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華氏451

瞬きを終えると、そこは映画館の中だ。

観客席の中央…座り心地は悪くない。知らない名画座だ。スクリーンに映るのは…何だろう。白黒映画だ。私が状況を把握しようとキョロキョロしてると、空席を挟んだ右隣、一人の男性と目が合った。

あ、タイロン・パワーだ!私は音に出さず叫んだ。すると彼は私を見つめ、唇を動かす。

「気兼ねはありません。私達だけです」

彼の言葉は音に聞こえない。まるで無声映画の様に、彼が唇を動かすと突然の暗転、そこに筆記体の文字が浮かぶのだ。

「映画は良い。スクリーンで見ると尚更だ」

彼の目線を追いスクリーンを見ると、そこには巨大なオスカー・ウェルナーがこちらを見据えていた。トリュフォーとの名コンビ、悲しみの貴公子。アッと口を開くや否や、私は車の運転席にいる。ハンドルを握り、アクセル全開、隣にいるのは誰だろう。気付けば私の身体は浮遊感に満たされ、車の天井に打ち付けられた。シートベルトをしてなかったのか?お馬鹿!気付けば車は宙を舞い地面に急降下する真最中、助手席に座るのは誰なんだ?落下の瞬間まで、私は隣に座る人間の顔が気になって仕方なかった。衝突、その刹那、それは一瞬の暗転だ。ドスン。

……何かの鳥が鳴いている。なんだろう、テーブルの上のグラスがやけに輝いている…日光か。大きな欠伸、地面を引きずる様に私の右頬は唸る、そこには鈍い痛みが。ベッドから落ちたのか、それも顔から。頬を擦ろうにも右腕の感覚が無い。変な体勢で圧迫していたらしい。右膝には青い痣が。パジャマ、いい加減買うべきだろうか。コットンの下着にユニクロのブラトップ、その寝心地が存外に良いのだが、寝相の悪い私に向いた寝巻じゃないらしい。

身体を起こし、ベッドの端に首を擡げる。天井には消灯した蛍光灯、何だか分からない茶色い斑点…ふいに携帯が鳴った。目覚ましの音じゃない、普段は鳴らない着信音だ。誰からだろう?私は音の所在を探る。それは枕の下で激しい熱を発していた。電話の主は勤め先のレンタルビデオショップの店長だ。私が画面をスライドする前に、携帯は眠りについてしまった。充電器を挿さずに暖め過ぎたんだ…。バッテリーの寿命もあるのだろう。そろそろ買い替え時かもしれない。

……あれ、今何時だ?確認してなかった。慌ててテレビを点ける。お昼時のバラエティ番組だ。画面上部に移る数字は…13:32。今日のシフトは17時からの筈…いや、確か変則的に16時だっけ?とにかく、焦らなくていい時間なのは間違いない。携帯に充電器を挿し、水の残ったケトルに電源を入れる。職場の友人、マダム桑原に貰った茶葉をパックに詰め、カップに熱湯を注いだ。香りが程よいアップルティー、砂糖を多めに私は一息ついた。

思えば今の職場に勤めて随分になる。社会人経験の無い三十オーバーの私の初めての職場、居心地がよく、良き人間関係に恵まれ、その日々は彩りに満ちている。傍から見ればあっけない日常かもしれない。でも私はこの毎日に充足感を覚えていた。映画と共に過ごす毎日。毎日知らない誰かが映画を求め店内を彷徨い、時には私の知る映画を、時には未知の映画をその手に持ち帰る。セルフレジの導入でお客さんと接する機会は激減したが、それでも稀に望みの映画を探す人の仲人のような役割を果たすこともある。その時間が何よりも好きだった。

八枚切りのトーストと作り置きのポテトサラダで空腹を満たし、歯磨き粉を練りつけた歯ブラシを口に運ぶ。そういえば職場の後輩、柳井君が『愛、アムール』を観て歯磨きの仕方を学んだと言っていた。うがいは二回。実践してみると、ミントの香料が微かに残るが、清涼感は感じる。健康面でいいか分からないが…これから私もそうしてみよう。

