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1−11 海


黒瀬花春は自身から流れ出る赤に気付いていないようだ。その赤は彼女の上唇を伝い、まるで涎の様に彼女の口の端から白のテーブルに零れ落ちた。ポタリ、微かなその音に彼女はようやく己の赤に気付いたようだ。ポケットに忍ばせたハンカチでサッとテーブルを拭う。綺麗だ、何もかもが。私は今恐ろしいくらいの充足感と飢餓を感じている。彼女の赤が目の前で、彼女の身体から滲み出ている。私はそれを鑑賞している。この時間が永遠に続けば良いのに。『逃しちゃいけないよ』欲望がそう告げた気がした。

「花春さん、私は率直に、貴女の赤に惚れ込みました」
「赤って……これのこと?」
「触れても良いですか」
「何に」
「その赤に」

当然の欲求だ。究極の芸術を目の前に置けば、誰しもが触れたいと思う筈だ。これは当然の願望、魂の希求。黒瀬花春は何も言わず私の目を据えていた。軽蔑の色味は無い、そこに宿るのは……何だ?分からない、どうでもいい。私は彼女の赤に手を伸ばす。指先に触れたソレは……まさに至高の感触だった。思ったより粘度は無い、そして温かく、愛おしい……何と形容しよう、この真理を占有したような革命的な陶酔状態を。溺れていくようだ、苦難を気泡に変えて、深い海の底に、沈んでいくような……。

「……早苗さん、私、何故貴女に惹かれるかずっと疑問だった」
「はい」
「今分かった。私の究極の芸術は貴女が創るんだ」

彼女の言葉は、私の耳に届かなかった。厳密には届いていた、情報として、音の羅列として。波紋無き水面、沈澱した器官、不能の精神……欲望に溶けた私の心は理性の陸地を拒絶した、赤黒い海となった。



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