フランス革命のその後 | 繰り返す革命と人々の記憶
今回は、1789年に勃発したフランス革命のその後に焦点を当て、当時の歴史を追っていく。時はフランス革命が収束し、ブルボン家が再び王座に舞い戻ったルイ18世の治世から始めよう。オーティエという人物の回想録から、フランス革命後のフランスの情勢が詳しく窺える。以下、オーティエの回想録を元に当時の出来事を述べていく。
王室の髪結いオーティエが記した回想録からは、ブルボン家の人々がいかに横柄で薄情だったかが窺える。もちろん、回想録は筆者の主観が入り過ぎることと、オーティエ自身が盛癖の強い人物であったから、その内容の全てを鵜呑みにはできない。だが、そこに多くの真実があることもまた確かなことだろう。
パリに来たばかりのオーティエの全財産は、ポケットに入ったエキュ銀貨6枚、たった30リーヴルだった。その後、オーティエは王室の髪結いとして大成し、巨額の資金を得て貴族のような暮らしぶりを送った。彼は駆け出し時代に劇場の女優たちの髪結いをしていたことから、大成した後は劇場の支配人としても活動した。また、革命によってブルボン家が国外追放された際は、忠誠心から王室に私費を投じて貸し付けも行った。
だが、オーティエは革命派から王党派の一員として見られることをひどく恐れていた。革命派に目をつけられれば、断頭台に送りになる危険性が極めて高かったからだ。そうした不安に苛まれながらも、オーティエはかつて王室に仕えた義理から危険な役を何度も担った。主に王室からの伝言の仲介役を務めた。
ヴァレンヌ逃亡事件の際、ブイエ将軍に国王一家の脱出計画を伝えたのもオーティエだった。ブイエ将軍は、なぜ国王がこんなにも大事な計画を今になって伝えるのかと嘆いた。時間があまりに少なかったが、彼は極秘の護衛任務を買って出た。だが、ずさんな計画による国王一家の遅延が発端で全ては失敗に終わった。
王室が貸付金を返却くれないことから、オーティエの資産にも底が見え始めた。そうした経済事情から、彼はロシア帝国のパーヴェル1世に仕えることを決めた。革命の動乱から髪結いの仕事にブランクがあったことから不安も大きかったが、やはりその腕前は確かなものでロシア宮廷でも彼は再び成功を手にした。当時のロシア王室ではフランス語が話されていたため、言語の問題は生じなかった。大国フランスのフランス語は、当時のヨーロッパ世界の共通語だった。
革命が落ち着きを見せるとフランス政府から恩赦が出され、亡命していた人々の帰国が許された。オーティエもその流れに乗ってパリに帰還した。亡命していたルイ18世は王位を手にしたが、プロヴァンス伯時代に借りた金は返さないと言う。それはフランス国王ではなく、プロヴァンス伯が借りたものだからと。
これはルイ18世が気に入って使っていた冗談だった。だが、国王の冗談には誰も言い返すことができなかった。結局、貸した人はみな泣き寝入りすることになった。マリー=アントワネットの娘マリー=テレーズも薄情だった。かつてオーティエは命を掛けて暗躍し、マリー=アントワネットのこの娘を助けたというのに。
マリー=テレーズは、アンシャン・レジームの復活を望む思想の持ち主だった。ルイ18世はタンプル塔から釈放された兄の遺児である彼女を扶養し、人気を得ようとした。だが、彼女は成長すると時代にそぐわない旧体制の復活思想を持ち始め、ルイ18世と度々衝突した。
パリから脱出できなかった国王一家は、マリー=テレーズを除いて全員死んだ。人はすぐに恩義を忘れてしまうようだ。オーティエは、落胆した。既に何度も謁見していたが、最後の望みの綱として彼はしばらくしてからシャルル10世をもう一度頼った。ルイ16世の時代に約束された爵位の要求を申し出たのだ。
だが、シャルル10世はこれに頷かなかった。代わりにオーティエは国葬長官の役職を授かった。楽な仕事で、葬儀がない時でも報酬が約束されるとシャルル10世は恩着せがましく告げた。だが、オーティエが欲しかったのは爵位だった。王室への忠誠の結果は全く満足いくものでなく、彼は失意のまま他界した。