携帯の電源を入れ、店長に折り返す。「あ、大丈夫、解決した。出勤したら休憩室で待ってて」短いやり取りを終え、私は身支度を整える。化粧を済まし髪を結び、紺のパンツに黒ニット、ダウンジャケットを羽織り、私は玄関を開けた。冬だ。隣の駐車場はいつの間にか近代的なビルディングになり、私の住むボロアパートをその陰で覆う。今古折衷、アンバランスな景色だ。…そんな言葉あったっけ?私は歩き出した。

職場に向かう道中でホットの缶コーヒーを買う。掌で転がしながら、街の景色を眺めていた。公園で女子高生三人が屯して焼き芋を食べている。長袖のセーラー服に脚を出して…寒くないのかな?…あ、今の考え凄くおばさんっぽい。私は顔に打ち付ける乾いた冷風を振り払った。三十代後半、レンタルビデオショップでバイトする独り身の中年女性、こんな人生になるとは思わなかったなぁ。…まずい。気持ちがネガに傾く時は、名画を彩るハンサム顔を思い出すのだ。グレゴリー・ペック、ポール・ニューマン、ケーリー・グラント…うん、大丈夫。そういえば今朝、夢の中でハンサムな俳優に会った気がする…誰だっけ?忘れてしまった。

道中、同僚の染井さんに遭遇した。大学院生のクールビューティー、職場の外で会うのは珍しい。声をかけるべきか迷ったが、向こうも私に気付き会釈してきた。

「お疲れさま。今日寒いね」
「ですね。寒いを通り越して痛いです」
「途中女子高生が脚出してるの見て、うわって思ったんだけど、これ凄いおばさん臭い発想だよね」
「その理論がまかり通るなら、私もおばさんですよ」

職場に到着、扉を開けると暖房の少しかび臭いにおい、突き当りの扉を開けると更衣室。汗ばんだニットを脱いだ私は、ちらと染井さんを見やる。健康的ではあるが痩せ細った身体、彼女は苦学生なのだ、将来をしっかり見据え、日銭を稼ぎ勉学に勤しむ、尊敬すべき若人。それに比べて私は…心身ともにだらしない。制服に袖を通し、私達は休憩室に向かう。そこには店長がいた。タイムカードを打刻する。お疲れさまです。

「お二人、ちょっと時間貰える?」

店長が私達を呼び止めた。そういえばお昼時に電話が掛かってきてた、その要件だろうか。三人でテーブルを囲む。

「表は昼の人に長く残って貰うから大丈夫。で、お二人に相談なんだけど…何かアイデア無いかな?」
「アイデア、というと」
「最近ちょっとね、店が、うん…いや、そんなヤバイ状況じゃ無いんだけど、業績を伸ばすアイデアか何か、あれば欲しいなぁって。俺もいい歳だからさ、若者の意見を取り入れたいのよ」

店長の口ぶりから察するに、経営は相当追い詰められてるようだ。VODが世間に根付いた今、同じ区の系列店もどんどん潰れている。その波が到頭この店にも押し寄せたのだ。どうやら私の安息の地が滅びようとしているらしい。額に冷や汗が伝う。動揺する私を横目に染井さんが口火を切った。

「店長、私達バイトは利益の内訳を知りません。意見を言うにもその前提が曖昧です。無責任な思い付きでいいなら、提示出来ますけど」
「うん、そうだよね、それで大丈夫。ありがとう」
「経営不振はVODの浸透ですよね。これからもどんどん顧客は減っていきます。大事な事は今の顧客の離さない事だと思います。出来る事は、残酷ですけど延命処置だけです」

染井さんはきっぱりと言った。耳が痛い言葉だ。辛辣と言ってもいい。だが事実に思えた。

「レンタルビデオショップがVODに勝る点を私は思いつきません。手間だし、割高で、延滞料金と言うリスクもある。取り扱うパッケージの数こそ今は勝ってるかもしれませんが、いずれ追い抜かれるかと」
「うん、しかも向こうはオリジナルコンテンツも拡充しだしてるしね」
「既存のVODの穴をこちらが突こうにも、その欠点は別のVODが補います。だから私達はこの業務形態ならではの強みを磨くしかありません。でも…その実際的なアイデアは、今は思いつきません。浮かび次第都度報告します。お役に立てず申し訳ありません」
「いやいや、助かるよ、ありがとう。エイちゃんはどう?」

