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あの音楽を聴きたくなる短編小説1


我らをゆるしたまえ -Forgive Us-


(1)

 その日は土曜日だったが、マキシンはこれがニックと過ごす最後の週末になるだろうと思っていた。

 二人ともこれからのことを思うと気が滅入るのだが、やけになっているニックと違い、どちらかというと楽観主義であるマキシンは差し当たって次の行動に考えを巡らせていた。

「そうだわ、ニック。天気もいいことだし、車で海まで行ってみない?」

 マキシンがキッチンから声をかけたとき、ニックは洗面台で手を洗っていた。

「今、そんな場合じゃないだろ」

「だって、どっちにしろ、もうここにはいられないじゃない。だったら、できるだけ気分がいいところへ行きたい」

 栓が抜かれ、溜めていた水が流れる音が聞こえる。

「そうよ! ロード・アイランドはどう? ちょうど今、音楽祭をやってるの! 『ニューポート・ジャズ・フェスティバル』! ラジオで言ってたの、今年はサッチモが出るとか!」

 洗面所からニックが顔をのぞかせた。

「……サッチモ?」

「そう、サッチモ。ルイ・アームストロング。『この素晴らしき世界』ね。ふふっ。好きでしょ、ニック。レコード持ってたじゃない」

「大好きだ」

 タオルで手を拭きながら、ニックがキッチンに入ってくる。

「決まりね」

 マキシンがおかしなポーズをとった。ニックの鼻が少し膨らんだ。

「じゃあ、俺はおばさんに言ってフォードの鍵を借りてくるから、二階のクローゼットで着替えをみつくろっておいてくれよ」

「あっ、私ね、フォードじゃなくて、キャディがいい! あのお尻の大きな黄色の! 素敵じゃない!」

「おいおい、おじさんが新車で買ってまだ半月。貸してくれないよ。ああ、いや、まあ、知ったことじゃないか。そうだ、よかったら着替えのついでにトランクも出しといてくれ」

「いやよ、重いわ」

「持って降りるのは俺がやるから」

 玄関の扉が閉まる音がすると、マキシンはテーブルに置いてあったタバコを口にくわえた。マッチを擦って火を点けようとしたが、うまく点けられなかった。

 着替えとトランク。そうね、確かに必要だわ。

 マキシンは階段を昇って寝室に入り、クローゼットの扉を開けた。




(2)

 黄色いキャデラックの屋根をオープンにして、二人は島へ向かう海上道路を走った。 空の青と海の蒼。照りつける太陽の熱を、汐を含んだ風が冷ましてくれる。

 白地に赤いドット柄のワンピースを着たマキシンが、助手席で帽子のつばを押さえながら言った。


「ニック、ソーダがあるわよ。飲む?」


 紺のスポーツシャツの袖をまくり上げ、深いグリーンのサングラスをかけたニック。


「いや、ビールがいい。開けてくれ」


 ラジオのつまみを回すと、ノイズの中から陽気なブラスのフレーズが見つかった。ペレス・プラード楽団の最新ヒット「パトリシア」。


「見て、吊り橋! あんなところを通るのね。船が下をくぐっていくわ! すごい!」

 海上道路の終わりが近づき、港が見えてくる。

 ひしめくようにヨットが並び、その白い帆が心躍る夏の日差しを反射させている。


「ほら、あそこの船から子供が手を振ってる!」

 ボードに書かれたウェルカムという文字を横目に、トールロードを抜けて上陸、幹線に合流し、いかにもリゾート地らしい豪邸が建ち並ぶ大通りをぬけて、さっき海から見たハーバーを目指す。


「見て、あの標識。フェアウェル・ストリートですって。ふふっ。今、来たばかりなのに、もう “さよなら” だなんて」

 
風にゆれるヨットたちを見つけ、ハーバーを利用する客用の駐車場に車を停めた。


 ニックが車から身を乗り出し、ヨットからロープを下ろしている頭髪の薄い男にむかって声をかけた。


「やあ。いい天気だね」

 声に気がついた男が顔をあげて応える。真っ赤に焼けた頭皮の上で、わずかに残った白い髪がゆれた。


「まったくだ。ヨット日和とは、こういう日のことをいうのだな。何か用かね?」


「今、着いたばかりなんだ。いいホテルを知らないか? ジャズ・フェスティバルの会場に近いとありがたい」


「ふむ、会場はベルコート・キャッスルってところなんだが、ここを引き返して右へ曲がるとベルヴィル通りっていう道に出るから、そこを道なりに行けばすぐ見つかる。ただ、会場の近くはどこも人が多いだろうから、会場とは反対方向の宿を探したほうが賢明だろうな。まあ、もっと詳しく教えてやれたらいいんだが、私たちはあいにくホテルではなくて、サマーハウスで過ごしているものでね」


「どうも、ご親切に」


 それを聞き終わるか終わらないかのうちに、ニックがまたエンジンをかけた。
マキシンが口をはさんだ。


「お礼にあなた、ソーダはいかが?」


「いや、もう飲んでるんだ。ありがとう。よい一日を」

 ハーバーの男の言ったとおり、会場付近の宿はすべて満室を理由に断られた。知らない道を車で何度もうろつき回り、キャンセルが出たという古ぼけた小さな宿にやっとチェックインできた。

