見出し画像

時間だけは皆、平等に流れる。


「疲れている時は
何もしないで時間に身を任せましょう」


何もしない時間は贅沢なのだとお洒落な雑誌では口を揃えて書かれているけれど、何もしないことで心が埋まるなら皆が皆ハッピーな暮らしを既にしているだろう。でも現実はそうではないのだから、100%の「のんびり時間」は心を100%に満たすわけではない。それは日々仕事の中の束の間の休息で得られる唯一のものであり、GWの全ての期間には適さない時間なのだ。長い休みが目の前にある中での何もしない時間はいつか必ず飽きてしまう。的確な期間が見えているからこそ、短いのんびりを充実させるのだ。

私は日々生活する上で損得勘定が働く方だ。「今これをしたら何か得られるのか」「この時間を過ごしたら後で後悔しないか」そうやって事前に予防線をしっかり張って行動の選択をしている。ドラマを見るのならば読書の時間に充てたいと感じてしまうのもわざとではなくて、その傾向なのだと思う。自分に課したルールがちょっとだけ多くて、その選択によって周囲と馴染めないことは多くあるけれど、それ以外の部分で補えれば良いじゃないか。


〜〜〜

だけど、この長い休みになると気持ちが緩くなってしまうことも事実。あんなに張り巡らせてる緊張のアンテナがだるんだるんになり、意識を持って過ごさないでいると1日が簡単に淡々と終わってしまうから、時間がありすぎるということも罪だ。会社に通う日々ではあんなにも「休み欲しい」と思っているのに、今では時間割を自身に刻んでいないと寄り道ばかり。

そんな今の状況、野村克也監督の言葉を思い出した。


老若男女を問わず、1日に与えられる時間は24時間である。お金持ちであろうが貧乏人であろうが、天が与えてくれる時間は同じだ。それでも、人それぞれで結果や成果は変わってくる。この点にこそ、勝負の要諦が隠されている。時間を如何に使っていくか。どのように効率よく課題に立ち向かっていくか。どのような努力が可能なのか。結果にこだわり、時間の使い方を常に意識した生活を送っていきたいものだ。


見た目や才能、環境は生まれてくる時点で選ぶことはできない。でも時間は皆平等なのだ。その時間をいかにして過ごすかがその人を作る唯一の武器なのだ。


外に出られない今年のGW。何もしない時間を過ごすにはあまりにも長すぎる。初日は確かに昼寝までしてしまい文字通りの「のんびり」を過ごした。でも二日目からは体が痛くなり、眠って過ごすことに飽きて「何かしないと勿体ない」と言う気持ちすら芽生え始めた。長い休みを手にした時、その時間を有効に使えるか。何のための休みなのか、何をこの期間で習得するか、或いはそこまで行かなくとも達成したいことは何なのか。


自分に鞭を打って、過度なだらけにならないように過ごしたい。それは難しいことではない。少しだけ意識を外側へ、そして何日後かの自分の意識「後悔しないか」ということだけを考えてみれば自ずと選ぶ道は見えてくるのではないだろうか。




この記事が参加している募集

#習慣にしていること

131,037件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?