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しばイッヌ展覧会

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2021年3月の記事一覧

はじめて話した山口県民は親切な人でした。

山口県山口市にきた。 お仕事で出張。秋田県から山口県へ。 朝の9時30分から飛行機を2本のりつぎ。 田舎に住んでいれば、飛行機に乗るなんて一大イベント。 町中では見られないシュッとした格好のCAさんにやさしく案内され、離陸時にはF1カーのごとく猛烈なG(加速)を受け、上昇時には何度も耳がツーンとなり、機内はしこたま乾燥した空気のなか、直立姿勢でウトウト眠る。 これを2回。 秋田から山口まで1300km。 車だと2日。歩くと1ヶ月かかります。 こんな距離なのに、飛行機

しあわせな犬。

ふと、むかし飼っていた犬のことを思いだした。 今は亡き、ポチとムクに捧げる。 さようならをムクに、ありがとうをポチに捧げる。 *** 「オン、オンオン」 ポチの吠える声は野太い。おばあちゃんの家の犬。白くてでかい雑種。 おばあちゃんはひとり暮らし。おじいちゃんは、20年以上前に亡くなった。おばあちゃんがひとりになって、保健所からもらってきたんだって。 ゴールデンレトリバーと、柴犬の中間くらいの大きさ。頼もしげなポチ。筋肉質で、でかいのに毛が長くて、シャギーもかかってる

「一日生きることは、一歩進むことでありたい」

そのまんまです。 noteで記事をまいにち書くのは、このことばが原点なのかもしれない。このね、最後のね、一歩進むことで「ありたい」ってとこがいい。もし「一日生きることは、一歩進むことである」だったら、ちょっと暑苦しいというか。あ、うん、まーそだね、知ってるけど。くらいに受けとっちゃう。 いまや一日一日は大切に生きべきということも、一日一日の積みかさねが大事ということも、分かりきってる。 分かってるけど、なかなか継続できなかったり、つらかったり、不安になったりするわけです

自分に合わせた話題を振ってくれていると気づいたとき、申し訳ないような、ありがたいような複雑な気分になります。

さいきん、会社でみんなが「疲れましたねえ」と、よく言う。 3月は、1年間でいちばんの繁忙期ということで、エレベーターに乗りあわせた同僚も「疲れましたねえ」。 更衣室で一緒になった後輩も「疲れたっすねえ」。 トイレですれ違った先輩も「いやー疲れたねえ」。 みんな、疲れてるんだなあ、と。 しかし今日、ふと思った。 まてよ。 あれ? 本当にそうか? もしかして、わたしの顔が疲れているから、みんな共感してくれているだけなのではないか。 わたしは、どちらかというと疲れが

「Aくんの宿題」

小学生のころ、近所に美形で面白いにーちゃんがいた。 にーちゃんはそのころ中学生で、小学生のオレからみてもハンサムなにーちゃんだった。 んで、そのにーちゃんには弟がひとりいた。 弟とわたしは同級生だったからよく遊んでいた。 遊んでいると、同級生がそのにーちゃんに「なんか面白い話して」っていつも言う。 そのたびに、そのにーちゃんは待ってましたとばかりに面白い話をしてくれた。 そのなかのひとつの話。 「Aくんの宿題」 Aくんはいつも宿題を忘れてしまう子でした。 今日もAくん

「ヒット作の前作」を語るしあわせ。

たとえば「ドラゴンボール」は名作だ。 まちがいなく名作なんだけれど、ドラゴンボールの作者は、ドラゴンボールの前に「Dr.スランプ アラレちゃん」という名作を書いている。 たとえば「新世紀エヴァンゲリオン」は名作だ。これまた、エヴァンゲリオンの監督は、エヴァンゲリオンの前に「ふしぎの海のナディア」という名作を世に出している。 このように、世の中でヒット作と呼ばれる作品には「ヒット作にヒケを取らないおもしろさの前作」が存在するケースがある。 マンガやアニメ好きの人と語ると

洋服はいま、年間15億着も余っているらしいですよ。

ブランドの洋服が、8割引きで買えるお店が茨木県ひたちなか市にオープンした。 というニュースを見た。 いやいや、いくら東北の田舎に住んでいるからって、アウトレット販売くらいは知っていますよ。 いまさらもの珍しくはないかもしれない。「オフプライスショップ」と銘打っているけど、よくある「アウトレット」と大きな違いはないようで、1~2年前に生産された各ブランドの余剰在庫を仕入れて、格安で販売している。オトク。 わたし自身、いまから15年くらい前、同じくブランドの余剰在庫を格安で

えーと、とりあえず「東北なまり」は「かわいい」ってことで良いんですかね?

