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短編小説:作家の亡霊

 続いてのニュースです。
 小説家、エッセイスト、タレントとして幅広く活動されていた屋久島美幸さんが十月二十七日に亡くなっていたことがわかりました。二十八歳でした。
 所属事務所の公式Twitterにて、次のように発表されました。
 
誠に突然のことではございますが、弊社所属の屋久島美幸が、十月二十七日未明、心筋梗塞のため永眠致しました。享年二十八歳です。
 これまで暖かく応援してくださったファンの皆様、並びに関係者の皆様へ、ご報告致しますと共に、厚くお礼申し上げます。また、皆様と共に、心からのご冥福をお祈りしたいと思います。
 
 関係者によると、葬儀の方はご家族、および本人の生前よりの強い意向に伴い、家族のみでとり行われたとのことです。

 次のニュースです。

 ***



目が覚めた。
 六畳一間の小さな部屋に、中途半端にひっかけてある遮光カーテンの隙間から、青白い冬の朝の光が差し込んでいる。多分、寝坊じゃない。
 枕元で充電していたスマートフォンに手をかけて、画面を光らせると、時刻は六時四十一分。アラームの設定時刻の四分前だった。
 これからけたたましい音で、無理矢理一日を始めるぞ、という悪しきサイレンに打ち勝って、目覚めた事がうれしい。
 もう今日はこれ以上アラームが鳴らないように、機能を切って、スマートフォンをベッドの上に寝かせた。
 そのまま床に座って、机の上に置いていた煙草に火を付けた。朝の一服。昨今の動画サイトでは、おしゃれな朝を紹介するモーニングルーティンという動画が流行っていたが、私のモーニングルーティンは、煙草を吸ってバタバタと朝の支度をして、前日に炊いておいたお米を弁当箱に詰めて満員電車に乗るだけなので、紹介できるものではない。
 もとより、紹介して人が見るほどの存在でもないが。
 肺一杯に煙を吸い込んで、深呼吸のように吐きだす。体中に有害物質がまわっていくこの感じを手放せないあたり、自傷なのではないかと思いつつも、一度依存したものから手を離すのは億劫だ。
 別にいい。煙草を買うために借金をしているわけでも、重篤な疾患があって辞められないわけでもない。
 困っていない依存は、別に依存という名を付けるまででもない。ただ単に、世の健康志向やら、煙草の値上げやら、一般的な飲食店での喫煙の禁止やら、どんどん無くなっていく喫煙スペースやらで、煙草を吸う事自体が悪なのではないかと思わされているだけであって、別に嫌がる人の前で無理矢理吸ったり、ポイ捨てしたりをしなければ、私はこのまま吸い続ける権利がある。今のところ。
 朝から煙草に思いを馳せていると、やっとしっかり脳が動き出したようで、今日が祝日だったことに気が付いた。
 会社に行く日なら、アラームより少しだけ早く目が覚めることは、良い一日のスタートと思えるが、これが祝日なら話は別だ。そもそもアラームを切り忘れていた時点で、たたき起こされて不快になる未来は見えていたが、少し早く起きた事すら勿体無い。
 花柄の朝は、急に沼色の朝に変わった。
 これが意識の高い人間と呼ばれる部類のヤツなら、今日一日の予定のついでに、朝に少しゆとりが生まれたからと、ヨガなり勉強なりをして時間を有意義に使うかもしれないが、朝起きて一番にやることは喫煙の私がそんなことをするはずがない。一秒でも長く寝て、会社の疲れを取りたかったし、今日の予定はゆっくり寝て、昼間に買い物に行っていくつかの作り置きをして、夜になったら晩酌をしながらサブスクの映画を見るだけだ。これが私にとっての一番有意義な休日なのだから仕方ない。
 煙草を一旦置いて、ケトルにお湯を沸かし始める。気休めで取り付けた、蛇口に取り付けるだけの浄水器を通しただけの水道水。
 もう六年も使っているが、これ一つで永遠に浄水し続けてくれるとは思えず、最早気休めにすらないっていない。
 粉のカフェオレをマグカップにセットして、煙草の続きをふかしていると、プラスチックに気泡がぶつかり、もうすぐ沸ききる音が聞こえた。早めにケトルに向かうと、少し早かったようで、全然スイッチが下がって沸騰を告げない。
 この無駄な空き時間が嫌いだ。電子レンジのあと五秒、電車の前の人がスマートフォンを見ていて動かない二秒。それらを寄せ集めて、積み重ねていったらきっと莫大な時間になる。それを一つのなにかに費やせば、名のある人になれたかもしれないな、なんて夢物語を考えてしまう。
 大嫌い。
 やっと沸ききったケトルからお湯を注いで、カフェオレを入れた。今のところ熱くて飲めない。ああ、二分。