オーティエの他、様々な人物の回想録が当時の記録と記憶を今に蘇らせる貴重な情報源となる。例えば、マリー=アントワネットの主席侍女カンパン夫人の回想録は、現在に伝わるブルボン家とフランス革命の核のような情報源になっている。有名な逸話も、ここから引用されている。だが、彼女のような貴族の視点ではなく、田舎出の平民のオーティエが残した回想録は、また別の視点を私たちにを与えてくれる。
アンリ=シャルル・サンソンの回想録も興味深い。サンソンはフランス革命期の処刑人で、ルイ16世の死刑執行を担当した人物である。国王の処刑命令に思い悩んだ彼は、コンコルド広場の処刑場に王党派の人間が乱入し、刑を邪魔してくれることを期待していた。だが、そんな彼の淡い期待も虚しく、誰も助けには来なかった。国王の処刑を機に精神を激しく病んだ彼は、しばらくして引退し、その仕事を息子に託した。処刑人は忌み嫌われる仕事であり、なり手がいないことから基本的には世襲制だった。蔑まれる身分だが、その生活はかなり裕福な方であり、業務の関係上、遺骸を扱うので医療に通じて医者を副業で行う者もいた。
また、銀行家を営む子爵の家庭に生まれたマリー・ダグー伯爵夫人の回想録も、信頼度の高い貴重な情報源となる。彼女は、フランスの激動の時代を生きた。ナポレオン1世、ルイ18世、シャルル10世、ルイ=フィリップ1世、ナポレオン3世の5人の君主、その間に挟まる共和体制の時代を駆け抜けた。上流階級の女性の目線で語られる記録は、19世紀フランスを知る一級資料である。
以下、フランス革命の後にフランスの君主となった人物を個々に見ていこう。当時の君主たちのイメージが掴みやすいよう、彼らを描いた当時の貨幣と共に紹介していく。
フランス王国ボルドー造幣局で、1823年に発行された5フラン銀貨。復古王政タイプと呼ばれるもので、彫刻師はAuguste-François Michaut。ルイ18世の肖像とブルボン家紋章が描かれている。ルイ18世は、フランス革命で1793年に処刑されたルイ16世の弟である。
ルイ18世(当時はプロヴァンス伯)はフランス革命が勃発するとすぐに国外逃亡し、処刑を何とか免れた。彼は亡命貴族の拠点であった現ドイツのコブレンツを目指した。ナポレオン1世が戦争での敗北によって没落すると、レジティミスト(正統王朝派)の支持もあり、ブルボン家の筆頭である彼が王位を得た。
ルイ18世は国民や家臣を自身の所有物と考えている典型的な古い考えの持ち主の王で、評判はあまりよくなかった。復古王政を果たすまでに忠心な貴族たちから借金をしていたものの、彼はそれを平気で踏み倒し、泣き寝入りした者たちもいた。だが、処刑された兄とは異なり、寿命による穏やかな死を迎えた。
ルイ18世の人柄については、王族御用達の髪結師オーティエが回想録の中で綴っている。ルイ18世の弟シャルル10世も同様で、フランス王家がどれだけ恩を顧みない心ない人かが記されている。もちろん、オーティエは誇張し過ぎる部分があるので鵜呑みは危険だが、その中に真実が含まれることも確かだろう。
プロヴァンス伯の借金をルイ18世は返さない、という冗談をルイ18世は頻繁に口にしたという。プロヴァンス伯はルイ18世の即位前の称号で、フランスの王族には伝統的にこうした所有地に基づく爵位が与えられた。借金はプロヴァンス伯のもので、国王ルイ18世には関係ないという冗談だが、全く笑えない。
冗談と言えど国王の発言となれば、誰もそれに言い返すことはできなかった。ルイ18世が抱えていた膨大な借金を肩代わりし泣き寝入りする貴族たちが大勢いた。彼らは王への忠誠心から身銭を切ったにもかかわらず、踏み倒された挙句に少しの見返りもなし。処刑されずに天寿を全うできたのが奇跡に思える。
