ぼくは百年の孤独を読み終わる
ぼくは『百年の孤独』を読み終わる。『百年の孤独』というのはガブリエル・ガルシア=マルケスというコロンビアの作家が書いた長編小説で、日本では今年の6月下旬に初めて文庫化されたやつである。ぼくは文庫化された当日に有隣堂グランデュオ蒲田店で『百年の孤独』を買って、さっそくその日から少しずつ読み始めた。その話は「ぼくは百年の孤独を買う」という記事に書いた。
625ページもある小説を読み通せるか最初は不安だったが、そもそもぼくは去年、岩波文庫の『アンナ・カレーニナ』全3巻(計1,520ページ)を読み通した実績を持つ男なのだった。それに、そんなことに関係なく最初から心配は杞憂だった。なぜなら、『百年の孤独』はめちゃくちゃ面白くて、読んでいて退屈する暇がない小説だったからだ。
『百年の孤独』は「ブエンディア」という名字の一族の100年間の物語である。夫と妻の間に子どもが生まれ、その子どもと誰かの間に新たな子どもが生まれ、今度はその新たな子どもと誰かの間に子どもが生まれ……というファミリーヒストリーが三人称で記述されていく。一族の父親が妙な発明に凝ったり、娘が楽器職人に片想いをしたり、孫が大食い競争で食べすぎて死にかけたり……。言ってしまえばそういった日常エピソードが続々と記述されていくだけなのだが、これがとんでもなく面白い。
非日常的なものを日常的に表現する技法のことを「マジックリアリズム」という。『百年の孤独』はマジックリアリズムが多用されているから読むのが難しいとされているらしいが、ぼくに言わせれば全然そんなことはない。たしかに『百年の孤独』では空飛ぶ絨毯とか「存在しない女郎屋」がふつうに出てくるし、死んだはずの登場人物が家の中を歩いていたりもして、リアルとマジカルが入り混じっている部分がある。でも、昭和の子どもたちと22世紀のネコ型ロボットが当たり前に共生しているアニメと比べればその程度のマジックリアリズムなんて大したことないし、そもそも、ぼくに言わせれば『百年の孤独』はマジックリアリズムが売りの小説じゃない。『百年の孤独』の世界においてリアルとマジカルが入り混じっているのは大前提のことで、この小説のすごさは「空飛ぶ絨毯ヤバ」「死んだ人間が家の中をさ迷い歩いてるのヤバ」というのを超えたところにあると思うのだ。……いや、小説の楽しみ方なんて各自の勝手ですけどね。
ぼくは『百年の孤独』を6月の下旬から読み始めて、8月の上旬に読み終わった。最初は通学時間に電車の中で読んでいたのだが、600ページ以上ある文庫本は持ち運ぶのがそれなりに面倒だし、リュックサックの中で物にぶつけて本に傷をつけてしまうんじゃないかと怖くなったので、7月に入ってからは自宅で読むことにした。目標は1日10ページだ。
読み進めるにあたって、ぼくが頼りにしたのは、新潮社のサイトで公開されている「『百年の孤独』読み解き支援キット 池澤夏樹監修」である。
この読み解き支援キットでは、「p.9 アウレリャノ・ブエンディア〔大佐〕、銃殺隊を前に、氷を見た日を思う」とか「p.19 メルキアデス、若返る」とかいった具合に、『百年の孤独』のそれぞれのページに書かれている出来事がメモ書きでまとめられている。ぼくはこのメモ書きを、その日読み進めた分のところまでチェックするようにした。『百年の孤独』はたくさんのエピソードが次々と紹介されていくちょっと雑多な構成だが、この読み解き支援キットのおかげで「今日読んだのはどんな内容だったっけ」と頭の中で整理することができて、ぼく的にはいい復習になった。
池澤夏樹に倣って……ってわけではないが、ぼくも『百年の孤独』を読んでいる途中で気になったところを独自にメモ書きした。「この人物は後で出てきた時に『誰だっけ?』となりそうだから名前をメモしておこう」とか「この台詞はいい台詞だな」みたいな感じで。もしかしたらネタバレになっちゃうかもしれないけど、せっかくなので公開します。
初めにマグニフィコ・ビズバルとヘリネルド・マルケスの名前をメモ書きしておいたのは、我ながらさすがだと思う。マグニフィコ・ビズバルのほうはそんなにだけど、ヘリネルド・マルケスはこの後も結構登場してきます。
ついでなので、人名のことで気付いたことを書いておこう。『百年の孤独』では、ブエンディア一族の人物については「ウルスラ」「アウレリャノ」「アマランタ」といった具合にファーストネームだけで表記されるが、一族以外の人物については2回目の登場以降も「ピラル・テルネラ」「ピエトロ・クレスピ」「ヘルネルド・マルケス」といった具合にフルネームがいちいち表記される。これは『予告された殺人の記録』でも採用されていたシステムだ。フルネームで表記することでかえって誰が誰だか分かりやすくなる。それに、『百年の孤独』でこれをやると、「ファーストネームで表記される者=内側の者」「フルネームで表記される者=外側の者」なのねって感じで、「一族の物語」というこの小説の性質が際立つ。
ブエンディア一族の人間が「ホセ・アルカディオ」や「アウレリャノ」という名前を子孫に繰り返し名付けているのも面白い。同じ名前の登場人物を出したら誰が誰だか分かりにくくなってしまうから、ふつうの小説家は作品の登場人物にはそれぞれ別の名前を付けると思うんだけど、ガルシア=マルケスの場合はそうじゃない。ブエンディア一族が「ホセ・アルカディオ」や「アウレリャノ」という名前を使い回す様子をあえて描くことで、「物語が円環しているね。すべては同じことの繰り返しなんだよね」ということをズバッと打ち出しているのだ。ちょっと皮肉混じりに。
『百年の孤独』の感想として他にも書きたいことは山ほどあるのだが(特にいまさっき書いた「円環」という部分について。この物語の最終ページにはそれと矛盾するようなことが書いてあるので)、まあ、キリがないのでこれ以上はやめておきます。ちょっといま疲れてるし。
ぼくは『百年の孤独』を読み終わる。625ページもある小説で、1か月半ほど毎日読んでいた小説で、かなりのめり込んだ小説だったので、読み終えてから数日間、ぼくはがっつり『百年の孤独』ロスになった。いまこのnoteを書いている時点では立ち直っているけどね。『百年の孤独』に出会えたことは本当によかったと思うし、これからも折に触れて『百年の孤独』を読み直すことになると思う。鼓直による訳文もすごく読みやすいし。
この前、飲み会で同じサークルの河村にもこの本を勧めた。河村はぼくの話を聞いて興味が湧いたから本屋に買いに行くと言ってくれたし、新潮社のサイトの「読み解き支援キット」も確認してみると言ってくれた。河村は小説や芸術(?)に興味がないと思い込んできたぼくにとって、河村のこの反応は意外だった。ひとは見かけによらないものですな。もしあなたが街中で『百年の孤独』新潮文庫版を読んでいる河村を見かけたとしたら、それはぼくのおかげです。
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