 手持ち無沙汰でパソコンの電源を付けようとしたところで、家のチャイムが鳴った。七時五分。宅配業者にしても早すぎる。この時間に鳴るチャイムだなんて、嫌な予感しかしない。どうせ宗教勧誘だの、トラブルの種になるなにかだ。
 息をひそめて、不在を装う。会社に行くとしても、ギリギリ在宅している時間を狙ってくるあたり、何か危ない人かもしれない。居ることを悟られてはいけない。
 もう一度、ピンポンと鳴った。まだいる。
 ドアの前をうろうろしている気配がする。耳を澄ませて、立ち去るのを待つ。

――あすか? いない?

 小さく聞こえたその声に、私はドアへと一目散に駆け寄った。


「屋久島……さん」
「久しぶり」
ドアを開けると、そこには大きなキャリーケースを抱えた屋久島美幸が居た。


「よかった、まだここに住んでて。お邪魔するね」
 美幸は返事を待たずして、部屋にずかずかと入っていく。昨日食べたきり置きっぱなしのシンクの食器にも、パジャマのままの私にも目もくれず。
「どうして」
 言いかけた私を遮るように、美幸が封筒を渡した。
「しばらくここに泊めて」
あっけにとられながらも、封筒の中身を見ると、帯のついた一万円札の塊が一つ。
「ホテル代だよ、しばらくの」
「いや、受け取れないよ。大体、六畳しかないのに、人と生活するスペースなんてないって」
「だからいいんじゃない。ほら、知っての通りワケアリだから」
 彼女はそう言いながら、含み笑いをした。
 それはそのはずだ。屋久島美幸は、死んだのだから。

 屋久島美幸。作家、エッセイスト、タレント。
 文学賞を受賞して小説を書く傍ら、文芸雑誌で連載していたエッセイの、歯に衣着せぬ物言いがうけて、少し前からテレビ番組にも出るようになっていた。人気は上々で、文化人ながらも、旺盛な好奇心でロケに行ったり、討論番組に出たりと、幅広く仕事をこなしながらも、出版不況と言われるこのご時世に、発売から十日で二十万部を売り上げる本を書いたりする人気者だ。
 まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった屋久島美幸。だが二日前、彼女の訃報が流れた。
 屋久島美幸、心筋梗塞で急死。
 葬儀は彼女が生前、念のため書いていた遺書の通り、親族だけで行う。
 そのニュースは、未だに下火になっていないほど、連日連夜ワイドショーやSNSで語られている。

「本当にホテルに泊まればいいじゃん。こんだけお金を私に払うなら」
「それじゃ見つかっちゃうじゃん」
 美幸は笑いながら、私の煙草を勝手に取ると、火をつけて吸い込んだ。
「あ、久々に吸うとキッツいね、これ」
「……10ミリだから」
「早死にするよ、私みたいに。あ、生きてたわ」
 美幸はにやにやと、さも今面白い事を言いました、という表情を私に見せつけてくる。腹立たしいやら、悲しかったやらで、笑うにも笑えない。
「追われてる、みたいなこと? 聞いてもいいのか知らないけど」
「いや、別にそういうのじゃないよ。言っちゃえば計画的犯行だったし」
「狂言自殺、みたいな話だよね」
「自殺だと色々憶測が飛ぶからね、心筋梗塞にした。あ、でも近い人は結構生きてる事知ってるよ。家族とかだけど」
 じゃあなんで、と言いかけたところで、遮るように美幸が続けた。
「屋久島美幸で居ることに疲れちゃったんだよね。だからしばらく、ご厄介になろうかなと思って。やってみたかったの、作家二人で六畳一間でのルームシェア」
 少しずつ、町が生活を取り戻して、始まった外の喧騒が聞こえてくる中で、美幸が大きく、煙ごと息を吐いて言った。
「まだ書いてるんでしょ」
 息が止まるかと思った。


