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毛利元就の組織作りを、マネジメント理論「識学」で考えてみる

毛利元就と言えば戦国時代屈指の知将、謀将として知られ、広く山陰山陽にわたる広大なエリアを一代で制覇した武将です。臨終の際に「1本の矢なら折れるが、3本束になると折れない。兄弟3人、力を合わせるように」と遺言したという「三本の矢」の逸話は広く知られていますよね。

最初は一介の国人領主にすぎなかった毛利元就はいったいどの様に諸国を束ね、当時最大勢力の一つとして統制の取れた巨大勢力を作り出すことができたのでしょうか。

後に天下を平定し、260年間にわたる江戸幕府の祖となった徳川家康もまた、憧れ、研究し、自らの政治の参考にしたと言われています。現代の成長企業を束ねるリーダーの参考になるはずです。

毛利元就とは?

しがない小領主にすぎなかった毛利家

元就が生まれた1497年は、世の中は応仁の乱(1467年)から続く混沌から戦国時代が本格化した頃でした。当時、毛利家は広島の小さな国の一つ。広島エリアは東側を島根県の尼子氏、西側は山口県の大内氏という巨大勢力に挟まれており、小さな国が乱立していました。

地域の二大勢力である尼子氏と大内氏、そして幕府側、朝廷側といった巨大勢力による謀略が渦巻くなか、小さな国々は生き残る為にどの勢力を利用するかを考えていました。

現代なら選挙で無所属議員ばかりが立候補している様なエリアと言えるでしょう。それはつまり、政治的な駆け引きに長けていないと生き残れない環境だったということです。稀世の謀将と呼ばれるのもこういった環境を生き抜いてきたからこそでしょう。

不遇な少年期をバネに当時最大の勢力へ

幼い頃、父と兄を早くに失った後、頼れるはずの身内の井上元盛に領土財産を全て奪われ城を追い出され「乞食若殿」と呼ばれる不遇な少年期を送ります。

この時に元就を救ったのが血のつながりのない義理の母、杉野大方でした。その慈愛深さと、信仰深さは元就自身も自分の人格形成に大きく影響していると書き残しています。

そして元就は苦境から自ら脱し、初陣の有田中井出の戦いから、後の有名な桶狭間の戦いの参考とされたという厳島の戦い等で数々の戦果を上げ※広島エリアを統一。その後大内氏、尼子氏を倒し配下に置き、山陰山陽を統一し当時の最大勢力へと成長させたのです。

※一説によると226戦無敗。影武者に身代わりになってもらい逃げかえってきた月山富田城は?とも言われていますので無敗説は諸説ありですね。因みに息子の名将吉川元春も76戦無敗です。

山口の小さな洋品屋さんが柳井さん1代で世界のユニクロになったのと同じ構図ですね。では、そんな急激な組織拡大において毛利元就がしたことは何だったのでしょうか。

「奥行き」を持たせた毛利元就の組織づくり

元就は没74歳と、戦国時代の織田信長の「人生50年」という言葉に代表される寿命と比べるとかなり長寿でした。ですが、元就は49歳の時に家督を長男の隆元に譲り隠居しています。

3人の息子がそれぞれ隆元は毛利家、元春は吉川家、隆景は早川家のトップとなり、毛利家を中心とした所謂「両川(吉川 早川)体制」が敷かれたのです。そして、元就はその奥に引っ込みそれらを統括していました。

この体制について元就が書き示したのが三子教訓状といい、後の三本の矢のエピソードの元ネタになっています。

そこには毛利の名が絶えることが無い様に、早川、吉川は毛利に仕え、隆元は元春、隆景に対して指示を出す様に、つまり揉めたら最終的な意思決定は隆元がしなさい、と明文化しています。

つまり、社長は隆元。元春と隆景は事業部長と任命して、自身は会長となるということです。自らが奥に引っ込むことで、権限を明確に与え、息子たちの成長を促し、一族の繫栄を未来永劫にさせていこうとしたのです。

トップが奥にいき、組織に奥行きを持たせていく。徳川家の明確なヒエラルヒー構造もここに由来していると考えられます。

しかし、元就の想い通りにはいかず、早く隆元に任せたかったのですが、隆元は自信が無いと縋りつき、結局は元就が社長業をすることになりました。

そして不幸なことに隆元が41歳でこの世を去ると、孫の輝元が家督を継承するのですが、輝元に「自分では力不足だ」と駄々をこねられ最後まで元就自身が執政を行っていました。