二人は私を見た。私は…何も思いつかない。染井さんが言ったことは最もに思う。そもそも染井さんに思いつかなくて私に思いつくことなど無いのだ。

「私も…思いつかないです。すみません」
「ううん、いいよ。突然ごめんね。まあ、また何か思いついたら教えて」

私達はお辞儀をして表に向かった。不甲斐ない。この職場は私にとって大切な場所の筈だ。なのに私には何も出来ない。……違う、正確には何も考えようとしていない。店長や染井さんの言う現実を実際的に考えるのが怖いのだ。黙っていれば、誰か別の人が解決案を提示して、自然と現状は維持される、そんな幻想にしがみ付いている。少し気分が悪い。私はトイレに駆け込んだ。

暫くして俯きがちに扉を開けると、そこには社員の桑原さんがいた。お昼勤務、私と入れ替わりの筈だ。随分長く閉じこもってしまったらしい。

「あ、すみません、待たせちゃって」
「いえいえ、お疲れさまです。…ちょっといいですかねえ」
「はい?」
「私、異動が決まったんです」
「え、異動?」
「はい、再来月、都心に新しい店舗が出来るんですねえ。カフェが併設された、こことはまた違う形態ですが。そこの店長に就任することになりましてねえ」
「あ…そうなんですか」
「早く言わないとって思ってたんですけどねえ…すみません」

私は多分、おめでとうと満面の笑みで喜ぶべきなのだろう。でも、私の顔は引きつっていた。嫉妬からじゃない。何もかもが私の意思に関係なく移ろってゆく。変わらないと思っていた何もかもが変わっていく。その現実に打ちのめされていたのだ。彼女は私の回答を待っている。私は何とか口角を吊り上げ、言葉を絞り出した。

「じゃあ、お疲れさまです」

言い捨てるとそそくさと表に向かった。彼女の反応を確認することも無く。最悪な気分だ。茫然自失とはこのことだろう。心を閉ざし、粛々と職務を全うする。当たり前に繰り返してたこの日々も、いつか終わりを告げてしまう。永遠など無いのだ、嘗て夫と別れた日、私は学んだ筈なのに。

何だか急に仕事がやるせなくなった。日々苦にも思わない作業の反復が今は煩わしく感じる。何故私は今ここにいるのだろう。この仕事が将来、私の人生の何の役に立つのだ?現実から目を背けるのに丁度いい職場…私にとってここは、それだけの場所なのかもしれない。……まずいな。ディカプリオ、ブラッド・ピット、トム・クルーズ。精神の均衡を保つのは下手じゃないが、一度体制を崩すと随分脆い、それが私と言う人間らしい。

「あの、すみません」

不意に声をかけられた。初見のお客さん、若い女の子だ。

「はい」
「あの、ピアノの映画を探してるんですけど、タイトル忘れちゃって…」
「どんな特徴ですか」
「えっと、ラフマニノフを扱ってます。実在のピアニストの映画で、この店で見たって先生が言ってました」

先生、ということは学生だろうか。しかし特徴が少ない。

「出てる役者とか分かりませんか、タイトルの頭文字とか」
「えっと、有名な役者みたいです。確か、ジャフリーなんとかって」
「ジェフリー・ラッシュですかね」
「あ、多分それです」
「少々お待ちください」

私はお店の端末で検索をかける。ピアノの映画、ジェフリー・ラッシュ出演…目ぼしい作品を見つけた。『シャイン』という作品だ。私は彼女を案内する。

「こちらの作品ですかね」
「あ、多分これです!ありがとうございます」

会計を済ませた彼女は嬉しそうに去っていった。差し出したカードは多分父親の名義だったが…細かい事に目くじらを立てるのはやめよう。

「いやぁ、やっぱ生JK最高っすね」

気持ち悪い発言の主は柳井君だ。教員を目指す大学生。

「高校生?気付かなかった」
「肌質を見れば分かりますよ。ピチピチのJKっす」
「柳井君、そういう軽薄な所直した方がいいよ」
「いや、俺って結構重厚な男っすよ。だから気付いちゃいましたけど、エイさん今日元気無いっすよね。何かありました?」

