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ぼくは筒井康隆の優しさに感謝する

 ぼくは筒井康隆の優しさに感謝する。今年の6月26日、発売日当日に、ぼくは『百年の孤独』新潮文庫版を有隣堂グランデュオ蒲田店で購入した。その時の話は「ぼくは百年の孤独を買う」という記事に書いたし、読み終わっての感想(みたいなもの)は「ぼくは百年の孤独を読み終わる」という記事に書いた。

 『百年の孤独』文庫版は本編が625ページもある。ぼくは小説を読むのが早いほうではないし、この本以外にも並行して読まなきゃいけない本がいくつもあったので(卒論用の政治哲学の文献とか)、『百年の孤独』を読み終わるには1か月半近くかかった。逆に言うと、1か月半近くにわたってぼくの生活の傍らには『百年の孤独』があったのである。

 面白い長編小説を読み終えてしまった人間が陥ることといえば、そう、「ロス」だ。御多分に漏れず、ぼくも8月上旬にしっかり『百年の孤独』ロスに陥った。『百年の孤独』を1日10~20ページ読み進めるという日課を失ったぼくは、ぼんやりした寂しさに襲われてしまったのだ。もうぼくはブエンディア家のみなさんとはお会いできないのかと……

 ところが、である。小説の文庫版を読んだことがあるひとならご存じかと思うが、大抵の小説の文庫版の終わりには「訳者あとがき」や「解説」といったものが収録されていたりする。『百年の孤独』新潮文庫版にも、鼓直による「訳者あとがき」「改訳新装版のための訳者あとがき」と、筒井康隆による「解説」が収録されている。筒井康隆の解説はこの文庫版のために書き下ろされたものだ。

 ぼくは中学生の頃から筒井康隆の愛読者なので(といっても高校の途中から去年までは離れていたけど)、『百年の孤独』新潮文庫版に筒井康隆の解説が収録されているのはめちゃくちゃうれしい。というか、筒井康隆の解説が収録されていると知ったからこそ、ぼくは『百年の孤独』新潮文庫版をわざわざ発売日当日に買おうと決意したのである。

 だから『百年の孤独』を買ったあと、実はぼくは真っ先に筒井康隆の解説を読んだ。本編を読み始める前に解説を先に読んだ。解説の冒頭には「この解説は本編を読む前に解説を読むようなひとを対象とする前宣伝のようなものである」というようなことが書いてあって、こちらの魂胆を見抜かれているようで恥ずかしかったが……

 まあ、「先に読んだ」といっても、ネタバレっぽい部分は飛ばし読みしましたけどね。物語の内容に触れているっぽい箇所は、上手い具合に視界に入れないようにして読み飛ばしました。そんなわけなので、ぼくが筒井康隆による「解説」を本当の意味できちんと読んだのは、625ページある本編を読み終わって、『百年の孤独』ロスに陥ってからのことだった。

 筒井康隆がその解説で言っていることをまとめると、「『百年の孤独』のマジックリアリズムに触れてから小説は何でもありだと思うようになった」とか「大江健三郎の『同時代ゲーム』と井上ひさしの『吉里吉里人』もガブリエル・ガルシア=マルケスの影響を受けている」とか「この解説は池澤夏樹が書いたほうが正しかったのかもしれない」とか「ガブリエル・ガルシア=マルケスの作品なら『百年の孤独』より『族長の秋』のほうが好きだ」とかいうことになるだろうか。

 ほんとうのことを言うと、実はおれのお気に入りは、マルケスが本書の八年後に書いた「族長の秋」なのである。文学的には本書の方が芸術性は高いのかも知れないが、その破茶滅茶度においてはこちらの方が上回っている。

『百年の孤独』新潮文庫 p.660「解説」

 このあと、筒井康隆は16行にわたって『族長の秋』の魅力を語り、『族長の秋』をめぐる集英社の宣伝方法への憤りを記す。そして、自らの文章をこう締めくくる。

 本書「百年の孤独」を読まれたかたは引き続きこの「族長の秋」もお読みいただきたいものである。いや。読むべきである。読まねばならぬ。読みなさい。読め。

『百年の孤独』新潮文庫 p.661「解説」

 筒井康隆を知らない読者の中には、この「読むべきである。読まねばならぬ。読みなさい。読め。」という命令口調に違和感を抱いたひともいるんじゃないかと思う。なぜ見ず知らずのあなたにそんなことを命じられなければいけないのかとびっくりしたんじゃないかなあ。