 美幸と私が出会ったのは、五年程前の書店だった。当時、フリーターをしながら小説家を夢見て生活していた私は、なけなしのお金で、その時に芥川賞を取った書籍を買いに出かけた。ここから一番近い大きな書店に行くためには、電車に乗らなければいけなかった。電車賃を取るか、明日の昼飯代を取るかの瀬戸際の中で、どうしても今すぐに読みたい本を購入したくて、町の小さな書店に行った時、運よく一冊だけ残っていた本に手を伸ばしたのが、私と美幸だった。
 お互い、初めは探るような動きを見せたが、気を使って店員に在庫があるか聞いたときに、最後の一冊と言われて、お互い譲らなかった。どうしても今日読みたいのだ。色んな人の手あかがついた感想が、濁流のように耳に入る前に。
「じゃあ、こうしませんか。今からカフェに行ってあなたが読む。お茶代は私がおごります。その代わりに本代はあなたが。そのあとすぐにそれを私に読ませてよ」
 彼女の提案に私は乗った。今思うと、お茶をおごれるお金と時間があるなら、大手の書店に行って買った方が早くて安かっただろうに。
 近くのカフェに行き、本を夢中で読んだ。彼女はその間、持っていたパソコンで小説を書いていたらしかった。本はさすがの芥川賞で、ページをめくる手はとまらず、一気に最後まで読み切った。そもそもそこまで文章量が無い小説ではあったが、時間が溶けるという表現を体感するほど、夢中で読んだ。
 読み終わって、顔をあげた途端、一気に酸素が肺に入ってきた。彼女はその姿を見て、笑っていた。今すぐに、大して知らない目の前の人にこの本を押し付けて、読んでもらいたくなった。
「読み終わりました」
「うん」
 パソコンを閉じて、彼女が本に手を伸ばした。早く感想を聞きたい。語りたい。そう思いながら、私はノートに本の感想を書きなぐった。
 しばらくして、カフェの店員が閉店の時刻を告げに来た。ここで初めて、私は座ってからかなりの時間が立っていたことを知った。初めに注文して置き去りだったコーヒーは、最早アイスコーヒーになっていた。
「すみません、読むの遅くて」
「いや、読みなれてる人のスピードだったと思うよ。あのカフェがあんな早く閉まると思ってなかっただけだし」
 二人で店を出て、途方に暮れた。ここから、じゃあ居酒屋に行きましょうと誘えるお金も無いし、この本は私の本だ。彼女にお茶代を払ってもらって置いて、たった十ページほどしか読んでもらってない。
 罪悪感から、私は名前も知らない彼女に言った。
「続きは、うちで読みませんか。一人暮らしなんです、ここの近くのボロアパートですけど」
 彼女は、ふふふと小さく笑って言った。
「ご厄介になるね」
 そうして、家に呼んで、彼女が本を読み終わるまで待った。
 そのまま、読み終わった彼女が大きく息を吸い込んでから、まるでシャワーから流れるように感想を言い合い、この文章が素晴らしいだとか、心情描写がいいだとか、このキャラクターに共感できたけどこのキャラクターがなんであんなことをしたのかわからないだとか、沢山、沢山の感想を言い合った。
 これが私と彼女の出会いだった。
 結局感想を言い合って、意気投合したのをいいことに、たまたま前に貰ったっきり、部屋に置いてあった日本酒まで飲んで、朝まで語り合って、雑魚寝して。起きてそこで初めて彼女の名が美幸であることを知って、連絡先を交換した。
 そのあとも、どちらかが面白い本を買う度に、うちに来て読みあっては感想会をした。美幸は気を使って、お酒だのおつまみだのを毎回持参してくれていた。
 お互いに小説家を目指していること、美幸は取るなら芥川賞より直木賞がいいこと、折角小説を書くなら出版社はどこのがいいだとか、会うたびにそんな話をして、私にも火がついて。
 このころが、一番小説を書いていたと思う。
 アルバイトをして、本を読んで、美幸と会って、本を書いて、アルバイトをして。とにかく毎日、作家になるために生きていた。
 小説が書きあがるたびに、美幸に見せていた。データを送ると、一日二日ぐらいで読み切り、どこがどう面白かった、何が良かったと感想をくれた。それでいい気になっていた時間も楽しかった。
 それからほどなくして、美幸が出した小説が、大手出版社の賞を取って、作家デビューが決まった。
 私の作品は、同じ賞を落ちた。それも、箸にも棒にも掛からぬ形で。
 悔しかったのと、賞を取る程の才能がある人にいい気になって見せていた恥ずかしさ。自分は結局、なんでもない存在で、面白いものを書けるのは美幸であるという妬み。それらが相まって、素直におめでとうと言えなかった。
 それからはなんとなく、美幸からたまにくるメッセージに、それとなく返事をするも、会うことはしなかった。
 そこからどんどん売れていく美幸の本。メディアや雑誌に美幸の姿が出ていくのと反比例するように、私は就職活動をして、普通の会社の事務員になった。本当に才能がある人には、叶わないのだからと。
 気が付けば、美幸からのメッセージは来なくなっていた。毎日、ただそれとなく生きる生活にも慣れて、電車代と昼飯を天秤にかけるような生活でもなくなった喜びで、次第に、作家の夢は、胸の奥でうすぼんやりと光るだけの小石になった。
 ニュースで美幸の訃報を聞いたとき、罪悪感が無かったわけではない。もっと話をしておけばよかっただとか、会っておけばよかったとか、少しは思いもしたが、それよりも。
 美幸は、私の中でもう住む世界が違う、ただの赤の他人の芸能人と化してしまっていた。そのせいで、葬儀は親族のみでひっそりと行う予定です、という所属事務所の発表に対して、胸をなでおろした。大々的に葬儀をするなら、多分私も行く。そして美幸が死んだことにも、彼女が人気者だったことにも、才能があったことにも、直面しないといけなかっただろうから。

