見出し画像

創作大賞2023に応募した理由と自己分析

創作大賞2023の恋愛小説部門に応募した。
もちろん、「これで作家デビューだぜ!」と甘く浮かれた気持ちで投稿したわけじゃない。


と、興味を引きそうな書き始めのわりに、今死ぬほど強烈な睡魔と闘いながらこれを打っているので、多少、いや、おおいに、いや、絶望的なほど、そうまでして文章書くなよってくらいのまとまりのない駄文になるけれどお許しいただきたい。

けれど、不倫の恋も恋は恋だし、駄文といえども文字は文字。



本気で小説を書こうと思ったら、ここで投稿してもいいのだろうけど、他の小説投稿サイトでも書くと思う。
なぜなら、そこは小説を求めてやってくるユーザーが主であるから。小説を好み、積極的に見つけて読もうとしてくれるユーザーが多い気がする。
noteだって、もちろん小説を載せてもいい。
けれど、逆にもっとクリエイティブ……もっと、というのは、文字以外の表現技法・ツールで工夫をこらしたという意味で、そんな作品がnote界ここにはわんさかと溢れている。
小説と、そうではないものを含め、『 クリエイター 』の母数が多すぎるのだ。

次から次へと見せ方と内容に工夫をこらした作品が量産されているnote界の中に自分の小説を置いたところで、瞬く間に埋もれて一欠片も見えなくなるのは目に見えている。
もちろん文字が大好き傾向の方もいることはいるだろうけれど、小説を主体とする活動をnoteでするなら、『 それなり 』なやり方をしないとなかなか読まれないと思う。



ちょっと脱線するけれど、やっぱり文字だけの小説は、映像作品に負けやすい。
これはわたしの持論にすぎないけど、あながち外れてもいないと思う。
実際、もっとバーチャルが進んだら、わざわざ文字だけでストーリーを作り上げる小説の分野なんて絶対にすたれる、というご意見をnote界ここで見たことがある。


もともと人は、何かを伝える時、その時代・文化なりの文字を何かに刻む、綴るという方法しか持っていなかった。
そのうち、お芝居のように音や動きで伝え、受け手はそれを観て楽しむことができるようになり、やがて録画、録音などの技術が発達していった。

小説は、人が文字を自分の目で追いながら読解して、自分の脳内に小説家が描くそれと同様の世界を、自らの想像力で作り出す。
時間も、それなりな労力も必要とする娯楽だ。
それだから楽しいんだ、という見方もあるけれど、やっぱり映像と音楽効果により完成されているものを目にする方が、作品の受け手としては圧倒的にラクはなず。

秀作の小説の映像作品を見たとしよう。
逆に、これの原作は知らなかった、気になる、読んでみたいと文字の方に興味を持つ人がどれくらいいるだろう?
それで本を買ってみた、という人も一定数は現れるけど、ほとんどは映像作品を見て感動して、その場で終わるんじゃないだろうか。



と、余談はとりあえず止める。

そして本題。


わたしが創作大賞に応募した一番の理由は、
『 やりたいことができない自分でいるのが悔しかったから 』
である。

昨年の創作大賞の募集を見た時のこと。
デビュー云々以前に、とてもじゃないけれど私生活の問題で何か書いている時間なんてなかった。
それが、なんだか無性に悔しかった。
何か作品を書く、という土台にすら登れない自分の身の上が無性に、死ぬほど悔しかったのだ。

そして、今年。

昨年と比べ、思ったように何か書く時間は案外持てないものの、ちょっとはマシな暮らしにはなった。

だから、創作大賞の募集を見た時に、『 今までやりたくてもできなかったことをやる 』という意味で、絶対に応募はしようと決意した。

自分の中で、『 応募すべきだ 』と強く囁く声もしていた。
それは、これで小説家になれるから、ということじゃない。
文字書きになるかどうかに関わらず、とにかく人生を大きく変える一歩になるはずだからコレをやるべきだという、そんな声。
少なくとも、『 やりたいことがひとつできた 』という達成感・自己満足は絶対に生まれる。自信といったら大袈裟だけど、この心の安定から、何か次の行動が生まれるはずだ。


