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フジテレビの最終面接で落ちてくすぶってた、あのころのぼくに伝えたいこと

ぼくは名古屋のデザインファーム「アクアリング」の社長をしています。

設立から22年。デンソーさんやソフトバンクさんなど、大手企業のウェブサイトを数多く手がけています。名古屋ではけっこう有名なのですが、全国的な知名度はまだまだ。。。

自分で言うのもなんですが、すごくいい会社なので、もっと多くの人に知ってほしいんです!!! 約20年この会社で働いて、いちばん魅力を知ってるぼくが、ちゃんと発信していかなくては……! そう思い立って、このたびnoteをはじめました。

今回は、自分のキャリアについて。

ぼくは受験も就活も失敗し、転職していまの会社に飛びこみました

そう、アクアリングという会社はぼくがつくった会社ではありません。

なぜ創業者でもないし「優秀」な肩書きもなかったぼくが、社長をやることになったのか? そこには理由がありました。就活生のかたや、転職を考えているかたの参考になったら、とてもうれしく思います。

「俺がいちばんおもしろい!」

今から30年ほど前。高校生のぼくは無敵でした。

応援団の団長をやったり、学園祭でバンドをやったり。おもしろい企画を考えて、みんなを喜ばせるのが大好きでした。気づけばいつもみんなの中心にいて、先生から「お前は教祖みたいだよな」と言われるぐらいでした。

ところが、受験で大失敗。1年浪人したにもかかわらず、希望の大学にはいけませんでした。進学校だったので、周りの友達はみんないい大学に行ったのに。

このまま終わりたくない。

「自分が勝てる土俵はほかにあるはずだ」と、大学ではとにかく色々やってみました。「ダブルトールカフェ」代表の齊藤さんのもとでバリスタの修行をしたり、当時まったく知られていなかった「アカペラ」を始めたり。

就活はマスコミを目指すことにしました。やっぱり、新しくておもしろいことを考えるのには自信があったからです。ダブルスクールでマスコミの専門学校にも通って。

最初に受けたのはテレビのキー局、なかでもバラエティーに強い、日テレとフジテレビだけ。

いま考えると、そうとう調子に乗ってました。

テレビ局を受ける人は、当時2万人以上いました。ぼくは書類で落とされないように、履歴書にフジテレビのマークを筆ペンで書いて、真ん中の●マークのところにタバコで穴をあけて提出したんです。

とりあえず「こいつヤバい奴だな、一回会ってみよう」と思わせる作戦でした。直接会わせてもらえれば、プレゼンする自信はあった。

「新しいカルチャーをつくるのは俺だ。俺がいちばんおもしろい!」と、尖りまくっていたんです。

日テレは二次で落ちてしまったけど、フジテレビは最終まで残りました。自分の中で確固たる「バラエティー番組理論」があって、それをおもしろがってもらえたんです。「将来、テレビは絶対にこうなっていくから、俺としてはこれがやりたい」と。

それを、当時「HEY!HEY!HEY!」のプロデューサーだった方にお話ししたら「おまえ、おもしろいね。たしかにそうなるかもしれないわ」って言ってもらえて。うれしくて内心、飛び上がったのを覚えてます。

受かる気満々だった最終面接で、まさかの不合格

フジの最終面接に残ったのは15人。

面接の前から、人事も「君はたぶんもう受かるから、入社したらどうする?」なんて言ってくれていました。テレビ局の中を連れ回されて、いろんな人に紹介してくれたりして。だから、ぼくはもう受かる気満々で「まあ内定ですよね」ぐらいの感覚でいたんです。

そしたら、結果はまさかの不合格。

「は? なんで?」という感じでした。

最終に残ったのは15人で、落ちたのは2人だけ。邪推ですが、最終面接では「学歴」も見られていたんです。それまで書類も含め、学歴は一度も聞かれなかったのに、最終面接で初めて「大学を書け」と言われて。

その後、別のテレビ局の面接で、もう1人の不合格だった子に会いました。その子は、ぼくと同じ普通レベルの大学だったんです。他の人は、みんな上位校だった。

めちゃくちゃ悔しかったし、ムカつきました。「結局そこかよ!」と。

いま思えば、実際、能力不足だったんです。学歴が理由だったのかも定かではありません。

ただ、そのときはもう悔しくて悔しくて。「絶対、あいつらよりもおもしろい人生を歩んでやる!!」「いまに見てろよ!!」と思っていました。

フォーマット通りの仕事に「俺、必要ないじゃん」

テレビ局に落ちたぼくを拾ってくれたのは、当時上場直前だった人材系の情報サービス会社でした。学生向けの採用ツールをつくる会社で、ぼくは営業として入社しました。

そこでぼくは、社会の厳しさを知りました。

会社では「自社のポリシー」はあまりなくて、お客さんの言うことを聞くのが当たり前でした。採用のツールをつくるときも、とにかく「ポリシー」より「利益」が優先。

「とりあえず、なにがなんでも予算目標を達成しろ。制作物もお客さんの要望通り作り変えろ。お客さんがOKだったらいいぞ」という感じです。

商品を売らないといけないんだから、当然といえば当然なんです。

ただ、ぼくはそのスタンスがすごく嫌で、いつも上司に愚痴を言っていました。

学生のときは、自分で企画して、おもしろいことをやって、周りを振り回していたんです。「俺がいなくなったら、みんな楽しくなくなる」という感覚があって、だからやりがいもありました。

