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君たちマンゴーだね。

虎を抱きたい人たち。象に乗りたい人たち。私はそのどちらでもなかった。

虎を抱く体験を打診された。赤ちゃん虎なら危険がなくて良いだろうと。虎を抱けるなんて滅多にない、有意義な体験になるだろうと。
それを聞かされて、赤ちゃんとはいえ獰猛な畜生が何かの拍子に襲って来ないとどうして言えようと疑問が湧いた。他の人たちが噛まれなかったからといって自分たちが噛まれないとは限らない。万が一の時の責任は取らないと施設側に一筆書かされるようだ。そしてどうやらたびたび噛まれることがあるという話もあるとかないとか。こんな話が出ているのにどうしてリスクを取るのだろう。私が怪訝な顔をすると、そんなこと言ったら何もできないと同行者は機嫌を損ねた。
私の行いはリスクだらけだ。人生といっていい。綱渡りのような生き方で、自分が今幾分まともらしく生きているように見られることもあるのはとても不思議だ。しかし虎を抱こうだと考えたこともなかった。お金を払えば赤ちゃん以外にも、子供や大人の虎も抱ける。肉食動物を素人が抱っこできるということは相応のからくりがあるはずだ。その背景を見ずににこにこと写真を撮るのが気になった。
私は考えなしの人間だ。行き当たりばったりの人生といっていい。若い頃、自分は落伍者だと思うと知り合いの女性に言ったら、ああ、なんか分かると言われて、自分から言うのはまだしも、人から分かったように言われると腹落ちしなかった。分かった風の人生のあなたに何故分かる。自ら進んで自虐的なことなんて言わなければ良かった。自分の人生の価値は自分が決める。落ちこぼれのさすらうような人生が、どうして幸せでないと言える。
私は浅はかではあるが、お金儲けのために何らかの方法で大人しくさせた虎を抱いてエキサイティングするだろうか。後になって素晴らしい体験をしたと思い返すだろうか。どうしてもそこに行かなければならないのなら、その違和感を感じることこそが体験だ。高いお金を払って? そんな観光客がいるからその観光は続くと言うのに。
だから賛同しなかった。
じゃあ象に乗るならいいだろうと言われた。象は乗っていいものなの? それもそれで下調べが必要だ。相手は「戦象だっているんだからおかしくない」と言った。戦象がおかしいという話はないのか。象に乗ることについてWebで調べてみると、虎然り、象を観光に使うのを虐待とみなすのは偽善だという意見する人もいた。殺された家畜を食べる、狩りをして毛皮にする、ペットを拘束したり服を着せるなどするような、そこらじゅうにいる人々の方がよっぽど虐待とも考えられるのに、それを差し置いてどうして虎や象を擁護するのだ、とネットの人が言った。観光であり文化である。観光がなくなれば動物たちはもっと辛いところで使役されるかもしれない、と書く人もいた。
虎を抱き、象の背中に乗れば印象的な旅の記憶になるだろう。しかし私は反対だった。あれもだめ、これもだめという私に相手は「じゃあここまで来た意味がない」とさらに苛々し始めた。自分の意見を通すために戦象を持ってくる辺りがこの人らしいし、そういうところが嫌だった。この人は虎を抱きたい、象に乗りたい側の人間だ。こういう違和感はじきにもっと大きくなるだろう。

私は考えに考えてタクシーで10分くらいのところにある、山の中の象の施設を調べて連絡を取って来訪の予約をした。象と触れ合うことが安全かどうかも心配だったが、虎抱きもダメ、象乗りもダメでは相手の気持ちが収まらなさそうだったから、せめて近場の象の保護区に出向こうと思ったのだ。誰も何も言ってくれないが、初めての異国で手早くそういう所を探し出して手配できる自分を褒めたい!

翡翠色の海に面した山の中にいる三匹の象はのびのびと暮らしていた。
お客は象の背中に乗らない代わりに、キュウリやスイカ、バナナやサトウキビなどを切って餌として与えたり、泥水を身体に塗ってやったり、水洗いして過ごす。
象たちは長い時間をかけて美味しそうに食べ物を食べた。野菜より果物の方が甘くて好きなようだった。象たちは泥の中に連れて行かれるとはしゃいだ。横たわって脚や鼻をばたつかせ、泥しぶきが力強く飛んだ。そして少し疲れると気持ち良さそうに微睡み始めた。少しすると水浴び場に移動させられ身体を洗われた。象たちは飼育員の号令を受けて鼻から水を噴射し、観光客の身体にかけた。
飼育員たちは一番小さな子象がノーティーで困ると言って笑った。子どもがいたずらできて奔放に振る舞える環境は健全と言えるかもしれない。人間も同じで、特性を抑えつけない環境が子どもには必要だろう。

全ての活動が終わると施設の方に大変甘いマンゴーを食べさせてもらった。私は「うっわ、甘!」と驚いて、あっという間に平らげた。南国の果物は瑞々しく大変甘いらしい。

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