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ぼくはアンナ・カレーニナを読む

 ぼくは『アンナ・カレーニナ』を読む。ぼくは今年の9月から『アンナ・カレーニナ』を読み始めた。『アンナ・カレーニナ』。ロシアの文豪、レフ・トルストイが1873年に執筆を始め、1877年に単行本が出版された長編小説だ。ぼくは中村融訳の岩波文庫版(全3巻)で読んだ。この本を読むことになったきっかけは「ぼくは文庫本の凹みを気にする」という記事に書いたのでここでは繰り返さない。

 ただ、ぼくが中巻を買いに行った時の話は簡単に書いておこう。上巻を買った時、ぼくは不注意で小口(本を開く部分)に凹みを作ってしまった。ぼくは自分のがさつさがつくづく嫌になった。だから中巻を買う時には、梱包に使うプチプチでしっかり文庫本を保護して持ち帰ろうと決意した。

 そろそろ上巻を読み終わるというタイミングで、ネットで有隣堂の在庫検索をかけてみたら、『アンナ・カレーニナ』中巻はららぽーと豊洲店にしか在庫がないことが分かった。Honya Club(オンライン書店)を通じて自宅近所のグランデュオ蒲田店に取り寄せてもらおう。「この本を注文 店舗受取は送料無料」のボタンを押す。「在庫状況:品切れのためご注文いただけません。」。……あれ……? Amazonや楽天ブックスでも確認してみたが新品は売っておらず、岩波書店のサイトにも「品切れ」と書いてあった。

 どうやら『アンナ・カレーニナ』岩波文庫版は上巻と下巻は絶賛販売中だけど、中巻は現在売っていないらしいのだ。こんな生殺しってあるか。しょうがないので、ぼくは学校帰りに東京メトロに乗ってわざわざ有隣堂ららぽーと豊洲店に行きましたよ。豊洲駅に初めて降り立って行きましたよ。別にブックオフオンラインとかで古本を買ってもよかったんですけどね、まあ、「有隣堂のブックカバーで『アンナ・カレーニナ』全3巻を揃えたい」というぼくの妙なこだわりがぼくを豊洲駅まで突き動かしたのです。

 有隣堂ららぽーと豊洲店で『アンナ・カレーニナ』中巻を無事購入し、梱包に使うプチプチでしっかり包む。これならぼくがどんなポカをしでかしても小口に凹みはできないはずだ。帰宅して『アンナ・カレーニナ』中巻をかばんの中から取り出す。……ん? 小口のところに凹みの線が入っている。帰宅途中にできた凹みの線だとは考えにくいので、おそらく書店に並んでいた時点ですでに入っていた凹みの線なのだろう。これについてはぼくは全然気にならない。ぼくは最初から存在する凹みや傷は気にしない。「しょうがないや」とすぐに受け入れられるし、なんなら愛着を持ちさえするけど、後天的にできた凹みや傷についてはものすごく気にしてしまう。ぼくは物事の変化を恐れる人間なのだ。ぼくはそのことを改めて自覚した。

 ……えっと、何の話をしてましたっけ。『アンナ・カレーニナ』の話でしたね、すみません。相変わらず前フリが長くなってしまったが、ここからようやく本題、『アンナ・カレーニナ』の感想を書かせていただく。といっても大したことは書かないのでご安心を。

 『アンナ・カレーニナ』岩波文庫版全3巻をぼくは一か月ちょっとかけて読み終えた。この小説にはたくさんの登場人物が出てくるし、いくつかの夫婦やカップルが出てくる。メインとなるのは3組くらいかな。彼らは知り合い同士だったり、親戚同士だったりする。『アンナ・カレーニナ』という小説では、その各組のエピソードが交互に描かれ、やがて絡み合い、物語が繰り広げられていく。まさに「大河小説」と言っていい。しかし小説全体のタッチは決して堅苦しくなく(これは半分は訳者のおかげかもしれない)、俗っぽいメロドラマのように感じる瞬間さえある。

 交互に描かれていくエピソードの中で、実はアンナ・カレーニナが出てくるエピソードがいちばんつまらない。レーヴィン(という30代の男性がいるのです)の片想いエピソードだとか農作業エピソードだとか、キチイ(という若い女性がいるのです)の失恋リハビリ旅行のエピソードだとかはものすごく面白くて、ページをめくるのが楽しかったが、アンナ・カレーニナ(という大人の女性がいるのです)が出てくると、ぼくは「ああ、このひとのターンか……」と気持ちが萎えた。彼女はこの全3巻約1,500ページの小説のタイトルを飾る人物であるにもかかわらず、である。