でも社会に出たら、仕事のフォーマットは決まってて、その通りにやるのが正しいという世界。個性を発揮するスキマはなくて、ぼくじゃない他の人でも、同じ仕事ができてしまう。

「俺、必要ないじゃん」と思ってしまったんです。

それで出世できても、ぜんぜんおもしろくない。そんな不満を、成果が出ないことの「言い訳」にしてしまっている自分にも、嫌気がさしました。

「NO」を言える社長に惚れて転職

そんなとき、たまたまネットの仕事があって、田中というエンジニアに出会いました。ぼくが発注者で、彼が外注先という関係です。

田中は、ぼくの言うことに対して「ノー」と言ってきたんです。

最初は「なんだこいつ?」と思いました。外注先から依頼内容を跳ね返されたのは、初めてだったからです。

当時、お付き合いしていた業者さんの多くは、ぼくたちと同じく「とにかくお客さんの言うことを聞く」スタンスでした。「はい、茂森さんの言う通り、赤を青に変えます」と。

でも本当にプロなら、ときにはお客さんの要望をはね返して、クオリティを上げるためのアドバイスをしなきゃいけないんです。

ぼくも、内心ではわかっていました。でも「社会ってこういうものだ」という空気にのまれかけていた。

そんななかで出会った田中の「いいモノづくり」の精神は、めちゃくちゃカッコよく見えました。

話を聞くと、田中は「アクアリング」というウェブ制作会社をやっていて。

2001年当時、ネットは「最先端」の業界でした。そこに行けば、もしかしたらテレビ局に就職した人たちよりも「新しくておもしろい」ことができるんじゃないか……?

ぼくはいてもたってもいられず、周りの反対も押し切って、上場目前の会社を辞めました。

そして、設立2年目、スタッフも10人弱のどベンチャーだった、アクアリングに飛び込んだのです。

自分の仕事次第で、会社が潰れるかもしれない

創業当初のアクアリングは「どブラック」でした。

メンバーはみんな独身で、会社に寝泊まりしている人もふつうにいました。田中は「ほんとうにいいモノじゃないと認めない」という人なので、つくった企画も何度もつき返されます。

徹夜も当たり前。取っ組み合いになりながら、デザインについて議論することもざらにあって。毎日のようにゴミ箱が蹴り飛ばされていました。

経営的にも「この仕事ができなかったらうちの会社は潰れる」みたいな状況。ぼくは営業として、とにかくがむしゃらに働きました。

毎日ヒリヒリしたけど、それが楽しくもあって。

前職のときは「俺なんていなくてもいいじゃん」と思っていたけれど、ここでは自分の仕事が会社の存亡を左右するんです。自然と当事者意識が生まれたし、なにより成長できました。

ぼくは入社から3年ほどでトップ営業になり、プランニングの部署のリーダーも任されるようになりました。

プレッシャーはあるしつらかったけど、同時に「必要とされている」という感覚をもつことができた。それが、ぼくにとってはとても幸せでした。

職人気質の限界

しかし、それから10年ほど経った2012年。会社に限界がみえはじめました。

メンバーが結婚したりしてライフステージが上がるにつれて、それまでの働き方では続かなくなってきたのです。

特に女性はまったく定着せず、すごく優秀な人でも「結婚したから、もうこの会社では無理です」といって、どんどんやめてしまいました。

ウェブサイトの制作会社もコモディティ化して、これまでのようにただウェブをやっているだけでは「最先端」とはいえなくなっていました。

ブラックな働き方のままでは人も集まらず、人材難におちいってしまったんです。

会社が新しいステージに進まないといけないタイミングでした。

そんな状況で、田中は「俺が代表をやってるようじゃダメだ。もう、俺は降りる」と言いました。

頑固で職人気質だった田中は、スタッフが会社を変えようとしても「なに言ってんだ、徹夜でやれ」と止めてしまっていたのです。「俺にはそういうやり方しかできない。会社が変わるのをじゃましてしまうから」と、降りる決断をしてくれて。