そんな思いから、とりあえず、出来栄えはともかく、応募の規定を満たした(と言いながら、実は文字数では既に破っているけど……)それっぽいものを作り上げて投稿した。

だから、応募が第一目標で、締め切られた直後の7月下旬は、突如他の用事で忙しくなったこともあるけど、何となくやりきったという自己満足により文字書きに対しては腑抜けていたのが正直なところ。



応募した作品は、もともとはだらだらと思いのままに書いていた連載小説だから、コンテスト的なものなんて視野に入れてないし、向いてもいない。

もともと頭の中では出来上がっていた話を書ききる時間がなく、仮に書けても文字数が大幅にオーバーすると判ったので、締め切りに間に合うように無理矢理に変更して書いた。
ただ、本来の話を今後書きたそうと勝手に思っているので、それときちんと辻褄が合う終わり方にはしてある。


昨年よりは時間はあるといっても、マシというレベル。
書ける時間も安定はせず、毎日コツコツと文字に向き合って作品を作り上げるという感じではなかった。
それでも、昨年よりは書けるのだから、絶対に応募するという気持ちは捨てなかった。
もはや、そんな根性で書いていたと言っても過言ではない。


この『 やろうと思ったことを実行する 』という行動は、当り前の様で、実は生きるうえで非常に大切で必須なもの。

例えば、おなかが空いたからご飯を食べよう、と思っても実際に食糧を調達するなり食べるという行動をしないと実現できない。

何かやろう、やりたい、と思い、それを脳の中で何をするかの命令を身体に出して、そしてミッションコンプリートする。

この些細な積み重ねが、大袈裟に言えば夢の実現につながる。
何事も、やってみようと考え、そしてそれを実現してゆく。それが日々、刻々と積み上げられ、その結果立っている『 今 』とステージでまた、何かを欲し、何かを実現する。
人生その繰り返しで、成し遂げたい夢に近づけるものだとわたしは思う。


そんなわけで、わたしが「応募をしてみたい、応募しよう」と強く思い、それを実現してみた、というステップが大切なのである。




さきほど、『 それなり 』の方法と書いたことについて。

noteはただの投稿サイトじゃない。
SNSだ。

今の時代、他の人との関わりが数字やコメントという形で目に見える人が、SNSでは強者になる。

応募すること自体が主眼なので、選考基準はそれほど気にしていなかった。
あらためて読んでみると、要するにスキをたくさんもらってnoteを盛り上げるような人が一次選考を通るのですよ、と書いてある(わたしにはそうとしか読めない)。
天才的作品なら、放っておいても多少スキがつきはじめ、そのうちnoteのAIくんにより、どこかにオススメとして表示されるのだろう。
そこでまた、秀逸であればどんどんスキが伸びてゆく。
ノー宣伝では、そういうめっちゃ天才的作品を投稿しないかぎり、なかなかスキはつかない。

では、どうするか。
自分から誰かにスキすることで、自己アピールに走るのである。
自己アピールの鬼と化せば、そのうちに何割かの人には自分のプロフや作品を見てくれて、スキがもらえる可能性がぐんと高まる。
そういう『 営業努力 』をすることも求めらているわけで、この時点で、自己アピールも営業も苦手な自分は『 自分みたいない人間には無理っすね、すいません 』と気分だけはフェイドアウトしてしまった。


note運営さんとしては、この方針は当たり前のことだろう。

応募のタグがついた全作品を一からじっくり目を通してなんていられない。

第一次審査として、note界を盛り上げることに貢献できているクリエイターであること(めっちゃ優秀作品を書けている場合を除く。)、スキやコメントがたくさんついて、ある程度評価されている作品であることでふるいをかける。
特に、後者は重要だろう。
note界という、世の中の一部の小さいなSNS社会で評価がなければ、もっと大きな社会に向けて作品を送り出しても見向きもされない危険しかない。
宣伝するにしたって、noteで人気の、と形容できる方がいい。