目ざとい青年だ。

「別に。そういえば柳井君は聞かれた?」
「あ、店長の?はい。ヤバそうっすね、この店も」
「やっぱそうだよね」
「俺、答えられなかったんすよねぇ。正直無理ゲ―じゃないっすかこの業界。俺もそろそろ辞めるし、何か良い案残せたらって思ったんすけどねぇ」
「え、柳井君辞めるの?」
「そりゃそうっすよ、来年教員試験だし」

店の未来も無い、桑原さんは別店舗異動、柳井君は辞める…何もかもが変わってしまう。諸行無常とはこの事だ。私は映画を観る度に、新しい自分の価値観と対面できることに喜びを見出していた。自分の変化を楽しめていたのに、自分以外の存在が変化することを許容することが出来ないなんて…自分の独りよがりな性格には本当に嫌気が指す。ここに勤めだして、メンタルの均衡を崩すことは無かったのだが…今日は色々な事が起き過ぎる。深く物事を考えなかった付けが、今日一斉に回ってきている。冷静にならなければ。グレゴリー・ペック、バスター・キートン、ジェームズ・ディーン…駄目だ、頬が熱い。鼻水が溢れてくる。柳井君がエッと叫んだ。私もアレッと唸った。気付けば頬が濡れていた。

「ちょ、ちょっと、あ、ヤバイ。裏行きましょ裏」

柳井君が私をバックヤードに連れていく。柳井君は戸惑っていた。斯く言う私自身は、何故か落ち着いていた。涙を流す理由より、涙を流した結果の方に驚いていたのだ。しかし、情けない事に変わりはない。裏口を抜けて、寒空の下に出た。柳井君なりに誰にも見られないように気を使ってくれたのだろう。

「大丈夫っすか」
「大丈夫、戻らないとね、ごめん」
「いや、店長と染井さんいるし大丈夫っすよ。落ち着くまでゆっくりしてください」

柳井君は店内に踵を返す。私はそんな彼を気にも留めず、言葉を吐き出した。ロマンス映画のヒロインみたいなクサい台詞を。

「何で変わっちゃうんだろうね」
「え、何でって」
「何も変わらないといいのにね」

柳井君は困ったように狼狽える。当然だ、私が柳井君の立場ならそうなると思う。何故私はこんな事を言ったのか。多分、期待したのだ。彼の軽薄な軽口を。物事を深く考えるのが馬鹿らしいと思えるような、安っぽいユーモアを。……ところが私の期待をよそに、柳井君は腕を組んで考え込んでしまった。眉間に皺を寄せて、唇を不格好に突き出して、何か唸っている。その唸りの延長に、柳井君は言葉を紡いだ。

「あのぉ…すんません、正直涙の原因が、俺全然分かんないんすけど…逆に地雷だったらすんません。あの、変わっていいんじゃないすかね、俺達人間は」
「……」
「例えばなんすけどね、俺達は変わっても、映画は変わんないじゃないですか。でも俺達が変われば、俺達が映画をどう見るかは変わるじゃないっすか。それって、かなり得じゃありません?」

彼の言わんとしてる事が、私にはイマイチ理解出来なかった。私は首を傾げる。

「あ、えっと、つまりですね、あー、飛躍するな…いいや。あのですね、多分、この店はいずれ潰れます。俺もいなくなるし、店長も、皆いなくなります。でも、ここにある映画は残ります。俺、『スタンドバイミー』凄い好きなんすよ、で、エイさんは、今後その映画を観る度に、多分思い出すんすよね、俺の事を、で、俺が今話してる事を」
「うん」
「で…俺が言いたいのは、多分、変わったからこそ出会える気付きとか、感動もあるだろうし…とにかく、変化を悲観的に捉えるべきじゃないと思うんです。昔の映画館て、総入れ替え制じゃなくて、入退場自由だったじゃないっすか。煙草スパスパ吸えて、活気があって、売り子さんが歩き回って…良い時代だなぁて思いますよ。その体験を俺は出来ないけど、今生きる俺には、俺にしかできない体験ってものがって…それって天秤に掛けれるものじゃないと思うんすよね。逆に今の俺が体験できない感動がこれからの変化の先にあると思うと、俺ワクワクしますよ。そんな未来で俺は『スタンドバイミー』をどう見るんだろうとか、その時隣には誰がいるんだろうとか…その時の状況で映画って多分全く違う見方になると思うんです。映画は不変だから。だから、俺達は変化を確かめられるし、それを喜べると思うんです。……伝わってますかね、俺の言ってること」

