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シコメルが、創業47年の居酒屋におとずれた「老舗ならではの危機」の救世主に。

東京でも有数のおしゃれな街、中目黒で長年愛されつづける老舗居酒屋「大衆割烹 藤八(とうはち)」は1977年に創業しました。目黒川を越えた路地にたたずむ趣あるお店は、建物の老朽化などの理由から、2018年に山手通り沿いの商業ビルに移転。昭和の風情は移転後も守られ、暖簾をくぐると壁に並んだ短冊メニューがあたたかく迎えてくれます。これまで藤八が歩んだ道のりについて、代表の須藤氏にお話を伺いました。

藤八を引き継いで初めて知った、
従業員たちの強い強い「藤八愛」。

1989年、藤八に初めて足を踏みいれたときの衝撃は今でも覚えています。若者とサラリーマンが混ぜこぜになって食べて飲んでる、あの時代特有のみなぎる活気に、当時19歳だった私は一瞬で圧倒されました。私の好きなアパレルブランドが中目黒にあり、そのアパレル店に通ううちに仲良くなった店員さんたちに連れられて来たのが、藤八との出会いでした。

藤八の雰囲気がほんとうに好きでね。じつは19歳から45歳までは客として藤八に通っていたんです。世田谷でナポリピッツァのお店を始めた私は同業者ということもあり、藤八の創業者であるご夫婦や従業員たちとは自然と仲良くなっていきました。

時は流れ2013年のある夏の日、藤八の女将から掛かってきた1本の電話がすべての始まりでした。そのころ体調を崩していた大将は経理を担当していましたが、さらに調理担当の女将の弟、けんちゃんが倒れてしまったため、お店の賃貸契約が終わる2年半だけ助けてくれないかという相談でした。藤八は19歳から通う行きつけの店です。想い入れも強い。遠隔での経営で良ければということで、藤八の経営を引き継いだのが2015年の夏こと。私が45歳になる歳でした。

藤八をしばらく経営していくと、徐々に客の立場からは見えてなかったことに気づき始めました。従業員たちの強い「藤八愛」です。お客さんからの愛もすごい。こんなに愛されるお店、私は作れません。藤八の経営は2年半で終える予定でしたが、これは真剣に考えないといけないと思うように。世田谷のナポリピッツァのお店は私がゼロから築いたお店です。それならまた自分次第で、いつでもゼロから始められるだろう。そう考え、2017年10月からは藤八の調理場に立つことにしました。

それから6年が経った2023年の夏、調理担当のけんちゃんに病が見つかったんです。2ヵ月後に長期で入院することになりました。藤八は3セクションに分かれて調理を進めています。100を超える藤八のメニューのレシピは、各調理担当の頭の中にしかありません。藤八の3大名物のうち2つを担当していたけんちゃんに、急いでレシピを作ってもらいましたが、どうにもこうにも再現できない。そこで思いついたのがシコメルのサービスでした。

シコメルの存在はもともと知っていたんです。藤八を引き継いだときから常に、ベテランの料理人たちのことが頭にありました。この先の藤八について自分なりにいろいろリサーチを進めていて、仕込みを外注できるシコメルという会社があることもリサーチ済みでした。そこで、けんちゃんが退院して復帰するまでの間だけ、シコメルでどうにかできないか問い合わせてみたんです。

藤八の味を絶やさないために、
シコメルOEMで仕込みを依頼。

シコメルに問い合わせると、仕込みレシピを再現できる「シコメルOEM」というサービスがあるとのこと。けんちゃんが入院する日まで、まだ2ヵ月ありました。その2ヵ月を使ってシコメルとけんちゃんと私で仕込みの試作を重ねていったんです。

シコメルに依頼したのは、藤八名物の「自家製はんぺん」と「肉じゃがコロッケ」のネタ。何とか入院までに間に合って、けんちゃんが復帰するまでの期間はシコメルの仕込み済み食材を使っていました。シコメルがいてくれて本当に助かった。それからはお花見の時期や年末など、超繁忙期だけシコメルの仕込み済み食材に助けてもらっています。

