72候【花鳥風月】立春の候
芽張る、田を墾る、気も晴れる、立春大吉、初午稲荷
草木の芽がはりだし、2月8日の事始め(2023年旧暦計算では2月27日)に田畑の開墾がはじまり、天気も晴れる日がつづくようになる如月は、旧暦で見ると現在の3月にあたり、グレゴリオ暦にあてるのはちょっと微妙な感じもしますが…、さておき。
きさらぎには草木が更生する生更ぎ、陽気がよくなりはじめるので気更来、草木の芽が張りだすことから草木張月といった語源説があります。
現代版カレンダーでは寒さ厳しい月なので衣をかさねる衣更着説の方が感覚的にはしっくりくるでしょうか。
立春の日にはあたらしい一年が良い年となるように、禅寺の入り口に貼るお札の文言に「立春大吉」があり、縦書きにすると左右対称になって反対側からも読むことができます。
立春大吉のお札がある屋敷へ鬼が入ってきても、後ろをふりかえると、はてさて門には「立春大吉」と書いた札があります。
「これはさっき外から見た札だな。ということは俺はまだ、屋敷のなかへ入っていなかったのか」と、鬼は踵を返して屋敷から出ていってしまうという、なんとも気のいい鬼さんの、ほのぼのした言い伝えがあります。
補足*追儺(ついな)は古代中国発祥の行事で、疫病や災害を鬼に見立てて立春前日の節分に、鬼の嫌がる舞いなどで門の外に追い出す儀式のこと。
「鬼の話」ではさらに、古代日本の信仰には4つの代表的なものがあり、
・かみ(神)
・おに(鬼)
・たま(霊)
・もの
であったと続きます。
神も鬼も霊も横位置ならびの信仰対象だった?なら、なぜ鬼さんだけがこんなにもワルの象徴みたいになってしまったのか、...フシギです。
とはいえ鬼はもとより怖いものではあったらしく、同時に古代の神も、今様の抽象的なものではなくて、畏しいものだったと記されています。
たま は眼に見え、輝くもので、形はまるく、
もの はごく抽象的で姿は見えないのが普通だった、とあります。
現代人の視覚至上主義とはちがった風景を、古人は知覚していたのだろうと思います。
もの は平安朝に入ってから勢力が現れた、とも記されているので「物忌み」などの風習や「もののけ」に関する伝説を考えると、負のオーラとかネガティブなエネルギー、荒々しく洗練されていない気の流れ、恨みや妬みの思念、のようなことを指しているのかなと思います。
日本の古い神々、鬼や もの についての妄想を深掘りするのはさておき、立春から春分にかけて、地方ごとに開催される花まつり、春祭りは、年のはじめに一年の豊作を願う、大切な行事だったことに注目してみます。
「その年の豊かさを仮に眼前に彷彿とさせ」「かくのごとくあるように、と具体的に示す」ため、ご馳走を用意し、花や緑をふんだんに飾って、お酒をふるまい、歌い、踊る。
一年を一日に凝集して「そうであるかのようにふるまう」ことが大切だったんだろうな、と。
立春から春分までの期間に、なにを思い、どんな感情で満たされるか。
どんなものを食べて、どんなふうに過ごすか。
春のまつりは今年一年の縮図となり、骨子となって、その後の年月が扇をひらくように展開されていくのではなかろうか、と。
さらに折口信夫の「日本芸能史六講」から引用します。
一年という時間を、一日に凝縮して過ごし、神様をお招きする。
神様が訪れると里も家も栄え、一年の豊作が約束されるわけですから、お供えするもの、祭壇の造り、方位や場所、儀式としての歌や踊りにも、熱が入るというものです。
古人が毎年、たった1日の祭りのためだけにすべてを費やし、準備と練習をくりかえしながら1年を過ごしたというお話も、その1日で年のすべてが決まるのだとしたら頷ける話です。
飲めや歌えの大騒ぎをすればよいわけではなく「神様が現れる祭り」をするのが目的ならば、歌も踊りも、お供えものや飾りものも、試行錯誤しながら儀式としてくりかえすうちに、やがて祭りのエキスパートが登場し、あの家はうまくいった、こちらの家には今年おいでにならんかった等々、観賞や批評の自由も生まれて、どの家に「おめでたごと」を述べに行くとご利益があるのか、ファン心理のようなものも生じ、さらにはまつりのエキスパ-タ-同士を比較したりなんかして、稲の豊作にはあの親分、子宝祈願にこの親分、みたいな展開もあったのかもしれません。
かなり大雑把な要約ですが、こうした儀式が練習や訓練を受ける機会をつくり、次第に芸能に変わっていったことが記載されています。