話が行ったり来たりでついていくのが大変だ。でも、多分本質は伝わってる。

「俺、今日店長に何も言えなかったっすけど、さっきのエイさんの対応見て、一個気付きましたよ。今俺等に出来る事は、今あるものを大事にすることだって。今ある映画や、今ある人間関係、今あるお客さん…ほら、さっきの子がいずれビッグになって、将来『今の私があるのはあのレンタルビデオショップの、あの店員さんのお陰です』って言うかもしれないじゃないっすか。で、そのエピソードがドラマ化され、月9の夜、レンタルビデオショップ物語がお茶の間を席捲する訳ですよ。そしたら、経営Ⅴ字回復、レンタルビデオショップの栄華再びっすよ。だから、変わんないかもしれない。無くならないかもしれない、レンタルビデオショップは。もしかしたら無くなるかもしれない。そんなの分かんないっす。だから、どっちに転んでもいいように、変化を悲しまずに、今を大事に、楽しむことが大事なんじゃないすかね、悔いの無いように。それこそ『ライフイズビューティフル』っすよ。ね!」

沈黙

「…俺喋り過ぎっすか?空回ってます?」
「ううん、ありがとう、もう大丈夫」
「あ、うす。…後、蛇足ですけど、多分レンタルビデオショップは無くならないっす。名画座が生まれたように、求める人がいる限り、多分大丈夫っす。それが蜘蛛の糸の様な繊細で一縷の可能性でも、きっと繋がっていきます。楽観的ですけど、俺マジでそう思ってます。……まあ、俺最近ネトフリばっか見てますけど」
「裏切者じゃん」
「じゃあ、カイザーソゼは仕事に戻ります。落ち着いたら、後で」

柳井君はそそくさと店内に戻っていった。私は店の裏で、寒風を浴びる。火照った身体には心地よい風だ。柳井君が尽くしてくれた言葉を私は反芻する。人生は美しい、か…。私は携帯を取り出し、大切な友人に電話をかけた。

「今電話大丈夫ですか」
「はい、どうしました」
「さっきはすみません。私、何か、ショックだったんです。桑原さんと別々の職場になるのが。私、桑原さんかなり好きなんで。でも、同じくらい喜んでます。さっきの『お疲れさまです』は、単純に、お昼の業務お疲れって意味で…でも、多分、凄い語弊がある言い方になってたと思います。本当にすみません。店長就任、おめでとうございます」
「……はい。ありがとうございます。多分、誤解されてるようですが」
「はい」
「職場は変わっても、眼福映画鑑賞会は不滅ですからねえ。この世にイケメンが潰えぬ限り、続けますよお」

変わらないと思っていた日常が変わり、私は彼女と出会えた。彼女の言葉も絶対では無い。きっと私達の関係も変わっていく。それを嘆くべきだろうか。少なくとも、今は違う気がする。

「今夜、敢行しません?眼福レイトショー」
「今夜ですか?急ですねえ。眼福度合いによりますねえ」
「オスカー・ウェルナー主演です」
「決行ですねえ」

職場に戻った景色は、いつも通りのものだった。店長は売り場作り、染井さんは返却作業、柳井君は会計を。この景色もいつか無くなる。そういうものだ。私もその景色に加わり、いつもと変わらぬ作業を終え、一つの夜を跨いだ。若者二人に声をかける。

「これから家で桑原さんと映画観るんだけど、よかったら一緒にどう?」
「今からっすか?いや、パスですわ。眠いっす」
「何観るんですか」
「華氏451」
「あぁ…じゃあ、はい。折角なんで」
「え、じゃあ俺も行きます」