ルイ16世も愚帝として酷評されているが、後の王たちに比べればまだマシな方だった。その後に続くルイ18世、シャルル10世、ルイ=フィリップ1世、誰一人とっても自分の利益追求ばかりで民衆に寄り添う態度ではなかった。王を信じて着いてきた民衆の裏切られた気持ち、その絶望と喪失感は甚だしいものだっただろう。
とはいえ、ルイ18世は誰よりも自分の立場が分かっている賢い王ではあった。自分は反ナポレオンの同盟国の御輿に乗せられた飾りに過ぎないことをきちんと自覚していた。彼はフランス革命とナポレオンが築いた新しい形のフランスを維持しながら、ブルボン家を繁栄をさせる方法を考えられる時代の流れが読める王だった。だが、あくまでブルボン家の繁栄であって、民衆の救済ではない。
フランス王家のそうした行動の背景には王位は神から授かったもので、民衆は神の代理人である王の所有物という考えが根底にあったからだろう。王家からすれば、民衆がどうして自分たちに憤慨しているのか本当の意味では理解できていなかったのかもしれない。両者の思いは平行線で、革命は繰り返された。
フランス王国パリ造幣局で1829年に発行された5フラン銀貨。ブルボン家最後の君主シャルル10世の肖像を描いている。シャルル10世は、ルイ18世の崩御で王位を継承した。三兄弟の中では最も容姿端麗で女性をこよなく愛した。兄嫁マリー=アントワネットとも豪遊し、周囲から顰蹙を買う。当の王妃はシャルル10世が遊び仲間の一人程度の認識で、彼が病に伏しても見舞いさえしなかった。このような王妃の一種の薄情さは、彼女の書簡からも窺える。
フランス革命やナポレオンとの対立など、シャルル10世の人生は波乱万丈に尽きた。最期は絶対王政の復活を論じて民衆指示を失い、1830年には七月革命が勃発。自身の退位と引き換えに孫のアンリ=ダルトワを王位に就けようと試みたが、オルレアン家のルイ・フィリップに王位は奪取された。
フランスで1831年に発行されたアンリ5世の5フラン銀貨。シャルル10世の退位後、超王党派はその孫アンリ=ダルトワを擁立しアンリ5世と呼んだ。本貨は超王党派のメンバーによって王位請求及びアンリ5世の宣伝を目的に造られた幻の試鋳貨である。だが王位はオルレアン家のルイ=フィリップに簒奪された。
シャルル10世はアンシャン・レジーム復活運動等の不人気から退位に追い込まれ、長男アングレーム公に王位を譲ろうとした。だが、長男も不人気故に次男ベリー公の息子アンリ=ダルトワに王位を継承させることを決めた。シャルル10世はオルレアン家の当主ルイ=フィリップにその宣言書を読むよう命じた。
だが、ルイ=フィリップは宣言書の王位継承者の項を敢えて読まないという反抗に出た。そして、議会はまさかのルイ=フィリップを王位継承者として指名するという大事件が起こった。シャルル10世らブルボン家一族は立場が一転し亡命を余儀なくされ、王位は分家のオルレアン家に簒奪されることとなった。
太陽王ルイ14世の弟オルレアン公フィリップを祖とするオルレアン家は、フランス革命を通じて常に王位の簒奪を狙ってきた。ルイ=フィリップの父フィリップ・エガリテは、ルイ16世が国民公会の裁判にかけられた際、死刑に一票を投じている。そして、この一票差でルイ16世は断頭台の露と消えたのだった。
長年に亘って願い続けてきたオルレアン家の野望、そして、本家のブルボン家に対する復讐がルイ=フィリップの時代に遂に叶ったのである。ルイ=フィリップはルイ=フィリップ1世として即位し、フランス国民に受け入れられた。だが、皮肉なことに彼も革命によって最終的には王位を追われる身となった。
当時のフランスでは共和政主義者と対立する君主制支持者の中でも派閥が存在し、レジティミスト、オルレアニスト、ボナパルティストがいた。レジティミストは正統王朝主義者、すなわちブルボン家支持者を指す。オルレアニストはオルレアン家支持者、ボナパルティストはボナパルト家支持者を指す。
