読書って何の意味があるの?〜年間130冊以上本を読む会社員の考え

私が小学生の頃、母が読み聞かせボランティアサークルのメンバーだったためか身近に絵本の存在があり、字を読むことに何の抵抗もなく育ちました。授業中同級生の視線を集めながらの音読の苦労はなかったし、受験科目の現代文に至っては勉強をした覚えがありません。日常的に本を読む習慣があり、図書館・書店は最高の暇つぶし場所。母の影響でその環境がある意味当然であったことは私の武器だと、今になって感謝しています。

そんな私は昨年の3月にkindle(Amazonの電子書籍を読む端末・そのサービス)を手にしてから、通勤中・バスタブの中・就寝前・出先の待ち時間等、その殆どを読書に費やし一冊ずつ内容と感想をノートに記録し続けた結果、3月から12月の間で133冊の本を読み終えました。勿論私よりも遥かに多くの本を読まれる方がいるのは承知ですが、今まで触れたことのない数字に高揚感が募り、本を読むこと自体が楽しみへと変わりこの冊数に辿り着けたと思っています。

こうして本を読み続けていく中で気がついたことが幾つかあります。

● 小説・ビジネス・エッセイ、
  異なるジャンルにも関わらず《共通ワード》が出てくること
●「この内容、以前もどこかで読んだな」という繰り返しが何度も訪れること
● それがザイオンス効果を生み、私自身言葉を素直に受け入れていること

今回のタイトル「読書って何の意味があるの?」
この疑問はおかしな話、本を普段から読む私が長年心に抱き続けていたものでした。ただ習慣だったため抵抗なく本を手にしていましたが、本当は心の奥底で考え続けていました。実際本を読んで知識を得ても一瞬のものになってしまったり、感動は簡単に薄れていく。誰かに話をしても本を読む人とそうでない人では共通の話が難しい歯痒さ。そして何より膨大な時間を費やしてまで、対人間ではなく対活字に向き合うことの勿体無さを感じる瞬間が正直あったためです。

何故小さかった当時の私は、本を抵抗なく読んでいたのかを考えると習慣としか答えがないのですが。疑問を抱きつつ、本を読んで記録することを繰り返して楽しさが芽生え、そこでようやく、その答えを3点に絞ることができ、輪郭が見えた気がしています。

それは
● 自身一人の考えだけで生きていくより
  複数の考えに触れることで選択肢が増え、最善の行動をとれるから
● スコトーマを外すのに最適だから
● 誰かの知識・叡智を受け取りやすいから
  です。


まず、本は「紙」或いは「画面上」のものでしかなく、当然生身の人間と比較してしまえば堅物にそして温度のない冷たさを感じるものです。それでも生身の人間よりもよっぽど主張が強い。それは何故かというと、世間が遠慮して言えないことや、声に出すには考える時間が必要なこと、安易に言葉に出来ないこと、賛成であり批判、そういったことを研究結果を引用しながら時間をかけて文字に残し、個人の主張としてストレートに伝えているからです。

私は本というのは、人間でいう「嫌われそうな、実際に話したら熱量が高すぎてちょっと面倒なタイプ」であっても本を仲介すればそこまで近づき辛い相手ではなくなる、そういうものだと認識しています。対人間だと受け取る側の意地やプライドで左右されやすい意見を本から取得し、その中で取り入れたいものだけを自分の中に落とし込むことが出来れば、自身の狭い見解だけで生きることなく、様々な視点を持ち、最善を考えた上での選択が可能になるということが、読書の意味のうちの一つであると私は感じています。

次に、人間は全ての情報を同時に見ることが困難なため、自分の重要・正しいと思うものを意識的にピックアップし、結果スコトーマが発生してしまいます。自身のフィルターだけで物事を見ていると、案外近くにある大切なことに気がつけず後に後悔する状況が起こりやすくなります。

それは就職活動や恋愛にまで。私の実体験をここでお話しすると、恋愛関係で「選ばれる側・選定される側」の扱いを受けたことがあります。「Aさんと付き合うメリットデメリットと私と付き合うメリットデメリット」を天秤にかけられ比較され、最終的な話し合いでお互い綺麗に手を引くという結論になりました。

