…ね。…いいよね。」
「いいと思うけど、親御さんはかわいそうに。」

『しまなみ誰そ彼』1巻より

 一方、LGBTという語が広く知られるにつれ、ヒステリックな反応も巻き起こっている。「新潮45」2018年10月号の「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」では国会議員杉田水脈氏の「生産性」という発言を巡っての文章が掲載され、その内容や特集が組まれたこと自体への反感から、WEBを中心に「新潮45」を糾弾する声が多くあげられた。結果として「新潮45」は休刊となり、議論の場は失われてしまった。たとえば同特集上の小川榮太郎氏の寄稿には、たしかにその無理解に気分が悪くなる部分もあったが、三島由紀夫やウラジミール・ホロヴィッツなど才能ある芸術家が同性愛者であったことにも触れられており、同性愛者の存在をただ否定するものではなかったし、オープン・ゲイ(同性愛者であることを公表している)の松浦大悟議員の文章の一節――「セクシュアリティは私たちのアイデンティティを構成する一部分にすぎず、会社員としての自分、家族としての自分、友人としての自分、町内会でボランティアをしているときの自分など、いろんな要素で「自己」は出来上がっています。」 [4]などはもっと読まれてほしかったものだ。言論の場でこそ丁寧に扱われてほしかった問題だけに休刊という短絡的な結論が残念だが、それだけLGBTというものに興味を寄せている人が多く、賛否どちらも可視化されざるをえないセンシティブな問題となっているということだろう。

 これはアメリカの80~90年代の風潮を思わせる。1950年代、ゲイたちは限られたコミュニティでひっそりと過ごしていたが、60~70年代には黒人たちの影響もうけて自身を肯定しプライドをもって社会を歩くようになる。プロテスタント教会も彼らの権利を支持しはじめるものの、嫌悪や反感を示す者も増え、エイズをきっかけに揺り戻しのように迫害が強まったのが80年代。その頂点として、86年のバウアーズ対ハードウィック事件最高裁判決では同性愛行為を禁じることが合憲とされた。各地で同性愛者たちの権利を問う住民投票が行われ、「同性愛者たちは「平等な庇護」や「平等な権利」ではなく「特別な権利」を求めているのだ」との見解をひろめて争点をねじまげようとする動きも多く見られたという。同性愛者への理解と敵意の入り混じった時代だったといえよう。
 この流れは、キリスト教保守派を取り込んだジョージ・ブッシュ氏に対し、同性愛者たちや都市部のリベラルな層の支持を求めたビル・クリントン氏が大統領となったこと、また2003年のローレンス対テキサス州判決で86年の判例が覆り、テキサスほか12州でのソドミー法(注4)が無効とされたことで劇的な転換を迎える。オープン・ゲイの公職者も90年の50人から98年の146人と倍増し、市民へのアンケートで「家族にゲイやレズビアンがいるか」との問いに対しても「いる」と答えたのが92年の9%から00年の23%となったようだ。 [5]
 とはいえ、昨年就任したドナルド・トランプ大統領は性別を伝統的な2つに戻すとの考えを表明しており、セクシュアル・マイノリティへの社会全体の解釈は行きつ戻りつするものとも言えるのかもしれない。ここ日本でも、認知が広まったがゆえの敵意も当分続くだろうと思っている。

たぶんきっとこの距離は縮まらない。
互いをわかり合えなくても、わかり合えないまま生きていける世の中がいい。

『しまなみ誰そ彼』3巻より

■ 創作世界――倒錯と耽美の同性愛

 他方、創作世界における同性愛は耽美と背徳、退廃の象徴といった形で美化されてきた。自身が裁かれる場で「その名を口にできない愛」を高らかに賛美したオスカー・ワイルドの華やかな生活と転落のイメージも強く刷り込まれているかもしれない。生殖や結婚生活などと切り離しやすい、悲恋となりやすいなど作品として扱いやすいということもあったのだろう。