アンリ・ダルトワも、そうした派閥闘争の中でアンリ5世として担ぎ上げられた少年だった。ルイ16世の長男ルイ=ジョゼフは病で夭折、次男ルイ=シャルルは幽閉中の虐待による衰弱死、ルイ18世には子どもがおらず、末子シャルル10世の長男アングレーム公と次男ベリー公にブルボン家の命運は託された。
だがアングレーム公には子どもがおらず、ベリー公は過激なボナパルトティストのルヴェルにオペラ座前で暗殺された。そうした背景からブルボン家の血を引き継ぐ唯一の直系男児としてレジティミストはアンリ・ダルトワを特別視した。しかし結局、彼は王位を簒奪され、シャンボール伯の地位にとどまった。
少年期に王位を簒奪されたアンリ=ダルトワだが、もう一度だけ王位を得るチャンスが巡って来た。ナポレオン3世が普仏戦争の敗北で失脚した時である。だがアンリ=ダルトワは即位にあたり、三色旗を受け入れることを条件とされた。三色旗はフランス革命の象徴であり、復古王政とは相反するものだった。
これは彼にとって受け入れ難いことだった。アンリ=ダルトワは断固受け入れない意志を貫き、その頑固さによって支持者からも見放され、絶好の機会を逃した。アンリ=ダルトワには子どもがおらず、こうしてフランス・ブルボン家は終焉した。結果スペイン・ブルボン家を継承者とする取り決めが成された。
フランス王国パリ造幣局で、1834年に発行された5フラン銀貨。彫刻師はJoseph-François Domard。MS特有の光沢を放ったフィールドが美しい。ルイ=フィリップ1世の肖像と植物装飾が描かれている。ルイ=フィリップは革命で没したエガリテ(平等公)の息子で、ブルボン家の分家オルレアン家の出身だった。
レジティミスト(正統王朝派)が推挙したアンリ5世を退け、王位を簒奪したルイ=フィリップ。王侯貴族と庶民を繋ぐ架け橋として期待されたが、その実態はブルジョワを厚遇するもので、庶民の厳しい生活の改善は果たされなかった。そんな不満が募る中、パン価格の高騰が引き金となり、革命が勃発した。
ルイ=フィリップは、アンリ5世が王位を継ぐところを議会と結託し簒奪した。前王シャルル10世は、アンリ5世の王位継承宣言の台本を式典で朗読する役としてルイ=フィリップを推薦したが、当日の式典でルイ=フィリップはこれを無視。議会がルイ=フィリップを新たな王として迎え入れる大事件が起きた。
こうしてルイ=フィリップは憎きブルボン家を追いやり、王位を手にした。「ROI DE FRANCE(フランスの王)」でなく、「ROI DES FRANÇAIS(フランス人民の王)」として登場したこの新しい国王に民衆は期待を抱いた。だが、蓋を開けてみれば、ブルジョワと癒着して金儲けばかりを考えている人物だった。
当然、貧しい国民の生活は何ひとつ変わらなかった。そうした不満から1848年に革命が勃発。ルイ=フィリップは追放され、イギリスへの亡命を余儀なくされた。この1848年革命の詳細は、当時のフランスの女性ジャーナリスト、マリー・ダグー伯爵夫人が回想録の中で臨場感溢れるタッチで伝えてくれている。
ルイ=フィリップ1世の父エガリテは、大地主の富豪だった。彼はブルボン家による統治を疎ましく思っており、民衆の王族へ反感を好機と捉えた。そこで彼は人々が政治議論を交わす場所として自身の土地を開放した。これがいわゆるカフェの始まりである。現在のカフェ文化はフランス革命の中で誕生した。
エガリテはフランスの5%に相当する土地を有していた。ブルボン家の親戚筋でありながら、ルイ16世の処刑に票を投じた。自前の土地を開放しカフェを開業して革命を斡旋したが、皮肉なことにブルボン朝を倒してオルレアン家による自身の王位を確立しようとしたとの容疑を掛けられ、幽閉の後に処刑された。
