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短編小説|愛しいあの子

寒い──。

ブルっと身震いして、目が覚めた。

先ほどまで、部屋の中に差し込んでいたあたたかな日差しは、すっかり角度を変えてしまっている。

どうりで寒いはずだと目をやると、眠る前に体にかかっていたお気に入りの毛布がなくなっていた。

おかしいな、と思ったのもつかの間、となりで眠るあの子の小さな手がしっかりと毛布を握りしめているのが視界に入る。

どうやら自分の毛布を蹴飛ばしたらしいあの子は、代わりにわたしの毛布を引っ張って自分のものにしたようだった。


やれやれ──。


わたしは大きく伸びをする。眠気はすっかり消えてしまった。


すうすうと気持ちよさそうな寝息が聞こえ、寝顔をそっと覗きこむと、うっすらと甘いミルクのかおりが鼻先をくすぐる。

この幼い体が冷えてしまわなくてよかった。

わたしは、ほっと胸をなで下ろす。


「──クロ」


やさしげな声が聞こえ、わたしの頭にあたたかな手が置かれる。

ふり返ると、


「いっしょにお昼寝してくれてたの? あ、やだ、クロの毛布とっちゃってる。ごめんね」


ママさんがあわてたように、あの子の小さな手からわたしのお気に入りの毛布をそっと外してくれる。


「さ、ちゃんと自分の毛布を使ってね」


そう言うと、ママさんはあの子の体を覆うように、あの子専用の毛布をふわりとかけた。

その声はとてもやさしく響き、それはわたしを呼ぶときも変わらない。

わたしはママさんの手の甲に頭をすりよせる。


「ふふふ、クロは甘えん坊さんね」


ママさんは、わたしの体を抱き上げると、ぎゅっと抱きしめて背中をポンポンとなでてくれる。あの子にするのと同じように。

わたしはこの瞬間が大好きだ。


ママさんに抱かれながら、わたしはあの子の寝顔を見下ろす。

いつもとは違う視点から見るあの子は、またいちだんと可愛いらしい。

ときおりなにかを食むように、もごもごと唇を動かし、小さな両の手をぴくりぴくりと動かす。


どんな夢を見ているのだろうか。


わたしはあの子の夢の中を想像しながら、ママさんのなでるリズムにあわせて、しっぽをゆらゆらとゆらす。

あの子は、わたしのこの黒くてふさふさしたしっぽが大好きなのだ。

目の前で揺らしてあげると、きゃっきゃっと声をあげて笑ってくれる。

そう、それはきっと夢の中でも──。


***


──わたしは、生まれる前からあの子のことを知っていた。


じじ様が亡くなったとき、わたしの中の大事な部分も壊れてしまったと思った。

じじ様はわたしのことをとても大切にしてくれる人だった。


わたしは大声で泣いた。でもじじ様の息子夫婦には、わたしの深い悲しみなど、これっぽっちも通じなかった。

ただわたしがうるさく鳴いていると思ったようだった。

わたしをうとましく感じているのは、毛の先にまでひしひしと伝わってくる。


『あなた、お義父さんが飼っていたこの猫、どうするの? うちは無理よ、猫の世話なんて』


『そうは言ってもなあ。この猫は年寄りだからもらい手もいないだろうし……』


そんな会話がかわされていた。彼らは核心には触れないものの、わたしをどうするかの選択肢はひとつしかないようだった。


”どこかに捨てられる”


そうなる前に、わたしはじじ様と暮らしたこの家を自ら出ていくことを決めた。

身が引き裂かれる思いだったが、それ以上に、じじ様が生きている間にまったく寄り付きもしなかった者たちが、じじ様とわたしの大切なこの家を荒らすのかと思うと悔しかった。

じじ様は身寄りのないわたしを受け入れ、守ってくれたのに、わたしはじじ様の大切なものを守ることができない。それがただただ悲しかった。


そしてわたしが決意を固めた翌日のことだった。

じじ様が小さな小さな骨になって帰ってきたあと、家を訪ねてくる若い夫婦がいた。

室内へ通され、じじ様にお線香をあげる。

しばらくしてから若い夫婦は、お互いに目配せしながら、なにかを切り出すタイミングをうかがっているようだった。

じじ様の息子夫婦は怪訝な顔をする。

長い沈黙のあと、意を決したように口を開いたのは、若い夫婦の妻のほうだった。


『あの、この子、どうなるんですか……?』


ふすまから様子をうかがっていたわたしに目をやったあと、やや緊張気味でじじ様の息子夫婦に問いかける。


『いや、どうするもなにも、あはは』


じじ様の息子は、はぐらかす笑みを浮かべながら言葉をにごす。瞳はよけいなお世話だと語っていた。


しかし若い夫婦の妻は、それにひるむことなく、深く息を吸い込むと続けて言った。


『そうですか、では私たちのところにお迎えしても問題ないですよね』


***


そうしてわたしが、この若い夫婦のパパさん、ママさんのところにきたのは、もう二年も前のことだ。


パパさん、ママさんは、じじ様の家の近くのマンションに住んでいる夫婦だった。


じつを言うと、わたしはこのふたりのことを知っていた。

散歩中の塀の上で、彼らとあいさつをかわすことがあったからだ。とても仲のよい夫婦だと思っていた。


とはいえ、じじ様がいない悲しみに、知らない場所のにおい、わたしは終始落ち着かず、食事も喉を通らなかった。

それでも見守るようにやさしく接してくれた彼らのおかげで、わたしは徐々に新しい日常に馴染んでいった。


そうして一年が過ぎたころ、ママさんの周りに一粒の淡い光がふわふわ漂っているのが見えはじめた。

それはやがて強い光を放つようになり、ある日を境に消えた。


わたしはその光がなんなのか知っていた。

かつてじじ様の家の庭で、子猫を宿した近所のミーヤにも同じ光を見たことがあったからだ。

──新しい命の光。


それからわたしは、あの子が生まれてくるのを心待ちにしていた。


『クロお兄ちゃん、よろしくね』


ママさんはわたしに言った。


わたしはとても誇らしかった。

わたしに役割ができたのだ。

それもとびきり重要な役割が──。


あの子はわたしにとって、弟であり、息子であり、

──愛しい愛しい、あの子なのだ。



*最後まで読んでいただき、ありがとうございます!



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