 まだ書いてるんでしょ、と言った美幸の目には、確信が宿っていた。
 相変わらず本の多い部屋だけど、私の書いたものなんて無いはずなのに。
「書いてない、わけじゃないけど」
「書ききってないの?」
「うん。そういうのがいっぱい」
 美幸が窓を開けた。立て続けに二本煙草を吸われた部屋は、少し白くくすんでしまったからだ。
「よかった。まあ書いてるだろうなとは思ってたけど、やめてたらどうしようかと。あかりの書く小説のファンだったから」
 あっけらかんとした美幸のその言葉に、腹の底から、また妬みが沸いてくる。私の小説は評価されない話で、あなたの方がずっとずっと人から求められている話なのに、それなのに、バカにされているみたいだ。
 それと同時に、胸の奥の小石が煌めいた。嬉しい、と思った。小石が息を吹き返して、脈を打ち始めている。現金な私の感情め。小石だった思いが、再び、肥大して脈を打ち、私の第二の心臓として、身体を動かそうとし始めている。
 指に熱が戻ってきた。部屋の中で私を見つめている沢山の本たちが、私にもう一度書いてと言っているようにすら思える。
 情熱が、また燃え出した。
「美幸、ちょっと書くね」
「うん」
 美幸はベッドの上に勝手に寝転がり、手近にあった本を開いた。私が昨日の夜読み終えた、読みたての面白かった本。
その姿をしり目に、私は久しぶりに、小説を書き始めようとした。
 だが、一時間程、うんうんうなって、四百文字程書いたあたりで気が付いた。
 私には、今書きたい話が無い。
 美幸とよく会っていたころは、書きたい話で溢れていて、書いても書いても満たされなかったはずなのに。今は、全く持って書きたい話が思い浮かばないのだ。
 本を読む美幸の、真剣な横顔を覗き見た。テレビで見るより艶の無い、黒く長い髪の毛が、まくらに散っている。
「美幸」
「ん?」
「なんで、屋久島美幸で居ることに疲れたの」
 美幸がページをめくる手を止めた。どうみても、聞いてはいけない事を聞いた雰囲気がある。それでも私は、今朝美幸に、屋久島美幸でいることに疲れたと言われてから、それがなぜなのかを知りたかった。
 あれだけ人から注目されて、人に帯付きの現金の塊をポンと渡せる程の財力があって、本も売れていて。誰がどう見ても、幸せな人生じゃないか。それを手放したくなるだなんて、一体どんな事が起きたのか。
 美幸は本に挟んだままだった、新書案内のチラシをしおりにして、枕元に本を置くと、私に向き合うように座った。
「何度もドラマとか映画になった小説を書いてる東野圭吾さんいるでしょ」
「うん。マスカレードシリーズとか、好きで読んだ」
「顔、わかる?」
 美幸の問いに、眉間に皺を寄せて考えてみる。文芸雑誌か何かのインタビューに載っていた写真を見たことがある気がするが、同じ雰囲気の男性の写真を数枚並べられて、どれが東野圭吾であるかと問われれば、当てられる自信は無い。
「よく読んでる作家さんでも、わからないこと多いでしょ。あれはさ、わかるようにしすぎると、人のイメージが作品につきすぎちゃうからだと思うの」
 美幸は私の本棚を見渡すと、数冊本を取り出した。
「こういう芸人さんのエッセイとかさ、勿論面白いんだけど、全く違う人が書いたら面白いと感じない本かもしれない。逆に、普段炎上芸をしている人が、童話的な絵本を書いたとして、それが素直にその人が人と共有したい、表現したい世界観だったとしても、作家が意図してない考察をされて、手痛い評価をされることもあるだろうし。そういう感じで、イメージが浸透すればするほど、書けるものって限られてくると思うんだよね」
 美幸はつづけた。
「解離しちゃったんだよね。世間の屋久島美幸のイメージと、書きたいものが。それで、屋久島美幸とはさよならすることにしたの」
「でも、死ななくても別に良かったんじゃないの? 別名義とか、そういうので」
「出版社は売れる本が欲しいんだよ。それで、屋久島美幸というブランドがあって、そのブランド名で売れるみたいなところがあるから、名義を変えて書かせてくださいって言っても、多分どっかで別名義はバレるだろうし、他にも大人の忖度とかいろいろ発生しそうで、言えなかったんだよね。なんて言ってるけど、まあ、疲れて逃げたかっただけだよ」
 ここに来て、やっと気が付いたけど、私、なんか追い詰められてたみたい。
 美幸はそう言うと、また勝手に私の煙草に手を伸ばした。
 テレビで見るよりも、ずっと普通で、ずっと弱い美幸。ああそうだ、これが、私の知っている美幸だ。
「ライター貸して」
「あ、はい。ベッドの上に灰落とさないでよ。その掛布団燃えやすいから」
「気を付ける。ねえ、この布団って二代目?」
「三代目」
「二回やったんだ」
 まるで昨日も会っていたみたいな、軽口の会話。
 そうだ、私達、確かに親友だった。