それで、2代目へと社長が交代したのです。

職人集団から「ちゃんとした会社」へ

2代目の社長になったのは、田中と一緒にアクアリングを創業した吉田という人です。

吉田は、ぼくにとっては営業の師匠です。カリスマ性もあり、人間関係の立ち回りもすごくうまい。彼は「俺がアクアリングをちゃんと会社にする」といって、改革をしていきました。

社員数を倍にして、一気に組織を拡大したのです。

働き方改革もすすめました。派遣スタッフなど外部の人材をとり入れて、社員の負担をなるべく減らしていったんです。採用でも「働きやすさ」を売りにして、人を増やしていきました。

これまでは「いいモノづくりのために、命を懸けられるヤツ以外はいられない」という環境でした。それを見直して「無理しすぎない働き方」ができる組織へと変わっていったのです。

モノづくり精神の危機

吉田の改革のおかげで、女性の定着率も上がりました。社内の評価制度やビジョンもできて、ぼくらは初めて「ちゃんとした会社」になったんです。

しかしいっぽうで、メンバー間の「いいモノづくり」に対する温度差も生まれはじめていました。

野球チームにたとえると、昔は「絶対に甲子園優勝だ!」というメンバーしかいませんでした。それが、組織を拡大していくなかで「わたしはまあ、甲子園は別にいいです」というメンバーも入ってくるようになって。

その結果、創業時からいる熱量の高いメンバーからは「なんでモノづくりに真剣じゃない人のマネジメントを、ぼくらがしなきゃいけないんだ」という不満も出てきました。

組織として、統率が取りにくくなってきたんです。

プレイヤーとして奔走する日々

そのときぼくは何をしていたかというと、新規事業開発のために走り回っていました。

当時、会社としての目下の課題は、他のウェブ会社との差別化。そこで力を入れていたのが「新規事業開発」と「海外進出」でした。

吉田はとくに海外進出に注力していて「これからは海外だ」と大きく旗を振っていました。

取締役だったぼくは、新規事業の責任者を任され、ウェブだけでなくIoT関連の事業を立ち上げるために奔走していたんです。

プロジェクションマッピングとボルダリングを組み合わせた「WONDERWALL」というオリジナルプロダクトを開発し、メディアに取り上げられたり、国内外のデザインアワードで表彰されたりもしました。

プレイヤーとして走り回って、おもしろいものをつくる。ぼくはその楽しさに夢中になっていました。

経営陣が見ている方向がバラバラに

吉田は海外事業、ぼくは新規事業。この方向性は、まちがってはいなかったんです。吉田はリーダーシップもあり、社内のメンバーも活気づいていました。

しかし会社はだんだん迷走していきました。

本業のWEB事業を、現場に任せきりにして、疎かにしてしまったからです。

メンバーたちからすると、経営陣が誰も現場を見てくれない状態になってしまったんです。しかも、役員それぞれ見ている方向がバラバラで、人によって言うことも違う。誰についていったらいいのかわかりません。

役員とメンバーの気持ちはだんだん離れていき、組織がうまく回らなくなっていきました。

それを見て、吉田も「俺もそろそろ限界かもしれん」と、代表の交代を考えはじめたのです。そのとき取締役だったぼくは、田中と吉田、ふたりの創業者に呼び出されました。

それで「シゲ、お前社長やってみない?」と言われたんです。

器じゃないのに社長になってしまった

たしかに、そのときぼくはいちばん社歴も長くて、立場的にも自然な人選。そうして2019年に、ぼくは3代目社長になりました。

しかし、当時は家族にすら「社長になった」とは言えませんでした。

当時のぼくは正直、取締役としてはとても情けなかったと思います。

最終責任は代表権のある社長や会長。業務の達成の責任は、現場のマネージャー。自分はそのはざまで、取締役という肩書きはありつつも、プレイヤーとして居心地よくあぐらをかいていただけ。

いわば「トンネル」みたいな、ダメな管理職でした。

こんなんで「社長」なんて、名前負けしてる。器じゃないのに、消去法でウッカリ社長になってしまった気がしました。

子どもから「パパは社長なんだよね!」とキラキラした目で言われて、堂々と「そうだよ」と答える自信がなかったんです。

徹夜で考えた所信表明

3月に代表になって、5月の社員総会で「所信表明」をすることになりました。

なにを話せばいいのか、すごく悩みました。

2ヶ月間、めちゃくちゃいろんな本を読んで。松下幸之助や豊田章男さんなど、世の中のスゴい経営者の言葉を見ては「スゴいなあ、やっぱり俺は、こんなふうにはなれない」と落ち込みました。