 1976年に連載開始された漫画、竹宮恵子作の『風と木の詩』では19世紀フランスの寄宿舎を舞台に魔性の美少年ジルベールを巡る愛憎が絵画のような美しい絵柄で描かれ、BL作品の始祖となったと言える。1987年のイギリス映画『モーリス』は同性愛が犯罪であり病であった20世紀初頭のイギリスで自らの気持ちに揺れる青年たちの物語で、悲劇性や社会的な葛藤そのものよりも、上流階級の青年を演じる若きヒュー・グラントの美貌を含めた映像美にフォーカスされた作品だった。もっとも、『モーリス』の原作者E・M・フォスター自身も同性愛者であり、性の問題がなければもっと作品を発表できたのに……と嘆く手記が見つかっている。(なお、映画『モーリス』脚本のジェームズ・アイヴォリーが齢90を越えて手がけた作品が2017年の『君の名前で僕を呼んで』である。)

 女性の当事者による作品のひとつ、2015年の映画『キャロル』は50年代の豪奢な衣装やクラシカルな町並みを再現した映像のうつくしさ、ケイト・ブランシェットの名演で話題となった。この原作『ザ・プライス・オブ・ソルト』は執筆された1952年当時、レズビアン小説だからと大手出版社から断られ、作者のパトリシア・ハイスミスもまたクレア・モーガンという仮名で公開したものだ。しかし翌年ペーパーバック版が発売されると全米で百万部が売られ、クレア(パトリシア)のもとには感激のレターがひっきりなしに届いたという。この時代の同性愛小説はいずれも破綻や悲劇に終わったなか、はじめてのハッピー・エンディング作品だったからだ。
 パトリシア・ハイスミスから連想されるのは、日本の中山可穂だ。デビュー当時から自身がレズビアンであることを公表し、小説内でも基本的には女性同士の恋愛を描いている。彼女の小説は「異性愛でも成立する純愛」とも評されるが、女性同士の行為ならではの終わりのなさ、精神的安定を欠く緊迫した関係性などは、セクシュアリティを抜きには成立しない作品世界だろう。2001年に『白い薔薇の淵まで』で山本周五郎賞も受賞しているが、その際の選評では男性選者が高評価、女性選者から低評価だったことが興味深い。(近年では恋愛小説への情熱が枯れてしまったのか、サスペンス作家に移行してしまったようだが――そんなところにもパトリシア・ハイスミスとの近似性を感じる。余談だが、二人とも気難しく猫好きなところも共通している。)

 時代が下り、近年はフランクに同性愛を扱った作品がよく見られるようになった。特に漫画では、音楽イベントで出会ったDJの女性と年下の社会人女性との交際を現代的な絵柄でライトに描く『アフターアワーズ』、男子高校生の友情とも恋愛感情ともつかぬ淡い感情の変化を、なんでもない日常の出来事から丁寧に写し取った『あちらこちらぼくら』、互いにマイノリティであることから半ば安易な形で交際をはじめてしまう女子大学生を描く『付き合ってあげてもいいかな』など、この数年の連載作品だけでちょっとした数が挙げられる。特にこの『付き合ってあげてもいいかな』では、主人公カップルの一人が交際相手との関係を大学の同級生にカミングアウトせざるをえなくなり、周囲はなんでもないようにそれを受け入れる場面がある。一橋大学の事件が頭にあると拍子抜けするほどで、現実ではそううまくもいかないのだろうが、漫画へのコメントでもこの場面には肯定的な意見が多く、創作上の同性愛には実生活よりも寛容な人が多いということかもしれない――題材として地に足がつき、オープンに扱われるようになると共に、かつての美の聖域としての役割もまた失われてしまったのかもしれないが。

「僕らの夢を託すわけじゃないのだけど。」
「僕らは違ったからねえ。事情が。」

『しまなみ誰そ彼』4巻より

 同性愛そのものでなく同性愛差別を扱った社会派の作品としては1993年に公開されたハリウッド映画『フィラデルフィア』が挙げられる。エイズが発覚してクビになったゲイの弁護士(トム・ハンクス)と、彼の仕事上のライバルでもあった黒人弁護士(デンゼル・ワシントン)との友情を中心としたストーリーは、同性愛当事者やエイズ介護組織を知る側からは陳腐なメロドラマとの評価だったようだが、ハリウッド作品らしいわかりやすさで、80年代のエイズへの誤解とそこからの同性愛者への嫌悪を和らげるのに一役買ったとされる。作品ならではの寛容な世界が現実世界をリードした例と言えるだろう。