そして、文字数の多い作品はそれなりに不利だと思う。
noteの運営さんがやっていた創作大賞のラジオの第一回だけ聞いた限りでは、お話されている方が「文字数が多いと読むのがキツい」というようなことを仰っていた。
具体的には、応募の規定の文字数の上限を超えてくると読むのもキツくなってくるというお話だった。
でも、文字のプロの方でもいくらでも読めるわけじゃないのだから、いわんやそうじゃないこのSNSの方々に甚大な文字数の小説を読んでもらうのは、よほど秀作でないと難しい。それができるならもうプロレベルだ。

ただ、飽きの来ない程度に文字を抑えれば、読了にいたらしめる可能性は高くなる。その程よい文字数に、心にクるものが盛られていれば、きっと『 よい作品 』としてスキがつく。
そういうものが書けるようにじっくりと取り組んでみるのは楽しいかもしれない。
そうは思ったものの、『 応募する 』のが第一目標のわたしは、今それなりにできているものを書ききる方を選んだ。
じっくり取り組んでいる時間はなかったから。

よって、適度な文字量で作品を仕上げ、それを他のクリエイターさんと何らかの関わりをもちながら、自分にされるスキ数を育ててゆく。
こういう営業努力と活動の果てに、一次審査通過という栄誉が待っているのだ。


わたしは、先に書いたように、書こうと思って書けた、やろうと思ったことが実現できた、ということで満足だ。
そして、営業なんてちょっと今はやっていられない。
ろくにnoteすら開けないのだから。

それでも、この応募としての投稿は、決して無駄とは思っていない。



長時間をかけて連載で書いている途中で陥ったのが、自分で書いた話や設定を忘れる、という間抜けな状態。
なんとなく設定はあるのだけど、ストーリーの全体として辻褄の合うように書こうとしたら、この人にこういう出来事にあったのはいつの時か、みたいな整合性が必要だ。

キャラクター設定もプロットも何もない状態、というか、あらかじめメモにはせず頭の中にしかない状態で連載小説なんて書いていると、後からこうして困るんだな、とわかった。
まあ、困ることもまた、面白くはあったけれど。

そこで、登場人物の年齢や性格や生育などの設定メモを応募締め切りの一週間くらい前に作って整理した。
そんな時期になってやることじゃないと思いながらも、メモを作っているとそれはそれですごく楽しかった。

普通なら、キャラクター設定とストーリーのプロットを作って、起承転結とかこのあたりで主人公のピンチだとか主要キャラの登場の順序だとかをある程度決めて、それにそって書き進めていくのだろう。
それでもきっと、書いているうちに当初考えていたストーリーとは違ったものが出来上がったりする。
長編小説は生き物だと思う。


そして、これはわたしだけだろうけど、何となく連載し始めた時の方針と大幅に変わってしまった。

文字数も控え目(1000~2000)に、さくっと気軽に読めて、それほど微妙な気分にならずちょっとクスっと笑えたり胸キュン的なのがあったりそれをコンスタントに続いている。
そのつもりが、書いて行くにつれて、なんだか鬱々とした空気の話で、一話分の文字数も多い(5000を越すことが多い)ものへと転じてしまった。


性根に色々と重たいものを抱えながら、時間もない中で投稿に間に合わせようと書いたらそんな事態になってしまったのだ。


でもまあ仕方ない。


それにしても、数えてみたら、約15万字も書けるんだな、わたし。



────── ということなどを感じながら、小説を書くのは面白いと思った。

もともと小説を書くのは好きだ。

書いているのは、面白い。

そう、面白いのだ。

根性で応募したけれど、書くこと自体は面白かった。
苦しかったことはただ一つ。
時間に迫られながらやっつけで書くことへの辛さだった。

面白かったから、もっと言葉や文章の書き方を学んで、小説を書きたい。
今まで何となく書いていたけど、より楽しんで書きたい。


よろしければ、こちらも  ↓↓↓


応募作の始まりと終わり ↓↓↓


この記事が参加している募集

#振り返りnote

85,359件

#恋愛小説が好き

5,032件

#創作大賞感想

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?