「んだ」 これは東北で、もっともポピュラーな方言のひとつ。 むかし20代前半のころ、上京した友達の友達が根っからの東京人で、その人たちと遊んだとき、つい相槌で「んだ」と言ってしまって恥ずかしかった。 しかし、周りの東京人の反応は「んだって癒やされる〜」と、すでに「東北なまり」は東京でもある程度の市民権を得ていて、安定した立ち位置を見出していた時代だった。それにびっくりしたもんだ。いまでは当たり前となった「癒やし」ということばが普及しはじめた2000年代初頭のはなし。 も

まいにち自分の考えを書き、誰かの考えを読む。

「なにを書こうかな」と、ポヤンと考えながら過ごす時間がこのうえなく好きだ。 そして、考えたあげく、いまはこうやって誰でもエッセイを書ける場所があるのがすごい。 むかし「mixi」というSNS黎明期のさきがけがあって、そこでもよく書いていたが、noteのようにコラムやエッセイを書きつづっている人は多くなかった。どちらかというとmixiは個人ブログ(日記)の集合体だった。 しかし、そのころからわたしは「エッセイのようなもの」を書いていたので、マイミクたち(フォロワーみたいな

やっぱり「つくえ」と「デスクトップ」が好きなんですよねえ。

けっきょく「パソコンに向かう」って好きなんだよなあ。 苦じゃないのよね。人によっては、8時間もパソコンに向かっていたら気が狂う!という方もいらっしゃるけど、わたしは苦じゃないんだよなあ。 そして願わくば、ドーンと腰を据えたようなデスクトップで、ディスプレイも大きくて、ちょうど目線のたかさにあって、そしてこれまた打ちやす~いキーボードであると、こわいものなし。 スマホやノートPCで完結できる人は、かっこいいと思う。わたしなんか、いまだにやっぱりデスクトップじゃないと、本気が

セピア色の失敗談。

あれは小学6年生のときだった。 ひそかに好きだった女子とあそぶ約束をすることができた。 物心ついてから、女子と2人だけであそぶのは初めてだった。 子供ながらに緊張した。 廃屋のちかくにある公園で待ちあわせをして、自転車で海へむかった。 途中、おなかが空いていたので、街のはずれにある商店でピーナッツサンドを買っていった。 海に到着し、砂浜のはじっこにすわりながら、ピーナッツサンドをもぐもぐとたべた。 当然、緊張で会話もすくない。 「たべる?」 と聞いたら、その子

緊急地震速報が鳴ったら、はじめにどう行動するか。いまのうちに決めておきましょう。

慣れるっていいことだ。 仕事に慣れる、人に慣れる、環境に慣れる。 でも、地震に慣れてはいけないね。 今日の18時ころ、「ギュワ、ギュワ、ギュワ、地震です」と、いっせいに会社で携帯電話で緊急地震速報が鳴りだした。 しかし、すぐに動かない人がほとんどだった。 会社には20人程度の社員が働いていた。 わたしは、すぐさま入り口のセキュリティを開け、いつでもみんなが避難できるようにドアを開放した。 しかしわたしも含め、みんなにこれ以上の行動はなかった。 グラグラ…とゆっくり

なんでまいにち「書く」のでしょーか。

「アイデンティティ」ということばがある。 超スーパーかんたんに意訳をすると「個性」。でも、個性は「パーソナリティ」ともいわれる。んじゃあ、どっちがただしいのかといえば、どっちもただしい。 そのちがいは、どうやら視点のちがいのようで、 パーソナリティ=他者から見た個性。 アイデンティティ=自分で定義している自分の個性。 らしい。 なので、もし他人から「なんであなたはまいにち書くの?」と問われた場合。 わたしは、書くことが好きで、書くことで自分を表現することが好きなので

書けない日ってあるよねえ。

毎日投稿をするものにとって、もし23時45分の時点でnoteがまっしろだったらどうおもうだろう。 見出し画像も決まっていない、書くテーマも決まっていない、そんな状況だったらいよいよ今日で毎日投稿もおわったな、とおもうだろう。 いままさにそれ。 23時からずっとパソコンのまえに座っているが、筆がすすまない。 まいにち書いていると、こんなときもある。 書きたいのに、書けない。 それは、ほんとうに書くことを好きであればあるほど、くるしい現実。 まあ、そんな日もあるよね