 美幸がうちに来た二日目。三連休自体に予定を入れていなかったから、とりあえず、布団セットを通販で購入した。成人女性が二人並んで寝るには、私のベッドはちょっと狭い。
 美幸はほとぼりが冷めたら出ていくらしい。人の噂も七十五日というから、三か月も居ないよと言いながら笑っていたが、小さなボロアパートに三か月も居られちゃ困る。
 美幸に言われて、薬局でブリーチ剤を買って帰ってくると、彼女は風呂場で髪を切っていた。
「長いまま美容院行くとバレる可能性があるから、一回自分で切って染めてから、整えるために美容院に行く」
「ミステリー小説の犯人みたい」
「近い感じじゃん?」
 適当にばっさり切られた髪の毛に、ブリーチをかけるのを手伝った。人生で初めて金髪にして、ギャルみたいだと美幸が喜んでいたけど、どちらかというと田舎のヤンママみたいだった。
 夕方に美幸は、近所のおばあちゃんがやってる美容院に行って、軽く髪の毛を整えてもらってきた。ショートカットにした美幸は、わりと様になっているのと同時に、あまりにも雰囲気が変わりすぎて、マスクさえ付けてしまえばこれが屋久島美幸であるということなんてわからないだろうと思った。
 三日目は一緒に書店に行ったり、初めて会った日に行ったカフェに行ったりした。書店に大きく、若き天才、屋久島美幸の追悼特集だなんて書かれたポップがあったり、書店売り上げの上位に美幸の本がずらりと並んでいるのを見て、美幸はものすごく微妙な顔をしていた。
「この場合、印税ってどうなるの?」
「お母さんの名義の口座に入ってくる。お母さんは生きてるの知ってるし」
「そうなんだ」
 美幸は海外で人気と言われているミステリー小説を数冊手に取ると、セルフレジで購入して、すぐに書店を出ていた。書店なんて、普通よりバレるリスクが高そうな場所に行くだなんて、なんでそんなことをするの聞こうかと思ったけど、通販サイトで目当てのものを買うより、たまには書店で本の表紙で興味を持って、思わぬ作品を買ってみたいという気持ちはわかるので、黙っておいた。