ナポレオンの遺骸がセント=ヘレナ島からパリに返還されたことを記念し、1840年に発行された青銅メダル。これはルイ=フィリップ1世が自身の支持率向上のために企てた計画だった。ナポレオンの棺の周りには生前の彼が好きだった柳の木が植えられた。墓所は柵で囲まれており、警備員と小屋が見られる。
ルイ=フィリップはフランスの王ではなく、フランス国民の王として迎えられ、人々は彼に期待感を抱いた。だが、その統治はブルジョワと癒着して私腹を肥やすもので、庶民の貧しい生活は何ら改善しなかった。結果、支持率の低下が進み、これを危惧した彼は英雄ナポレオンにあやかって人気取りを企てた。
ルイ=フィリップのこの行動に密かに憤慨していたのがルイ=ナポレオン、後のナポレオン3世だった。甥にあたる自分を差し置き、縁もゆかりもないオルレアン家の人間が何故にナポレオンを利用し、人気取りをしようとしているのか。彼は込み上げる怒りに堪えながら、大逆転の方法を必死に模索していた。
ルイ=フィリップの支持率低下は避けられず、民衆の怒りはついに頂点に達した。1848年革命の勃発である。追い詰められたルイ=フィリップは亡命を余儀なくされた。民衆は王を追放し、再び共和国を手にした。だが、まだ今ではない。と、ルイ=ナポレオンは機会を窺っていた。自身が皇帝に君臨する日を。
フランス帝国ストラスブール造幣局で発行されたナポレオン3世の有冠肖像を描いた5フラン銀貨。貧困の根絶を掲げ、パリの都市開発に着手したナポレオン3世。彼によって現在のパリの基礎が造り上げられた。普仏戦争で敗北し、捕虜となった愚帝という従来の評価は見直されてきている。ナポレオン1世の影に隠れたもう一人の英雄である。
ナポレオン3世は母の離婚の都合でスイスで育てられたことから、フランス人だが母国語がドイツ語で、フランス語が苦手だった。そのため、周囲からの渾名は「スイス人の馬鹿」。全くひどい言われようである。
だが、彼は幼少からナポレオンの偉業を継ぐ強い意志を持っており、青年時代に二度のクーデターを起こした。一度目のクーデタは若気の至りとして大目に見られたが、二度目のクーデタでは死傷者が出たこともあり、終身刑を言い渡された。アム監獄に収容された彼の人生は、ここで終わったかと思われた。
だが、熱狂的なボナパルティストである同志たちの救援を得て、アム監獄からの脱獄に成功した。面会に訪れた仲間から作業服を調達し、牢獄のメンテナンスを行う作業員に扮装し、刑務所を突破したのである。その後、機会を窺って大統領選挙に出馬し、彼は圧倒的な票を得て、見事就任を果たした。
普通は逃げ回って隠居生活を送るだろうが、さすがは英雄ナポレオンの甥である。全てが大スケールで、ぶっ飛んでいるとしか言いようがない。大統領に就任後、彼は皇帝への即位を宣言し、幼少から抱いていた長年の夢をついに叶えた。まるで映画のような波瀾万丈の人生、無茶苦茶なエピソードである。
19世紀フランスの女性ジャーナリスト、ダニエル・ステルンによれば、ナポレオン3世の愛読書は古代ローマの歴史家タキトゥスの書だったという。考古学に強い関心を寄せていた皇帝で、発掘調査も指揮していた。特に貨幣学の上で功績を残し、ケルトコインやカエサルの時代のコインの研究発展に寄与した。
ダニエル・ステルンという名はジャーナリストとしてのペンネームで、その正体はマリー・ダグー伯爵夫人である。彼女はフランス革命時に祖国を離れた亡命貴族の娘で、フランクフルトで生まれた。ドイツはコブレンツを中心に亡命貴族の拠点となった。彼女は修道院生活を送った後、ダグー伯爵と結婚した。
以上、フランス革命のその後について紹介した。1789年のフランス革命後も革命は幾度も繰り返され、目まぐるしいスピードで君主が乱立した。フランスは短い間に王政、共和政、帝政と歩み、最後は再び君主を廃して共和政の道を選び、現在に至る。これほどまでに波瀾万丈でスリリングな歴史を持つ国は、そう多くはないだろう。それがフランスの魅力であって、彼らの記録と記憶には強く惹き込まれてやまない。
Shelk🦋