この事が、元就亡き後の毛利家の衰退に大きな原因になったと想像できるでしょう。輝元の時代に、徳川家康により、かつては広大だった毛利家の領土は山口県のみと大幅に縮小されてしまいます。

想像ですが元就は父親に早くに亡くなられ苦労した経験が、子供たちに対しての甘さになったのかもしれません。苦労した経験が自分を育てたはずなのに皮肉ですね。

毛利元就のマネジメント

元就は小さな国を多数まとめて一つにまとめ上げて、小さな一国の領主から「戦国大名」になりました。当時の室町幕府や朝廷からもお墨付きをもらい、今でいうと「一部上場企業」になった訳です。

元就時代の毛利家の特徴は内部での大きなトラブルやクーデターが戦国武将にしては他家と比べて少ないことです。

ですので、元就は人心掌握に優れたリーダーとも言われています。

確かに、人間らしいマネジメントの逸話も多くあります。

こんな話があります。

坂広秀が元就の実弟相合元綱を擁してクーデターを起こし失敗した際、親族であった桂元澄が責任をとって自刃しようとしました。

当時の君主は自らの命を絶つ引き換えに、一族や部下の安全を確保してもらうために責任をとり自刃するのが一般的でした。しかし、元就は急いで自ら丸腰で出向き、敵意の無いことを示し、説得したのです。

ただ、その一方で、規律を守らない相手に対しては果断さも見せています。

過去に恨みもある井上氏に対しては、躊躇なく粛清。クーデターの旗印となった実弟の元綱も容赦なく殺害するなど、部下から見ると背筋が凍るような一面も持っています。

元就の部下に対する取り組みで特徴的なものがあります。

それは、正月の挨拶に大小限らず全ての家臣に来させていたというものです。多くの戦国大名は重臣と呼ばれる部下としかお目通りしません。しかし元就は実に正月の間10日間程かけて全ての家臣との挨拶をこなしていたのです。

なんて、家臣想いなのだろうか、とも取れますが、特に下級の家臣はお殿様に会いに行く等一大事なわけです。

社長面談と一緒で、出来るなら行きたくない・・・そんな気持ちにもなったとも想像できます。ましてや当時の情報流通の状況を鑑みての「うちの殿様は毎年挨拶させてくれんだよ!」「へー、そいつは良いな。俺もその殿様に着こうかな。」なんて会話があったとは想像しにくいですよね。

それぞれその日の為に身なりを整え、献上物を持ち、報告と次の目標、抱負をしっかり考えてその日を迎えることでしょう。当時の移動手段を考えても容易ではない手間と苦労があったと想像できます。

同じようなものに江戸時代の参勤交代もあたると考えられます。

つまり、年に一回の報告を上げに行くことで主のことを考えざる得ない状況を作れる訳です。嫌だなと思いつつもいざ行ってお褒めの言葉一つでももらえれば来年もまた恥ずかしくない報告を持って行こうという気持ちになり、その積み重ねで離反することが考えにくくなるのでしょう。

定期ミーティングを徹底できない会社では、急成長中の繁忙で会議が行われない。そして繁忙期の一つの波が去ると疲弊し社員が離脱していく。

毎週のミーティングは面倒くさいし、悪い報告があるときは参加したくないものですが、そこで部下から上司に会いに行き報告をさせる。上司がフィードバックする。この積み重ねが組織内のトラブルや離反、離脱を防ぐことになります。

内部での問題が少なかったことには「規律」を徹底し、部下から定時報告をさせる元就のマネジメントが大きく影響しています。

毛利元就から学ぶリーダーのあり方

厳島の戦い等の奇襲作戦など緻密な策略、作戦が語られることの多い毛利元就ですが、その行動や残された文章などからは、組織運営の原理原則を理解し実践していたことが分かります。

残念なことに息子や孫たちはそこから学ばず、偉大な君主元就の力にすがることが多く、カリスマを失った組織は一気に求心力を失い勢力を奪われて行きました。一方で徳川家康はそこから学び260年という長い時代を平定する江戸幕府という組織を作り上げます。

リーダーは部下に責任と権限を与えそこに任せて自分は一歩引く。

そして組織内の規律がしっかり保たれているか?規律を守れないものは躊躇なくそれを正すこと。

部下からしっかり報告をさせて、与えた責任を果たすことを定期的に約束することが重要です。急成長する組織だからこそそれを運営する為に歴史の偉大な先輩からしっかり学ぶことが必要です。

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引用元:「識学総研」毛利元就に学ぶ、成長する組織に必要なマネジメント