 美幸とべったり過ごしたのは、三連休の間だけだった。私は月曜日からいつも通り、会社に向かって、仕事をこなす日々。
 家で小説を書いている美幸が、不在の間家事をしてくれていたおかげで、生活はすごく楽になった。家に帰って洗濯物をまわして、晩御飯をつくって、ということをしないでいい分、気持ちは楽だし、本を読む時間が増えた。本を読んで感想を美幸にぶつけるうちに、段々書きたいことも固まってくるようになった。
 人の死なないミステリー小説。それが私の選んだ題材だった。
 死の代わりに、無くなったお金の犯人を捜す話。モデルになりそうな事件に関する書籍を集めて読みふけり、まるでシャーロック・ホームズのようなキャラクターが欲しいと、要素を入れて書いてみたり、読んでは書いて、美幸と話して、仕事して。
 あの頃のような毎日。私の青春。
 きっと、面白い作品が書ける。

 美幸がうちに来て、十一日がたった。
 仕事を終えて、帰宅すると、ボロアパートの前に大きな黒い車が止まっていた。
 長く女の一人暮らしをしていると、こういう車には極力、自衛のために近づかないようになる。だが、細い道に留まっている以上、真横をすり抜ける形で通り過ぎないと、家の中に入れない。
 鞄からスマートフォンを取り出して、美幸にメッセージを飛ばした。
 ”家の前に変な車が留まっているから、ちょっと迂回する”
 既読マークがすぐについて、途端に美幸から着信がかかった。
「もしもし」
「一応、もしかしたらとも思うし、この通話つないだままうち入ってきて」
「え、家入るの見られるとヤバそうじゃない?」
「多分あかりは大丈夫」
  美幸の言う通り、スマートフォンを通話状態にしたまま、なるべく車から身体が遠くなるように、足早に横をすり抜けて自宅へ入る。
 運転席に居た男が、顔を確認するように見てきた気がするが、すぐに逸らして何事も無かったかのように別のところを向いた。
 念のため、かなり手早く鍵をあけて身体を家に滑り込ませた。体をギリギリまで扉に近づけて鍵をあければ、きっとあの角度からは、一階のどの部屋の住人かまではわからないはず。
 部屋の中で、心配そうな顔をしていた美幸が立っていた。
「お帰り、大丈夫だった?」
「うん。なんか顔を覗き込まれた気がするけど」
「そっか……」
 美幸が、晩御飯の支度をしてくれている。
 手を洗って、すぐさま頂きますと食事を開始した。
「多分、ゴシップ雑誌の記者だと思う」
 美幸が小さく呟いた。
「ゴシップ雑誌って、一回特ダネを掴むと、億のお金が動くんだよね。雑誌と、WEBの記事の閲覧数、写真の使用料とか、とにかく大きな経済効果がある。だから執着もすごいの」
 美幸の話をただ黙って聞くしかない私は、物を飲み込む事ができなくなり、味の無くなった白米をずっと噛み続けるしかなかった。
「ここは、都内ではあるけど近隣住民の入れ替えも少ないエリアだし、このアパートは道路に面してるところも一か所しかない。しかも小道の奥で、古い一軒家で四方を囲まれているアパートだから、周りに貼り込める場所は家の前しかない。まわりに住んでる層も、初老から老人ぐらいが多いし」
 美幸が、私の家に急に来た理由だった。私と時間を過ごしたい、というものではなく、立地が今の美幸の条件にあっているから、という理由で選ばれたと思うと、胸の奥で、怒られたときのように、ぎゅっと締め付けられるような感覚がした。
「久々の休みに実家に帰って、その日の夜に心筋梗塞。二階の部屋だったから、誰にも見られることなく死んで、朝になって冷たくなった私を両親が発見。仕事に迷惑がかからないように、先の仕事は全部執筆活動に専念するためって断ってたし、親が私の仕事や交友関係を知らなかったとか、慌てたとかでいろんな連絡をすっ飛ばして、葬儀後に関係各位に連絡してて、そこでおあつらえ向きに遺書なんてものもある。不審な点も多すぎるし、出来すぎてるし。メディアは自殺とか、先にそういうのを隠してるみたいな方に持っていきたかったと思う」