内心ダメ元で声をかけたのだが、承諾して貰えた。そんな私達を店長が恨めしそうに睨んでいる。

「何で俺は誘わないの?」
「いや、年齢的にキツイかと」
「あのね、俺はタルコフスキーのレイトショーを乗り越えてきた男だよ。甘く見ちゃいかんね」

結局、四人で夜の街を闊歩し、私の家に集うことになった。思えば桑原さん以外の人を家に上げるのは初めてだ。あの狭い部屋に五人も入るのだろうか、部屋の片づけもしていない、騒音で苦情が来たらどうしよう……ま、いっか。道中のコンビニを前に四人は立ち止まった。ここで桑原さんと合流する手筈になっている。

「若人たち、これで好きなものを買いなさい。あと適当に赤のボトルをお願い」
「マジっすか。太っ腹っすね、身も心も」

店長から5000円を受け取った二人は店内に消えた。ウインドウ越しに、賑わってる二人が見える。柳井君、憧れの染井さんと二人きりじゃないか。堪能するといいさ、その時間を。

「どう、元気」
「え?はい」

店長の問いかけの意味を瞬間理解出来なかったが、直ぐ思い当たった。多分、さっきの醜態を見られていたんだろう。思えば染井さんが私の提案に乗ってくれたのも、それが原因かもしれない。

「店長、あれから色々考えたんですけど」
「うん」
「私、あの店が好きです。レンタルビデオショップが好きです。無くなってほしくない、改めてそう思いました。なのに何も出来ない無力な自分が、凄くもどかしいです。凄く、かなり、とても……あぁ、これ愚痴ですね。すみません」
「ははは」

店長は指先を顎に沿え、夜空を眺めた。正確には、己の思索を眺めていたのかもしれない。そして誰に向けるでもなく小刻みに頷き、ボソボソと喋り出した。

「何も出来ないってのは違う。エイちゃんはちゃんと好きって言ってくれてる。その言葉を聞いたから俺は頑張ろうって思えたし、そう思えたからこその俺の言葉が、きっとまた別の誰かに影響を与えてる。他にも沢山いると思う。エイちゃんの言葉を聞いて、レンタルビデオを利用してみようって思える人、エイちゃんに対応されてまた来ようって思ってくれる人、エイちゃんのおすすめを聞いてじゃあ私も観てみようって思える人。そこから、多分また繋がっていくんだよ」

そこで店長は私を見据えた。今度は独り言のようにでは無く、しっかり私に向けた言葉として。

「俺はさ、そんな人の想いの連なりが、いつかどこかで実を結ぶんだと思う。ていうか実を結ぶものは全てそんな連なりなんだ。もっと正確に言うと、俺達は想いを連ねながら、現在進行形で実を結び続けてる。だからエイちゃんは無力じゃないよ。無力が悪いってわけでもないけど。兎に角、立派だよ。好きなものを、好きって言って、人を動かしてるんだから。それはエイちゃんにしか出来ないことだから。だから自分を卑下しないでね。ありがとう」
「……店長、良い事言いますね」
「だろ?俺が店長足る所以はそこだよ」

若者二人が大きなビニール袋を両手に出てきた。お釣りは無いらしい。そこに桑原さんが合流し、五人で夜街の風を切る。私のカバンに『華氏451』を忍ばせて、トリュフォー談義を伴って。こんな帰り道も、レンタルビデオならではかもしれない。…いや、これは私の人生ならでは、かな。

汚い六畳間に集った五人、暗い部屋で、音量は壁を通さぬギリギリに。ケースからDVDを取り出す。プレイヤーに挿入する。各々アルコールを片手に、小さな画面を眺める。スクリーンで観る映画もいい。でもこんな手間を伴って観る映画も、また格別だ。


楽しい映画の時間が始まる。
楽しい映画の思い出も、また一つ。


「……何か違くないですか?」
「全く眼福しないですねえ」
「これ、華氏911っすよ」
「マイケル・ムーアじゃねえか」

間違えちゃった。これも、レンタルビデオショップの醍醐味という事で。ところで、昔の映画のスタッフロールはラストでは無く冒頭に来ていた。映画のラストに浮かび上がる文字、終とか、THE ENDとか、fin.…あの終わり方が個人的に好きなので、私の物語もそれに倣うことにする。それではこれにて。

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