現代では神々が里に音連れ、人間と一緒に饗宴酒宴を楽しむことは損なわれてしまった文化のように思えますが、神使としての動物、天仙界のきざはしとなる植物、今年一年のめぐみとなる食物や音楽を、神仙分割した分御霊として用意し「その年の豊かさを仮に眼前に彷彿とさせ」「かくのごとくあるように、と具体的に示し」て、立春から春分までの日日を豊かに過ごすのもまた一興かと思います。
今年の初午は2月5日(旧暦だと3月1日)なので、近隣に稲荷社があればお出かけするのもよいかもしれません。
初午はウカノミタマノカミが伊奈利山へ降臨された日として、お祭りがありますし、穀物神にご挨拶できると同時に、蚕や牛・馬の祭日とする風習もあるので、衣食満ち足りる一年となるのではないでしょうか。
立春の候、今年は2月4日から。
生きている化石
スギナ・つくしはトクサ科トクサ属のシダ植物です。
トクサ属、その名も砥草は、さいきん坪庭や生垣などでよく目にするようになりました。
モダンなデザインが映えるということで、人気が出てきているそうです。
トクサ科植物は石炭紀(おおよそ3億5920万年前~2億9900万年前)から存在していたというから驚きです。
たしかに3億年以上、種をつないできた植物らしく、害虫の心配も少なくて育てやすい感じがします。
スギナはトクサの仲間では一番ちいさな種で、3億年以上にわたって地球上で種属をつないできた、生きている化石です。
北海道民だったころは、帽子をかぶった小人みたいな「つくしんぼう」を毎春恒例の妙薬として少量戴いていました。
茎の節にあるハカマの少ない子を選んで(ハカマとりが面倒なので)摘み草し、たっぷりのお湯に酢と塩を入れてさっと茹でれば下準備完了です。
酢醤油、切り胡麻をまぶして酢のものに。
お出汁のきいたお吸い物に。
苦味が気になる人は茶碗蒸しや炒り卵にするとまろやかになります。
悠久の地球史を生きてきた植物の叡智にあやかる、春のごちそうです。
スギナも若芽を摘んで米のとぎ汁と塩少々で茹で、30分ほど水にさらせばアク抜もばっちりです。
細かく刻んで酢の物にしたり、甘辛味噌で炒めてもよし。
スギナは全草を天日干しにして、から煎りすると香りが立ち、自家製スギナ茶がかんたんにつくれます。
ただし長期間や、一度に大量摂取をせず、つくし同様年一くらいで少量戴くくらいがちょうどよい塩梅かと。
生薬の問荊はスギナのことで、利尿、去痰作用があり、肝炎、膀胱炎、浮腫(むくみ)、皮膚のかぶれ、咳によいとされています。
スギナには収れん作用があるので、スギナ茶を冷ましてフェイスパックや冷湿布などすると、皮膚のかぶれやあせもに役立つといわれてきました。
ヨーロッパの民間療法ではスギナのハーブバスが、アトピー性皮膚炎や、漆かぶれなどを和らげる効果があるとして活用されています。
スギナは栄養茎
つくしは胞子茎
つくしはスギナより先に地上に顔を出し、胞子を散布します。
ハーブを学ぶ以前は、つくしが成長するとスギナになる、と思いこんでいたのですが;つくしとスギナは地下根茎でつながって別々に芽吹きます。
つくしが仕事を終えて枯れるころ、選手交代でスギナがでてきて光合成を行います。
シダ植物なので種はつくらず、つくしが散布する胞子で増えますが、根の生命力がとても強く、細かくちぎれてもすぐに再生して、縦横無尽に地中で根茎を伸ばし広がってゆきます。
たった10cmほどの根茎から、半年後には10メートルほどの根茎になったという観察記録があるそうです。
スギナは畑では除草対象になりますが、土を耕すほどに、ちぎれた根茎は地中深く潜りこんで全体ちりばめられ、分布が拡大します。
再生可能な根は複雑にひろがり、地中深くもぐりこむので地獄草とも呼ばれています。
「地獄の沙汰をも飲みこんで棲家にした植物」
3億年を生き延びてきたというのは、つまりそういうことなんだろうなぁ、と。
きざはしのエキスパート
トクサの仲間をはじめとして、シダ植物は陸上での繁栄をものにした植物界の知恵者たち。
地球という特殊な環境で、4大元素界のルールを習熟し、土元素・土の精霊とがっぷりよつに組んで、水、風、火元素たちとのつながりを断ち切ることなく、共存を試みた先達といえます。
「いまの環境条件がつづく限り生育できる」程度のスパンでは、3億年の年月を生き延びることはできません。
気温や湿度、陽の光、土壌のpHなど、生きるための条件のふり幅は広ければ広いほど種をつなぐスパンも長くなります。
そして地に深く降りるほどに、天のきざはし(エーテル成分の梯子)が途切れないよう、工夫も必要になるんだろうと思います。
