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稲村ジェーン

ボンクラ映画は割と好物な私です。どうもこんにちは。似合ってないのに変に気取った映画は好みではありません。

80年代後半から90年代初頭にかけて、芸能人や作家など、別の業界の人が映画監督をする、いわゆる「異業種監督」というものが流行りました。

「異業種監督」って結構馬鹿にしている人が多かったような気がしますが(特に映画通気取っている人とか評論家とか)、個人的にはそれほど嫌いじゃない。
ほとんどの異業種監督はそれっきりになったわけですが、中には北野武のように世界的監督になるケースもあり、結構侮れないのです。
いわゆる「職業監督」が作るつまらない映画よりは全然マシと思ってます。

映画作りを生業としている「職業監督」の作品ですが、映画における「お約束」に縛られていることが多くてイヤなんですよ。
すべてのお約束が駄目なわけじゃないけど、多くのお約束が退屈だと思うんです。そして、退屈なお約束ほど多用されているような感じがする。
その上、「オマージュ」とか言って、名作のシーンをパクって挿入するのが好きなんだよ、あいつら。
そのシーンが会心の出来ならまだしも、相当陳腐なシーンになっているから目も当てられない。
ちんけなシーン捧げられたって、捧げられた作品にとっては大迷惑だよ。

一方、異業種監督って、別に映画の勉強をしているわけでも何でもないから、お約束がないんですよね。ついでにいうと基本もない。型なし。
だからこそ、突拍子もないことが起こってしまい、え?こうなっちゃうの?ってデタラメさがあったり、驚きがあったりするのが、いいところだと思うのです。
(まぁ、大抵は駄目な方にベクトルが向いているんだけど、北野映画は悉くいい方に向かったって感じ。というか、基本がわかっているから、壊せたっていう感じが正しいか)

あと、異業種監督って、その道で成功した人がはじめて挑戦できるものなので、一概に否定をしたくないというものもあります。
だがな、椎名桜子、お前は駄目だ。

さて、そんな異業種監督の中に桑田佳祐がいました。
その桑田佳祐が撮った「稲村ジェーン」がブルーレイ&DVDになるそうですね。

この映画の公開は1990年。
うわぁ。31年も前なのか。時代の流れが速すぎる。

サザンファンだったので楽しみに見に行ったのですが、これがもうあれですよ。色々な人が言及していますが、とにかく退屈の一言。
映画としては酷評されまくりで、ただただ悲惨でしたね。興行的には成功したのが唯一の救いでしょうか。

90年代の後半、サザンがアルバム「さくら」を出したあたりの大晦日特番だったと思うのだけど、桑田佳祐が「新しい映画の脚本を書いてます!」って言ったときに、ものすごい微妙な空気が流れたり、イカ天かなんかで泉谷しげるが「よくわかんねぇ映画だったな」と発言したら会場がドッと受けたのがこの映画の評価の全てでしょう。

×  ×  ×

ストーリーは次のような感じ。

いつも、なにか、ものたりなかった。
若者たちはいつの時代も退屈な日常の中で生きている。
夏の終わりのある朝、ロングボードをミゼットに積んでヒロシ(加勢大周)が稲村ヶ崎に帰ってきた。ヒロシを待ち受けていたのは、伊勢佐木町のチンピラ、カッチャン(的場浩司)。
ボスの骨董壺を横流ししたラテン・バンドのリーダー、マサシ(金山一彦)を追っていると言う。そんな所へ、横須賀の波子(清水美砂)という飛び切りイイ女が現れる。
奔放で情熱的な小さな台風、波子を中心にヒロシ、マサシ、カッチャンに奇妙な友情が生まれ始めた頃、稲村ヶ崎に台風が近づいていた。

さっぱりわかんないですね。何回か読み直しましたが、それでもよくわかんないです。多分、あらすじを書いたのは宣伝部とかだと思うのですが、「何書けばいいんだよ!」と散々迷った感がありありと見いだせます。かわいそうに。

まず、基本的な話ですが、娯楽映画って原則三幕で構成されていているんですね。
第一幕で主人公が事件に放り込まれ、第二幕で事態が悪化して主人公が絶体絶命のピンチに陥り、第三幕で主人公が逆転するクライマックスを迎える。
これが基本中の基本、超基本フォーマットです。
(こんなフォーマットは壊したほうがいいと思っていますが。)