その結論に至るまで当時はそのお相手が本当に大切だったこともあり「恋は盲目」と言葉通りに。「選定される側」にいる状況を疑問に思うこともありませんでしたが、冷静に考えればその状況自体が誤りであると判断出来るはずなのです。ですが判断できる精神状態ではなかった私は、友人からのアドバイスではなく、たまたま手にした本のたった一文で今の自分の立ち位置やどうするべきなのかということ気がつきました。

「自分が選ばれる対象ではなく、自分自身が選択する主体、という意識を持つ」

(いくつになっても恥をかける人になる/中川涼 著)

少し例えが特殊で、ビジネス書に書かれているスコトーマとはタイプが異質にはなりましたが(ビジネス書はスコトーマを外すために人と会う等)、見えなくなってしまっている部分、スコートマを外すきっかけとなるものが本なのです。友人に泣きながら相談した日々は記憶に残り、情の深い優しい言葉は理解されたようで嬉しかったのですが、私のことを全く知らない作者が冷静に意見を述べた本とでは、パンチの効力が全く違うものなのです。


最後に、本を読み続けていく中で、ジャンルが異なるにも関わらず同じ言葉・内容が用いられていることに気が付きました。例えばエッセイ本は優しく癒される言葉が書いてありますが、書店のエッセイ本コーナーで何冊か順に立ち読みをする内容が類似しているものが多いです(最近だと柔らかいイラストの挿入や字体、空白利用等、近しいものを感じます)。

また私は好きで手に取りますが、エッセイ本の特徴としては年齢・性別で意識すると、正直口に出すと気恥ずかしい言葉の羅列と感じる人も多いでしょう。10代で主に利用されているTikTokでは恋愛に悩む若者が、エッセイ本の中で心に響くページをスマホ上写真に収め、「こんなことが書いてあったよ」と紹介している人達もいるようです。ハッシュタグの後にその本のタイトルを入力し検索すると驚くほどの数がヒットします。

それほど支持率を得られる、ストレートな表現が出来てしまうのが本。年齢・性別・人それぞれ捉え方は変わりますが多くの人に正直に伝えられるのが本。本とはそういう役割なんだと思います。

何度も同じ言葉に触れ、違う角度からの視点だったはずが着地地点が同じだと気がつくこと。そうして意識せずとも目に触れる機会が増えることによって、抵抗少なく知識・叡智を吸収することが出来ます。エッセイ本に限らずビジネスでも同じことが言えるのではないでしょうか。作者が異なっても、ジャンルが異なっても出てくる「共通ワード」を意識してみると、既に一度頭に入れたことがある内容の復習であった経験があると思います。以前の私は何となく本を読み、その共通点や意味を考えることを放棄してきましたが、この1年間で多くの字に触れ気がつくことが、今の私の考え方へ変えました。


前提として、本を読むだけでは賢くなれませんし、以降の生活が華やかになるわけではありません。本はお金を払えば簡単に手に入るけど劇薬ではない。旅行に行けば実際濃い経験が手に入りますが、本がいくら擬似体験と言われても所詮誰かの経験のため体感としては薄くなってしまいます。それでも読み方を意識できれば時間を割いてでも得られることは遥かに多いのです。

大事なことは淡々と読み終えてしまうのではなく共通ワードに気がつくこと。そしてその得たことを忘れないために、すぐ行動することです。ですが本当に初めましてのジャンルの時はどうしても時間がかかるでしょう(或いは今まで学んできたこととは真っ向反対意見)。今私の目の前に物理関連の本が積まれたとしたら、そもそも用語から躓いてしまうでしょう。それでも毎日少しずつ分からない部分を分解し、そして興味を持ち続ることが出来たなら、基礎固めからならスタート出来るかもしれません。その後何度も「気づき」を得ながら数をこなしていき、レベルアップをしていけばいいのです。

本を133冊読んで分かった事は、読む量は誰かと比較するものではなく、気づきと学びと行動を繰り返すことに意味がある、ということでした。そしてそれは自身の最善の選択のため、最善の選択をしたその先に、大切な人達の幸せがあることを願って、私はこれからも本と向き合いたいと思っています。

2023/1/11


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