 しかし、ぼくはこの「読むべきである。読まねばならぬ。読みなさい。読め。」という一文に筒井康隆の優しさを感じた。次に取り組むべき具体的な課題を指示され、ぼくは『百年の孤独』ロスなんかに陥っている場合じゃないと気付かされたからである。ニンジンを食べ終えてしまって落ち込んでいる馬を元気にするには、目の前に再びニンジンをぶら下げてやるのがいちばんなのだ。

 ……まあ、筒井康隆としては「『百年の孤独』ロスに陥っている読者を元気にするために次の課題を出してあげよう」とか「読者の悲しみを吹っ飛ばすためにあえて高圧的な態度をぶつけてやろう」とかいう想いなんかこれっぽちもなくて、単純に「『百年の孤独』を読んだのに『族長の秋』を読まないやつは馬鹿だ」「『族長の秋』こそ高く評価されるべき作品だ」という想いで「読みなさい。読め。」と書いたんだと思いますがね。でもまあ、受け手が感じ取ったのならそれはもう優しさだし思いやりだし、好ましい誤解ということで片付けていいんじゃないかとぼくは考えます。

 ちなみに、筒井康隆が『族長の秋』への愛を語るのは昨日今日に始まったことではない。筒井康隆は昔から『族長の秋』を絶賛してきた。いまから38年前、『朝日新聞』1986年4月18日夕刊に掲載されたらしいエッセイでも『族長の秋』を讃えている。なお、このエッセイは1989年に出版された『ダンヌンツィオに夢中』という本に収録されている(ぼくはこれをブックオフオンラインの店舗受取で入手した)。

 ラテン・アメリカ文学には笑いを喚起させられるものが多く、中でもガルシア=マルケスの「族長の秋」は、魔術的リアリズムと呼ばれるそのシュールでナンセンスな笑いによって「おれのめざしている笑い」にもっとも近いものであった。

『ダンヌンツィオに夢中』中公文庫 p.350-351

 『ダンヌンツィオに夢中』に収録されている他のエッセイだと、『週刊サンケイ』1986年5月1日号に掲載されたらしい文章でも、筒井康隆は『族長の秋』を「シュールでナンセンスなギャグによる爆笑」の小説と評している。ぼくが知らないだけで、筒井康隆はきっとその他のエッセイや評論でも『族長の秋』に言及しているんだろうな。『族長の秋』への筒井康隆の愛情は筋金入りだと言っていい。「読みなさい。読め。」と他者に要求するのも納得である。

 ただなあ。『族長の秋』が収録されている新潮社の単行本は値段が3,520円(税込)もするんだよなあ。十数年前には集英社文庫からも発売されていたらしいけど、筒井康隆が『百年の孤独』の解説で集英社を批判しちゃっている以上、そっちの再販はあんまり期待できなさそうだし。

 もちろん、図書館で借りるという手もある。筒井康隆は「読みなさい。読め。」と言っているのであって、「買いなさい。買え。」と言っているわけじゃないしね。大田区立図書館ホームページで検索してみたところ、何冊か所蔵されているようである(安心)。ただしこちらの問題は、ぼくが返却期限日までに読み終えられるかどうかということなんだよな。ぼくは自分の読書力を信用していない。ぼくは「図書館で借りてきたはいいけど結局1ページも読まずに返す」みたいなことを平気でやる男なのだ。

 お分かりの通り、「次は『族長の秋』を読まなきゃいけないのか」とか「でも『族長の秋』って単行本が高いんだよな」とか「集英社文庫版の再販は期待できないしな」とか「図書館で借りるとしても返却期限までに読み終えられるだろうか」とか悩まされているうちに、ぼくの『百年の孤独』ロスは完全にどこかへ吹き飛んでしまった。

 もし筒井康隆が『百年の孤独』の解説で『族長の秋』に触れていなかったら、ぼくは『百年の孤独』ロスを引きずっていた可能性が高い。仮に触れていたとしても集英社をわざわざ批判していなかったら、ぼくは「どうせ集英社が文庫を再販するだろうからそれまで待とう」と油断し、「図書館で借りるとしても返却期限までに読み終えられるか問題」に苛まることなく『百年の孤独』ロスを引きずる余地を大脳に残していた可能性が高い。

 ああ、筒井康隆が『百年の孤独』の解説であの文章を書いてくれて本当によかった。あの1ページ半を書き表してくれてよかった。ぼくは筒井康隆の優しさに感謝する。念のため言っておくが、これは皮肉でも何でもない。その証拠に、ぼくは今日、近所の大田区立図書館で『族長の秋』を借りてきたところだ(まだ表紙をめくってすらいないけど)。

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