悩んで悩んで、総会の前日まで徹夜して考えて……。

それでようやく出てきた言葉は「社員の成長」でした。

ありきたりかもしれません。でもこれが、誰かの借り物の言葉じゃなくて、自分のなかから出てきた言葉だったんです。

ぼくがなぜ、20年間もこの会社でやってこれたのか。なにがいちばん幸せだったのか。そう考えたら「成長させてもらえたこと」「仕事を通して、人生が豊かになったこと」以外になかった。だったらもう、これを素直に言ったほうがいいと思いました。

働いてるみんながちゃんと成長できて「幸せだな」と思ってもらえる。そういう会社づくりがいちばんだなと。

不思議とこの言葉だけは、誰に相談するわけでもなく決めることができたんです。

よちよち歩きの社長だから、できること

就活生のときのぼくだったら「社長ならドーンとビジョンを掲げて、社員をひっぱっていくものだ」と思っていたでしょう。

そう考えると、あの頃からずいぶん変わりました。

先日、ぼくが社長になったときどう思っていたのか、社員に聞いてみました。

「正直、茂森さんの言葉に力強さを感じたわけではなかったです(笑)。とつぜん社長が交代になって、新しい社長もなんかよちよち、おたおたしてる。これはほっとけないな、私たちもなんとかしなきゃ! という気持ちが大きかったです」

そうか、と思いました。

創業者の2人は、圧倒的な「神」みたいな存在でした。カリスマ性がある一方で、メンバーとの距離はすごくあって。経営陣に伝えたいことがあるときも、なかなか直接言えない人が多かったんです。

一方でぼくは、3年前までみんなとおなじフィールドにいました。

そこから社長が生まれたことで、他のメンバーにとっても、経営が「自分ごと」に感じられたのかもしれません(情けないようなうれしいような)。

ぼくが社長になってから、コーポレートアイデンティティを刷新しました。そのときも、既存メンバーがすごくがんばって動いてくれて。経営への疑問や思ったことも、ぼくに直接言いにきてくれるようになりました。

明らかに、メンバーが主体的になったんです。

創業者みたいなカリスマ性はない。でもずっと現場でみんなのことを見てきた、自分にしかできない「社長」のありかた。

それは「俺がやりたいこと」ではなく「みんながやりたいこと」を実現するための器になることなのかもしれない。そんなぼくの性質が、たまたま時代の空気にもフィットして、メンバーの成長にもつながっているのだと、いまは思っています。

「茂森、お前はええよな」

あのころの自分に足りなかったものが、いまならわかります。

20代のとき、高校の同級生を集めて同窓会を企画したことがあるんです。「人気者」だったぼくは、はりきってみんなに声をかけました。仲間たちにいろいろ準備を手伝ってもらって、形としては成功でした。

ただ、なぜかなんとなく違和感があって。

あとから、すごく仲のいい親友に「茂森、お前はええよな」と言われたんです。

ハッとしました。ぼくは自分のやりたい企画を実現するために「君はあれやって」「これやって」とみんなに指示を出していました。それがいつのまにか「業者に外注する」みたいになっていたんです。

自分が主役になって「俺のやりたいこと」を実現すれば、絶対おもしろいし、みんな喜んでくれるーー。

そう思っていた自分の傲慢さが、すごく恥ずかしくなりました。

夢は叶わなかった、けど。

テレビ局に入って、自分の感性でおもしろい番組を作って、みんなをよろこばせたい。そんな20代のぼくの夢は叶いませんでした。

それでもぼくは、いま幸せだと胸をはって言えます。

今でも覚えているのが、2018年のクリスマス。ぼくらの開発した「WONDERWALL」を体験したお客さんから「自閉症の子どもが、これをきっかけに外に出たがるようになった」という声をいただいたのです。

自分の行動で、誰かの人生に影響を与える。

それはまさに、ぼくがテレビ局でやりたかったこと。あの頃の自分にはできなかったけど、この会社で成長させてもらえたからできたことです。

テレビ局で仕事をしようが、アクアリングで仕事をしようが、結果的には幸せだったのかもしれないと、いまとなっては思います。

何の因果か、アクアリングは2年前に中京テレビのグループ傘下に入り、テレビ業界にも関わることになりました。

30年前のテレビ業界とは大きく情勢も変わって、うちに頼ってもらえることもけっこうあります。いまは一蓮托生のファミリーとして「これまで培ったノウハウでテレビ業界をなんとかしたい!」という思いのほうが強くなっています。

あのときは勢いだけで中身がなかった自分も、いまなら少しはテレビ業界に貢献できるかもしれない……。

いまそう思えることが、この20年がまちがっていなかったことの、なによりの証明だと思うんです。

仕事は人生のゴールを達成するための、ツールであり武器。

やりたい仕事につけなくても、それはただ武器の種類が変わっただけです。一緒にはたらく仲間との絆や、成長できる環境があれば、いくらでも幸せになれる。

いまのメンバーたちにとっても、アクアリングがそんな場所であれるように、これからも全力を尽くしていきます。

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