シコメルOEMを依頼したときよりも大変だったのは、やっぱりコロナ禍かな。大変といってもコロナのときは世の中みんなが大変だったからね。本当に大変なときって、周りは上手くいっているけど、自分だけ上手くいっていないときだと私は思うんです。それでもあの時は大変だった。藤八は年配のお客さんもかなりいたから、コロナ禍になると誰も来なくなって売上ゼロの日もありました。同業者の中にはお店を閉める人たちもたくさんいたけど、私にはその選択肢はなかったんです。

藤八は2018年に今の場所に移転しましたが、移転前の場所に戻る予定だったから、ここの物件は2020年夏までの定期借家契約でした。コロナの拡大が2020年の春から始まったでしょ。3月が契約更新のちょうど締め切りで、あの時は悩んだね。悩み悩んだ末に、契約を更新しました。

コロナ禍で唯一動いていたお客さんが20代の若い子たち。コロナ禍に入ってからは若い世代に来てもらうことを考え始めました。それが今、活きてきてる。お客さんの世代交代が自然と進んだんです。結果的にね。

藤八で使っている木製カウンターやちゃぶ台、短冊メニューは、移転前から使っていたものをそのまま持ってきました。作ろうと思ってすぐに作れるインテリアじゃないでしょ。この昭和の雰囲気のお店が若い世代には珍しいみたいでね。映画でしか見たことないノスタルジーがあると、若いお客さんたちが次々とSNSで発信してくれました。

2022年夏からお店にやってきた看板犬「虎太丸(こたまる)」も、SNSで藤八の存在が広まるきっかけになりました。お客さんからはコタって呼ばれてますが、このコタがまた若いお客さんにはまってね。今もSNSで拡散され続けています。

コロナ禍を経て原点回帰。
自分が行きたいお店をめざして。

飲食店を経営する前は不動産の仕事をしていました。90年代半ばに中目黒にオープンして一躍有名店となった、本格イタリアン・レストランのオーナーシェフとご縁があり、彼に誘われて飲食ビジネスの世界へ飛びこんだんです。

ちょうど不動産の仕事に飽きてきたころ、彼から電話が掛かってきました。「一緒にナポリピッツァのお店をしてみないか」と。当時、彼は私と同じような黄緑色のスーツを着ていてね。お互いファッションで意気投合したところがあるのですが、それまで飲食に携わったことのない私に、「ファッションで洋服の組み合わせができるなら、料理の組み合わせもできる」と言うんです。イタリアにルーツを持つ彼らしい説得だと思いましたね。試しにナポリピッツァのお店を開いてみたけど、経営にはけっこう苦労しました。

そこからしばらくして藤八を引き継いで、2020年からのコロナ禍でいろいろなことが引っくり返りました。そこからです、藤八への考え方が変わったのは。それまでは「藤八を変えないこと」を良しとしてきました。藤八を引き継いだんだから、私が藤八を変えてはいけないと頑なに考えていたんです。でもコロナ禍で立ちどまって改めて考えるうちに、180度考え方が変わりました。飲食ビジネスを始めた原点に戻って、自分が行きたいお店をつくっていくのが本当なんじゃないかってね。

私にとってコタは4匹目の愛犬。2015年に藤八を引き継いだときに3匹目が亡くなって、そこからは忙しいから飼わないようにしてきました。でもコロナ禍で世の中が引っくり返って、今までのやり方では何も進まなくなった時に、犬を飼ってもお店に連れていっちゃえばいいじゃんって考えるようになったんです。従業員に犬嫌いがいないかは確認したけどね。犬を連れていってダメになったら気持ちよく責任をかぶろうと。コロナ禍に入ってからできた借金もあり、ストレスで潰れそうになったこともあるけど、藤八に客として通っていた当時を思い返して、自分がいきたいお店を改めて目指すことにしました。

藤八にコタが来てもうすぐ1年。気づいたらコタにお客さんが付いてるの。犬と触れ合える席にしてほしいと言うお客さんもけっこういて、お客さんもコタ、コタって可愛がってくれてね。コタが新しい風を藤八に吹き込んでくれたんだと思います。

私が経営していた世田谷の店の4階ではホテルを経営しているのですが、最終的には沖縄で、飲食店と宿泊施設を兼ねたお店を開きたいと考えるようになりました。沖縄ではシコメルさんを使っていきたいですね。藤八のような、自分の行きたいお店を沖縄にも1つ持って、2拠点で仕事ができたら、きっと楽しいと思うんだよね。



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