この作品はいわゆる青春映画なので、このフォーマットのような展開よりは穏やかになると思いますが、まあ、こんな感じで何かしらの盛り上がりを作っているのが普通です。

しかし、この映画はそんなことは関係ない。
とにかく何もない。驚くほど何もない。
若者がただひたすらダラダラと過ごす日常を、ダラダラと描写している。

何もしない映画っていうのは、それはそれで割とあるのだけど、そういう作品は緊張感のあるエピソードをきっちりと挟んでくるので、見ている方はいつの間にか作品の世界に入っていく。
だが、この作品にはそんなものはない。本当にない。ないないづくし。

「姉ちゃんとやれた?」「やれてねえよ」
「波に乗れた?」「サーフィンに行ってねえよ」
「バンドどうする?」「どうでもいいよ」

万事がこの調子。何もしないし、どうでもいい話ばかりしてる。
頑張って何かを乗り越えたりするのかと思いきや、そんな素振りもないし、実際に何かに努力して乗り越えるとかがない。
そもそも乗り越えるべき目標的なものがない。なにもない。
(ないわけではないけど、正直どうでもいい)

延々、そんな感じが続くのだけど、流石にそれでは不味いと焦ったのか、「これが映画だ!」と言わんばかりに、大きく解釈を間違えたSF的なシーンが挿入され、ここまでかろうじて食いついてきた観客の心を海の果てにまで放り投げ、登場人物はすっかり気持ちよくなって大団円。なんだそれ?

例えると、いい音楽を流す居酒屋で、隣の席に座った若者のどうでもいい話(しかもオチなし)を延々と聞かされているようなもの。この若者が黙ったときに店内の良さげな音楽が聞こえてくる。
店内BGMだけを楽しみにひたすら退屈していると、突然若者が飲み過ぎで体調が悪くなり、ジェト噴射でゲロを吐いて月まで飛んで行ったら、アームストロング船長が和やかに微笑んでハッピーエンド。
そんな感じの作品です。

酷評やむなし。

と、ここまでは随分とけなしてきてしまったのですが、こんな駄文を書いているうちに、実は画期的な作品だったのではと思うようになってきたのです。

人生、日々の日常は同じことの繰り返し。実に退屈なものです。
普段の会話なんて、当人同士は楽しいことがあるかもしれないけれど、そんなことをいつまでも覚えているわけでもないし、よく考えてみれば別にそんな面白いものでもない。

退屈な日常を打破すべく、趣味を見つけたり、旅に出たりするけど、それにもいつしか慣れてしまい、ルーティーンとなる。
結局、残るのは退屈な日常。

そんな日々の繰り返されると、感受性の高い人(悪く言えば理屈っぽい人)はついつい「人生って何だろう?」と考えてしまう。そのように考え出すと、思考は深みにはまり、日常はいつしか苦痛となり、日々は修行じみてくる。人生は修行だ。

修行するぞ修行するぞ修行するぞ。

だが、そんな人生もいつかは終わりを迎える。そのとき、人はエンディングを見るかのように走馬灯が流れるという。
退屈な日々、退屈な日常を体験したからこそ、人生の最期に見る走馬灯は、修行を終えた人だけが見られるご褒美のようなものなのだろう。

稲村ジェーンもこれなのだ。
描き出されるシーンは、退屈な日常のみ。人生のようにどうでもいいことが繰り返されている。人生の修行疑似体験。
(映画のクライマックスあたりのシーンは悪い夢だと思えばよい。)
そして、映画が終わり、エンドロールが流れる。ここでは、この映画の印象的なシーンが真夏の果実に乗せて流れてくる。

これはまさに走馬灯。
最後まで映画を完走したからこそ、人生最後の走馬灯を疑似体験できるのだ。
ずるしてエンドロールだけ見てもこの感動は味わえない。
最初の1時間55分を見続けたからこそ、味わえる感動的な体験なのだ。

このように、大切な人生の一部分を疑似体験できる稲村ジェーンは、VR全盛時代にこそ映える作品ではないだろうか?

×  ×  ×

戯言が過ぎました。すみません。
そんなことはさておき、「稲村ジェーン」という作品は、名盤と名高い本作のサウンドトラックだけでなく、桑田佳祐が北野武の映画評にブチ切れて喧嘩を売り、その喧嘩を買った北野武が「おいらがサーフィン映画を作ってやる」といって作った「あの夏、いちばん静かな海」という名作を産み出しただけでも、存在意義は非常に大きいと思う。

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ラスト5分のために、本編を前振りにしてしまった画期的作品である「稲村ジェーン」。修行したい人にはおすすめです。

×  ×  ×

予約の始まったAmazonでは、すでにレビューが解禁されていますが、割と荒れ気味のようです。
オールドファンほど評価が辛く、公開時にまだ生まれてもいなかったような若いファンは楽しみにしている人が多い模様。

「30年前の惨劇が、今蘇る」

うん。新しいドラマが始まりますね。


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