 その危ない橋を渡ってまで、美幸がなぜ死を装ったのか。
 それほどに早急に逃げたかったのか、それとも、自分の生きた証として、名義だけでも残しておきたかったのか。
 絶対に帰る場所は無いように仕向けたかった何かがあったのか。
 私には、わからなかった。

「多分、これ以上居たら迷惑がかかるから。さすがにこんな住宅街でずっと車を留めておくわけにいかないし、あそこの道を塞いでるみたいな形だから、多分何分かに一回ぐるぐるまわってると思うんだよね。上手く合間を縫って、この家から出るよ」
「行く当てはあるの?」
「うん。一応ね。とりあえず辺鄙なところにでも行ってから考えるよ。お金ならあるし」
 そういった美幸の姿は、私の想像する死を本当に決意した人間の姿に見えた。
 それと同時に、本当に書きたいものを書きあげるまでは、絶対に生をあきらめない彼女の事を、私は知っている気がした。知っている彼女と、知らない彼女が目に映り、私の腹の中で、急かすように言葉を扇動する血があふれた気がした。
「じゃあ、書きあがったら」
 私は恐る恐る切り出した。
「人の死なないミステリーが書きあがったら、買ってね」
「うん。楽しみにしてる」
 これは私からの、一方的な約束だ。
 私が安心したいだけだ。こういう時さえも、狡猾なのだ。
 自分が今まで書かなかった理由を、美幸に押し付けていたぐらいなのだから。

 本当はわかっていたのだ。私は、本を書くことにこだわっているのではなかったと。
 作家という肩書にこだわっていて、面白い作品を世に出す事が目的なのではなく、評価されることが目的だったということを。だから美幸が賞を取った時から書かなくなったのだ。
 美幸は、ずっと書きたいものをひたすらに書いていたい人だった。書く事と読むことが大好きなのだ。対して私は、初めは読むことが好きだった。書く事も好きだった。いつからか、書いた先で評価される事だけが好きになった。思ったよりも、会社員も板についてしまった。作家じゃなくても生きられるとわかっている、普通の人。下手の横好きの私は、それでも、作家という肩書になりたいと、欲望を捨て去ることもせずのうのうと、また文芸の世界にかじりつこうとしている。とっくに、もう作家になるためになんてことはしておらず、美幸が私の目の前に現れるまで、ろくに小説の一本も完成させてこなかったのに、だ。
 こんなの、私は作家の亡霊じゃないか。