 隣接のレストランでの遅い昼食をとり、デザートのライチ・シャーベットでマキシンはすっかり上機嫌になった。


 それから腹ごなしに通りを探索した。ビーチは思ったより遠く、また後にしようと海が見える前に引き返した。

 部屋に戻った二人は抱き合ってセックスをした。


 シャワーの後、頭と体にタオルを巻いて頰を赤くしたマキシンが、そろそろ会場へ行こうとニックを誘ったが、ベッドの上の彼は運転で疲れたと言い、そう言えば二人とも前日は一睡もしていなかったので、そのまま夕方までひと眠りすることになった。


「急ぐことはないよ。サッチモの出番はもっと遅いはずだから」




(3)


 ニックが目を覚ますと、夕方どころか、窓の外は真っ暗な闇に塗りつぶされていた。

 
起き抜けにニックが怒鳴った。


「どうして起こさないんだ!」

 
濃いブルーのインナー姿でドレッサーの椅子に座り、雑誌を眺めていたマキシンの眉が吊り上がった。


「起こしたわよ! 何度も声をかけたの! あんたは起きなかったの!  自分が悪いんでしょ! どうして私が怒られるのよ!」


 舌うちして、立ち上がるニック。マキシンに詰め寄る。


「いいか。相手が起きないんだったら、起こしたとは言わない! 起きるまで、揺すってでも叩いてでも起こすんだ!」

 投げつけられた雑誌が、ニックの額に当たる。

「知らないわよ、そんなの! 私だって観に行きたかったのよ! でも、すっごく疲れてそうだったから、寝かせておいてあげたの! そうね、あんたの奥さんだったら、こういうとき、やさしく撫でて起こしてくれたんでしょうね! ママが子供を起こすときみたいに! さあ、もうおっきしましょうね! かわいい、かわいい、私の赤ちゃん!」


 ニックが拳を振り上げた。
マキシンは座ったままニックを見据えた。

 
置き時計の針の音に混じって、雨粒が窓ガラスを打つ音が聞こえた。

 だらりとニックの腕が下がった。うつむいた細い顔に濃いオレンジ色の影。


「……あいつのことは言うな」


 マキシンはドレッサーをなぎ払い、照明のスタンドをつかんで床に叩きつけた。




(4)

 1958年のニューポート・ジャズ・フェスティバル。夜は深まり、すでに日付は日曜に変わっていた。

 野外である会場では雨が降り出したにも関わらず、興奮しきった観客たちが一心にステージを見つめている。

 ラインナップの最後に登場したゴスペルの女王、マヘリア・ジャクソンは、歌い出しのワンフレーズですべての観客の心をつかんだ。母性の固まりのようなふくよかな体で、ステップを踏み、手を打ち鳴らし、その迷いのないまっすぐな声で、神への感謝を魂のかぎり歌い上げる。

「ゴスペルソングは希望の歌です。人はゴスペルを歌うことで、苦しみや悲しみを癒すことができるのです」

 降り止まぬ雨を吹き飛ばすような熱狂的なアンコールの拍手に、再三再四ステージに戻された彼女は、少女のようにはにかんで応えた。

「なんだか、スターにでもなった気分だわ」

 星の瞬きにも似たピアノのイントロに導かれ、歌い出した祈りの歌。クライマックスにむけて力強さを増し、それは人々を導く神々しい光となった。



 我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
 我らの罪をもゆるしたまえ

 我らをこころみにあわせず
 悪より救い出したまえ

 AMEN



 マキシンとニックは手をつなぎ、会場の一番後ろでその光景を見ていた。まるで乗り遅れた船の出航を見送るように、二人はそれが見えなくなるまで、ずっとそこで立ちすくんでいた。




(5)

 ホテルに戻った二人は、濡れた服を脱いで毛布にくるまり、並んでベッドに座っていた。

 マキシンが口を開いた。

「彼女の歌、すばらしかったわね」

「ああ」

「私たちも、ゆるされると思う?」

「……それは」

 二人の目が同じものを見ていた。 床に寝かされた革のトランク。 ヒザを抱えた恰好で冷たくなっている見えないはずの中身が、二人にはまるで見えているかのようだった。

 マキシンが笑った。

「サッチモ、見られなかったね。ごめんね」

 ニックは冷たい肩を抱き寄せた。




(5)

 朝が来た。開けた窓から見える、青く澄み切った空。

 ホテルの駐車場。黒い制服を着た二人の男が黄色いキャデラックを覗き込んでいた。彼らはうなずくと、フロントに行って支配人を呼んだ。

 客室のドアをノックする。中からの返事はない。

 支配人が合鍵を使ってドアを開けた。


 セミが鳴いていた。朝とはいえ、窓から差し込む光はもう、強い夏の日差しだったのだ。





我らをゆるしたまえ -Forgive Us-

Thanks For Inspiration,
MAHALIA JACKSON『NEW PORT 1958』(1986)


映画「JAZZ ON A SUMMER'S DAY (邦題 真夏の夜のジャズ)」(1960)



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