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ベルデン8428

町中華みたいなお店だった。中野の奥まった路地の、とても分かりにくい所にあった。

今ではバンドをやっている人に広く流通している、シカゴの「BELDEN」のケーブルを日本に持ってきたのは、あの人が一番最初だったんじゃないだろうか。

ベルデンケーブルはとても丈夫だったが、最初のうちは音響向けのケーブルとしての供給がなかった。それであのおじさんがケーブルを調達して、ノイズの影響を防ぐためのシールドケーブルを作ったりしていたらしい。

ベルデンの8412は定番中の定番と言われるシールドケーブルで、元々自分はそれを使っていた。ケーブルひとつで音が変わるのは知っていたけれど、どうなれば良い音になるかは分からなかった。自分はベースだから単純に低音がしっかり出ればいいと思っていた。

8412をメールでオーダーして、初めてお店に取りに行った時、
「8412だと低音に締まりがないから8428もおすすめだよ」
とおじさんに言われた。8412より一回りケーブルが太い。

試しに使ってみると、通常、低音が強いと音がぼやけるが、8428は低音がしっかり出ているのに音の輪郭がはっきりして、音圧と存在感が増した。ばちっとはまった。自分が出したい通りの音が出た。

即決で8428を一本買うことにしたら、その場で作ってくれることになった。おじさんがはんだ付け作業をするのを横で見ていた。このお店で買えるケーブルの多くは差込口が決まっていて、アンプ側に差し込む方に色付きの収縮チューブが被せてあった。おじさんは「音の方向性」と言った。はんだ付けしながら、何故方向を付けるのか教えてくれたが忘れてしまった。

それから時々お店に通うようになった。音の方向性もはんだ付けの意味もよく分からないままだったけれど、おじさんに相談するといつもこちらの思った通りの音を提案してくれるので、この人は大変耳のいい魔法使いかと、話す度に感動した。

数年前、バンドに誘ってくれたあるギタリストと練習した時、その人におじさんのところで買った、電源とエフェクターを繋ぐDCケーブルを使ってもらったことがある。
「このケーブル、めっちゃいいんですよ! ちょっと試してみてください!」
その人は使ってみると「音に芯が出た!」ととても驚いた。
「ですよね! 分かってもらえますか! 中野にすごいおじさんがいるんですよ」
自分は嬉しくなって、
「良かったら使ってください。自分の分はまた作ってもらいますんで」
と言って、そのケーブルをその人にあげてしまった。

そのバンドは目的のプロジェクトが終わって活動を休止してしまったけれど、最近になってその人がまた声をかけてくれ、数年ぶりに一緒にやらせてもらうことになった。とてもありがたい話だと思った。先日のリハーサルの時、その人は嬉しそうに「これ、まだ使ってるよ」とあのケーブルを見せてくれた。音楽活動でとても忙しそうな人なのに、何年も前のことを覚えてくれていて、今でも大切に使ってくれていることにとても感激した。

一般的にリハーサルと本番では音が違う。お客さんの身体や衣服が音を吸ってしまうことが原因で、本番になると低音が聞こえなくなったり、音程が不明瞭になったりするけれど、8428を使うとリハーサルと変わらずはっきり音が聞こえるようになった。音の残り方が違った。おじさんにはライブやレコーディングで必要とされる音が何かということも教えてもらったと思う。

おじさんの手にかかると自分の出てほしい音のレンジが思い通りに出た。音の重量感と強度が上がった。とても頼りになる人だった。

今、おじさんの突然の訃報を知って本当に悲しい。

大好きだった。もっと話を聞きたかった。替えの利かない人だった。おじさんのやり方を知らなければ他でも間に合うかもしれないが、もう知ってしまった。これからどうすれば良いだろう。こう思っているのは自分だけではないだろう、プロアマ問わず、多くのミュージシャンに重宝され、愛された人だったと思う。今、とても大きな喪失感に包まれている。

そこで自分は先のギタリストに連絡を取り、おじさんが亡くなったことを伝えるとともに、DCケーブルを返してくれと言った。


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