 ただ、今。たった今。
 私は美幸と約束したのだ。本を書いて彼女が読む約束を。
 それは、充分に自分を、作家としてたらしめる理由だと、今は思うしかなかった。

 翌日、何事も無く仕事に出かけた。
 昨日見た黒い車は、少し位置が変わっていた気がしたが、まだあった。
 満員電車に乗りながら、必死に頭の中で話の構想を練る。
 人に評価してほしい、美幸に面白いと言ってほしい。その中で、自分の読んできたもので積み重ねてきた審美眼を使って、自分が一番面白いと胸を張って言える小説を書く。
 主人公は、とにかく魅力的なキャラクターに。自分が魅力的だと思う男性に。その相方は、少しさえない人。だけど芯が強くて、冒険が好きで、なんだかんだ主人公のやることを手伝ってしまうような人。
 電車内が少し空いた途端に、スマートフォンを取り出して必死にメモを書いた。
 会社にいる間も、仕事の合間を縫っては一文字でも書いた。
 今の私の、書きたいはこれなのだ。

 家に帰ると、電気が付いていなかった。
 美幸は旅だったらしい。机の上に、小さなメモと私の好きな麻婆豆腐が作って置いてあった。小さくたたまれた布団にも、麻婆豆腐にも熱は無い。
 どこかで返そうと思っていた現金の塊が、本の間に片付けてあった。全部、全部、本当にこの部屋に美幸が居た証だ。
 美幸は死んでいなかった、証だ。

 そこから数日、相変わらず黒い車を家の前で見かけることはあったが、確固たる証拠がつかめなかったのか、しばらくしたら居なくなった。
 毎日、毎日、ただひたすらに、私は小説を書いた。夢中になりながら、ひたすらに。いつか、美幸に見せる時の為に。
 この一本で賞がとれるかなんてわからない。あの時は、取れると思って、取れなかった。だからといって、取れないと思って出すのも嫌だ。だから私は、美幸と約束したのだ。取るまで出し続ける。作家になるまで出し続ける。それがあの約束でもあるのだ。



***

 インターネットとは便利なもので、日本のどこに居ても、繋がってさえいれば、毎日の新刊情報が手に入る。
 田舎も田舎で、近くの書店まで片道一時間半車でかかるようになってからは、ほとんどの注文を通販で済ませるようになってしまった。
 そのせいか、朝起きて一番にすることは、ブックマークしてある読書記録や本のレビュー、最新情報を追えるサイトの、今日発売の本のボタンをクリックするのが、毎朝の日課となっていた。
 今日発売の本の欄には上から、有名なミステリー作家の本や、ニッチな図鑑、運の本だの刺繍の本だの、沢山の本の情報が並んでいる。
 年間約七万二千冊の本が出版され、流通しているというのは前に何かで聞いたことがあるけど、こうして見てみると、やはり圧巻だ。
 スクロールをしていくと、一ページ目でお目当ての本が見つかった。

 小説推理新人賞受賞作品、『そして謎ごと隠される。』著者、叶 あかり。
 その横に、小さな出版社から出た純文学も並んでいた。
 『かのじょの話』著者、美川 幸子。
 思わぬ偶然に、ふふふと小さな笑い声をこぼしながら、サイトのスクリーンショットを友人に送り付けた。
 ”あったよ。ポチるね”
 ほどなくして、友人から写真付きで返信が返ってきた。
 ”こっちも”
 元気そうに、書店に並ぶ自身の本の前で、私の書いた本を持ちながらピースサインをした自撮りの写真は、売り場ばかりが映っていて、顔は半分見切れていた。

 私は本を注文すると、彼女と同じ煙草に火を付けて、大きく息を吸い込んだ。彼女の家によく似た、部屋の白い壁が、煙草の色を吸って少し黄ばんでいる。
 本が届くまでは、おおよそ四日。都会じゃこんなに日数がかからないことだけが、心残りかもしれない。
 その間に彼女は私の本を読み切ってしまうだろう。届いたら、すぐに読んで彼女に通話をかけて、朝まで語り合うのだ。日本酒でも飲みながら。
 それまでに新しい話でも書きながら、気長に待とう。
 書きたい話は、たんとある。
 話したい事は、たんとある。

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