■ 現実、創作、そして『しまなみ誰そ彼』

 そんな中、認知されてはきたがいまだ息苦しく顔色を伺わざるをえない現実と、寛容または幻想的な創作世界、それらを繋ぐ作品として登場したのが『しまなみ誰そ彼』である。

 主人公たすくが想いを寄せる同級生、椿との関係もひとつの軸として据えられているのは確かだ。彼が一喜一憂するさまはとても瑞々しく、胸が痛いほどである。しかしその恋だけがこの物語のテーマではない。とても自然な形で他のマイノリティにあたるキャラクターが配されており、彼らの苦悩が描かれつつも、決して説明っぽくならないという絶妙なバランスの作品となっている。トランス・ヴェスタイト、トランス・ジェンダー……そういった分類の名前を逐一出すのではなく、登場人物たちはただ、それぞれ思い悩み、ときに傷つきながら生きている。もしかしたら本当に彼らは生きていて、作者がそれを丁寧に掬い取り書き起こしたのではないかと思うほどだ。本来であればひとりひとり取り上げて説明したいところで――本稿を書き出したときはそのつもりであったのだが――それぞれのエピソードに出会うごとに湧き上がる「意外さ」や「驚き」もまた、実生活上でマイノリティの人と出会ったときの感情に近いものがあり、まだ本作品を読んだことがない人にその種明かしをすることがあまりに躊躇われてしまう。コマのすみずみにまで書き込まれた人物の動きや顔はどれも見逃せず、表情ひとつひとつが男性的か女性的か……或いは人物にとってその時そのように「見えた」のか、そういったことまで計算された画力が見事だ。ある意味、小説ではなしえない、漫画にのみゆるされた表現ではないだろうか。

 幻想的な描写や物理法則を無視した表現があるのもこの作品の特徴のひとつである。非常に重く生々しいテーマを扱うこともあり、ストーリーにしても絵にしてもどこまでリアリティを追求するかが問われるが、鎌谷氏は現実感のない絵を要所に用いることでかえってリアルな人の心を浮かび上がらせることに成功している。ミュージカル映画で人物の独白が歌になり、背景が歌の内容にあわせてファンタジックになることがあるが、それを紙の上に白と黒の2色で繰り広げているようだ。恐怖に凍えるなか流れる音楽は冷気ととけあって人を包み、受け入れがたい感情を投げかけられれば炎に煽られ、会話の途中で相手の気持ちがわからなくなれば、その時話題に出たUFOが出現して足元が真っ暗な混乱へと連れ去られる。
 学校の教室で登場人物同士が叫び心情をぶつけあう場面も、彼らの心象風景を交えた印象的な画面となっている。人が――特に多感な若者たちが本音をぶつけあうとき、彼らの目に写っているのは教室の風景ではなく、胸のうちの大きな動きそのものなのだ。そしてふっと現実に着地する安心感。その匙加減も素晴らしく、鎌谷氏の稀有な才能を感じさせる。一枚絵で同時進行するほかの場面とリンクする技法は他の作品でも使われるものだが、それも非常に効果的に使われている。物語終盤でクリスマスの街をたすくが歩くところでは、走馬灯のように登場人物たちのクリスマスの一コマが描かれていて――それらには、たすくが知りえない光景も含まれている。そこまで物語を追ってきた私たち読者が、人物たちと一緒に心の旅をさせてもらっているかのようで、彼らひとりひとりのこれまでとこれからに思いを馳せずにはいられない。

 もちろん、登場人物たちは、皆が皆やさしい良い人なわけではない。談話室を心ない言葉で呼ぶ人もいる。少数者を理解しよう!受け入れよう!と必要以上に声高に叫ぶ人もいる。姿を見せないまま悪意だけをぶつけてくる人もいる。何も考えず――登場人物の家族に、本人が伏せていた事実を伝えてしまう人もいる。談話室に集うメンバーも、万能でもなんでもない。カムアウトを巡って喧嘩もするし、別のカテゴリのマイノリティ同士が互いの気持ちを考えず罵り合うこともある。大切な人の危機に踏み出せずにいる人もいる。悲しみ、息が止まり、怒り、それでも彼らは生きていく。ぶつかり、悩み、ときに支え合いながら。