 なぜぼくはアンナ・カレーニナのエピソードに心惹かれなかったのか。その最大の理由は、アンナ・カレーニナという人物の心理が作中であまり描かれていないか、描かれていたとしても他の登場人物と比べて「ドロみ」が不足していたからである。「どうしてここまで人間の心理を冷徹に暴けるのだろう?」とゾッとさせられるほどの作者の洞察力がアンナ・カレーニナに対してはほとんど働いていない。アンナ・カレーニナのエピソードを書いている時だけ、トルストイは「無難な小説家」に収まっているのである。これはぼくの勝手な推測だが、トルストイ自身、アンナ・カレーニナのエピソードを書いている時よりも、他のひとや他のカップルのエピソードを書いていた時のほうが筆がノッていたのではないだろうか。

 ただし、ぼくがそんなことを言っていられるのは中巻の途中までである。中巻の途中から下巻にかけては、アンナ・カレーニナの内面のドロドロした部分が容赦なく記述されていく。嫉妬、怒り、孤独、苛立ち、喜び、傲り、安心、焦り、不安──あらゆる感情が白日の下に晒される。こうなってくると、アンナ・カレーニナの出てくるパートも読むのが面白くなってくる。

 読者としては少し困惑するかもしれない。「アンナ・カレーニナって落ち着いた大人の女性だと思ってたけど、なんか急に内面のドロドロが現れてきたな」と感じるっていうか。実際にはその「ドロみ」は、後からとってつけたものではなく、もともとアンナ・カレーニナの内心にあったものである。作者が途中まで描写を抑えめにしていただけである。でも、読者にはそれは急に現れたもののように思える。アンナ・カレーニナは最初は冷静な人間だったのに、途中から突然正常な判断能力を失っていっているように見える。こうして、アンナ・カレーニナが最後に取るインパクトのある行動──正常な判断能力を欠いているとしか思えない行動──に説得力が生まれる。「ああ、冷静だったひとがパニクっちゃって、どんどんおかしくなっていってるな。そうして最後はとうとう……」

 そう、「異常」な人間が最後まで「異常」を突き進む物語に実は説得力はない。それではファンタジーになってしまう。最初は「正常」っぽかった人間が何かのきっかけで「異常」の沼にハマっていく──こういう物語にはリアリティがある。トルストイはそれを分かっているから、小説の前半ではあえてアンナ・カレーニナの心理描写をあっさりめにして、感情的になったりしない「正常」な人物のように読者に思わせておいて、中巻の途中になったら彼女の激しく感情的な部分をいきなり強調して、彼女が「異常」な行動を取るラストに説得力を持たせようとしたのではないか。

 『アンナ・カレーニナ』の中巻の途中までアンナ・カレーニナの心理描写があっさりしていたのは決して無駄ではなかった。それどころか、文豪トルストイの優れた戦略だったのである。やはりトルストイは世界最高峰の小説家だと結論せざるを得ない。……もっとも、ぼくがこのnoteを書いているのは『アンナ・カレーニナ』を読み終わってしばらく経ってからのことなので、「『アンナ・カレーニナ』においてアンナ・カレーニナの心理描写は途中まではあっさりしていた」というのがそもそも記憶違いである可能性もあるが(壮大な梯子外し)。

 結局、徒然なるままに長めの感想を書いちゃいましたけど、実はまだまだ『アンナ・カレーニナ』を読んで感心したこととか、記録しておきたいこととかはいっぱいあるのです。「エピローグ的に存在する最終章の価値を過小評価すべきでない」とか「登場人物の中でぼくがいちばん好きなのはトゥロフツィン(中巻で初登場するモブキャラ)だ」とか。ただ、キリがないので少なくとも今回はこのあたりで終わりにします。だいたいね、ぼくは文学部は文学部でも哲学科なので、古典文学の感想文に3,000字も費やしている場合じゃないのである(そのうちの900字はぼくが有隣堂ららぽーと豊洲店に行ったという話だけど)。

 ぼくは『アンナ・カレーニナ』を読む。『アンナ・カレーニナ』は面白い小説だった。小説は面白いということを身をもって教えてくれる小説だった。このnoteを読んでいるひとの中に面白い小説を読みたいと思っているひとがいたら、『アンナ・カレーニナ』の読書をぜひご検討いただきたい。あと、このnoteを読んでいるひとの中に岩波書店の関係者がいたら、中巻の復刊をぜひご検討いただきたい。ぼくは中村融訳で『アンナ・カレーニナ』を読めたことを感謝していますよ。『アンナ・カレーニナ』を読んでいた一か月間、ぼくは幸せだった。

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