スギナ・つくしは茎が空洞なので、…というか茎が空洞の植物は皆そうだと思うのですが、土元素界に深く入り込みつつ上位世界とのきざはしが断ち切られないよう、風元素の通り道を確保してきたのでは、と妄想しています。
学術的には空洞の方が、栄養分とか少なくて済むし効率よいし...的な、うやむやとした見解を聞いたりしますが、人も動物も地球で生きる生命種は皆、筒のような構造体で、見える食べ物から見えないエネルギーまで流通させる通路になっているので、植物もキホン一緒なんじゃなかろうか、と思っています。
地中深くまできざはしをつなぎ、地獄の蓋をひらいて通り道をつくり、地球環境をまるごと活用するために惑星地表のすべてを自らのガクのようにみたてて つくし を芽吹かせ、早春にさっと胞子を飛ばし、あとからスギナが種をのこすためのあれやこれやに煩わされることなく、一点集中で太陽エネルギーを補給する。
もしも3億年前からの系譜が明確な人間がいたら…と想像してみますと、魔法使いか宇宙人、鬼さま、死神、大天使?もはや肉体におさまり肉体寿命がすべての「ヒト」ではないことは確かです。
人類という勢力が発祥する以前の記憶をもつというのは、神話元型としての系譜を自覚しているということになるので、現代の視覚至上主義に陥った地獄の沙汰を理解しつつ、その状況に取り込まれないということでもありましょう。
地球環境を習熟し、種をつないできた植物界のエキスパート、つくしとスギナは、現地球史における神話元型・老賢者もしくは太母(グレート・マザー)のようなポジションにあるのかもしれません。
太陽は水瓶座後半です
太古の叡智を脈々と受け継ぎながら、現在も繁栄しているスギナ・つくしをはじめとするシダ植物は、地の理をつかさどる太母と、天の理をつかさどる老賢者による大傑作のひとつなのだろうと考えています。
ヒトの介入もなく、手入れも管理も必要とせず、地球の大規模な環境変化をのりこえて、3億年以上まえからいのちをつないできたことを想うと、あまりの壮大さに気が遠くなり、スギナ・つくしには天のはからいをまんま宿らせている秘密が、隠されているのではなかろうか、と思ってしまいます。
水瓶サインを過ごす期間は、スギナ・つくしのように普遍的で壮大な気配に親しむ心理が高まるように思います。
いわゆる生存競争のための地の理、たとえば花の色味や美しさ、開花する時間帯や時期、あるいは他感作用(アレロパシー)を発動したりと、地球環境の独特なルールに縛られることなく、スギナはただひたすら太陽の光を求め続けます。
それ以外のことはすべて平均的、自動的、合理的に処理して、そつなく地表生活をこなしているような。
地に向かう胞子散布、天に向かう太陽光のとりこみ、同じ根茎からふたつの興味・関心ごとを明確に分離して、月日の大半を太陽意識・太陽の光に集中する植生は、地上世界のこまごましたやり取りから自由になる創意工夫を、みごとに体現している成熟した水瓶サインそのもの、という感じがします。
生活のすべてを春の「はなまつり」のために費やし、あちらの家の成功事例、こちらの里の失敗例など情報をくまなく収集して総括し、神様に喜んでいただけるようプログラムを刷新しつづけ、神様ご来臨のことだけを考え続ける古人の暮らしぶりにも、どこか通じるものがあるように思います。
お迎えする日の立ち居振る舞い、祝詞の奏上、歌や舞いの稽古に勤しみ、あたらしい祭壇準備のために香りよい樹木を探し、より神殿にふさわしくあるよう家も心身も整え、1年のすべてが集約される特別な春の日を中心軸として生活をまわしてゆく。
春のまつり(胞子散布)は初春のころの、いっかいこっきり。
けれど年中、意識の矢が向かうのは、天のきざはしである神様、鬼様、御霊様。そして時折厄介ごとをもちこむ もの の勢力。
その存在を笑止と排斥する人々もいるけれど、鼻のきく水瓶座にとっては自然と感知してしまう、 自明の理。
人ならざる かみ・おに・たま・もの との関係性を視座に入れた、大きな大きなネットワークは、地獄草と称されるスギナ・つくしの根茎のような、3億年を生き延びた、悠久の叡智が台座となっています。
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お読みくださりありがとうございました。
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