「君の言葉で僕が傷ついたことを知ってほしい!
 謝ってほしいわけでも受け入れてほしいわけでもない。」

『しまなみ誰そ彼』3巻より

 エピソードをひとつ紹介するだけでも、この作品を読むこころの動きが損なわれてしまいそうで、何ひとつ伝えられないのが歯がゆい。言えるのは、この人間愛に溢れた作品を、ぜひ読んでみてほしいということだけだ。セクシュアル・マイノリティの当事者として悩んでいる貴方にも、家族や友人にそのような人がいて接し方に悩んでいる貴方にも、興味はあるがとっかかりがわからない貴方にも。そしてもし可能であれば、そんなのは遠い世界のことだと思っている貴方にも。自分と違う誰かと同じ地上で生きていくことに立ち返る、かけがえのない作品に、きっとなるはずだ。
 特に、ある悪意なき無理解に――冒頭では怯えて死を考えるばかりだったたすくが立ち向かう場面は、どうかぜひ、その目で見届けてほしい。何が彼を突き動かしたのかがページに静かに込められた美しい構成と、たすくの歩みと成長とに、涙せずにはいられない。

 言っても詮無いことだ。詮無いことなのだが――もしも時空が捻じ曲がり、一橋大学の学生がこの作品を事前に読んでいてくれたなら。或いは談話室のような場所が近くにあったなら。あの悲劇はおこらなかったのではないか、そのような思いを抱いてしまう。先に書いたように私自身まだ何も言えずにいるが、少しずつでも、こういう人もいるのだと言っていきたい。「きもいわ、そんなの。」そう貴方の隣で笑っている友人が、もしかしたら、マイノリティかもしれないということを、わかってほしい。

 そしていつかは。私たちが映画で50年代のアメリカの同性愛者の困苦に思いを馳せたりするように。
 『しまなみ誰そ彼』を読んだ誰かが、「2018年の頃はまだこういうことで悩んでいたんだね」と言う――そのような時代が訪れてくれることを、切に、願う。

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脚注
1)性分化疾患。XY染色体を持ち女性の体に成長するアンドロゲン不応性などがある。
2)シゾイドパーソナリティ障害……パーソナリティ障害のひとつ。社会的関係からの遊離が特徴。
3)シスジェンダー……体の性と性自認とが一致しているひとのこと。
4)ソドミー法……「自然に反する性行動」を犯罪として禁じる法律全般をさす。86年バウワーズ対ハードウィック判決は、このソドミー法を容認し、
同性間で性行動を行う基本的人権があるとの主張を「たちの悪い冗談だ」と一蹴するものであった。

引用文献
[1] http://fairs-fair.org/outing_20180716/
松岡宗嗣「「どんな形で終わっても、兄は戻ってきません」一橋大学アウティング事件裁判で問われる大学の責任」 2018/10/31閲覧
[2] 渡辺大輔 2018 『性の多様性ってなんだろう?』 平凡社
[3] LabelX編 2016 『Xジェンダーって何?日本における多様な性のあり方』 緑風出版
[4] 松浦大悟 2018 「特権ではなく「フェアな社会」を求む」『新潮45』 2018年10月号
[5] ジョージ・チョーンシー 2006 『同性婚―ゲイの権利をめぐるアメリカ現代史』(上杉富之、村上隆則訳) 明石書店

引用漫画
『しまなみ誰そ彼』鎌谷悠希 小学館 ビッグコミックススペシャル
https://urasunday.com/shimanamitasogare/
1巻(2015年)、3巻(2017年)、4巻(2018年)

蒼井 灯 @heavenlyblueb
中性寄りのセクシュアル・マイノリティ(FtX)。嶌田井書店ではスタッフや音楽を担当。別名義でバンドでも活動している。短歌は中断中。自分で何かを表現するのが苦手な器用貧乏。

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