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出産時の「想い」はどこへいったのか

ふらっと寄った本屋。

気になる本をじっくり選んで、レジに向かった。日曜日ということもあり、子ども連れが目立つ。レジの前まで行くと、隣のレジに親子の姿が。

いつも通りに会計を済まそうとしたとき、となりから「パシんっ!」という音が聞こえてきた。突然の乾いた音に驚いた。だが、その音が人の頭を叩いたことで出されたものであることを理解するのに、そう時間はかからなかった。

隣のレジにいた女の子は、小学校3年生くらいだろうか。

レジの奥をのぞうこうとしていたのか何なのか、いずれにせよ母親の逆鱗げきりんに触れたらしかった。母親は娘の頭を一発叩くなり、ガミガミと怒っていた。娘の方は母親に目をやることなく、じっと目の前を真っ直ぐに見る。髪が長かったので表情まではわからなかった。だが、悲しげな、そして何とも言えない雰囲気が彼女からは感じられた。

***

その女の子が小学校3年生だとすれば、現在は9歳くらいである。

9年前、その子が生まれたとき、お母さんはどんな「想い」を抱いただろうか。

泣いただろうか。
笑っただろうか。
感動のあまり何も言葉が出てこなかっただろうか。

私はまだ自分の子どもを授かったことはないが、子どもが産まれる瞬間は誰しもが感動の気持ちを持つことを知っている。それもそのはずで、自分の血が半分流れる人間が生まれてくるのである。生命の神秘の瞬間である。感動しないはずがないのだ。「子宝」とは言ったもので、宝と表されるほどに大切なものが、妊娠を経て生まれてくる。

どの出産においても、母親も子どもも命懸けなはずだ。

母親のも頑張ったし、子どもも頑張った。


そんなかけがえのない「子ども」という存在を、親はどうして叩くことができようか。


世界には一定数、そうやって子どもに暴力を振るうことができる人種がいるらしい。

***

子どもへの身体的・精神的苦痛を浴びせることにより、子どもの脳が変容することが最近の研究でわかっている。

体罰や言葉の暴力の程度によっては、後天的に発達障害のような症状が見られるようだ。「子ども=子ども」なのであって、彼らはまだ身体的・精神的にも発達の途上にある。脳も身体も完全じゃないからこそ、影響を受けやすい。故に、私たち大人は子どもへの接し方や叱り方について、改めて考えなければならない。

このような研究結果を見たあとでも、世の一部の親たちはそれでも子どもに対して心ない言葉や暴力を浴びせ続けるのだろうか。


再度、あの本屋で並んだ親子に目をやろう。

商業施設の本屋さんという公共の場であのように我が子を叩くことができるお母さんというのは、常習的に子どもに対して手を出しているだろう。手だけではなく、言葉の方も加減がないだろう。自分の思い通りにならなければ、手をあげる。罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせる。家の中ではもっとひどいのかもしれない。

あの女の子が小学校3年生だと仮定して、一体いつからそのような状態におかれているのだろうか。生まれた瞬間は、あのお母さんも涙しながらその誕生に感動したはずである。どこかのタイミングで、何かの原因があって、お母さんも変わった。


どうしてだろうか。


と、考えずにはいられない。

***

この手の問題がシンプルではないことは重々承知の上だ。

経済から人間関係から社会から、そんなさまざまな要素が絡みに絡み合って起きてしまう問題である。確かに暴力を振るってしまう側が悪いのだが、そんな親たちもなりたくてそのような親になっているわけではないかもしれない。その点も、忘れてはならない視点のひとつである。

子どもとの対話。

それは教育現場において求められる最重要課題のひとつだ。
だがそれと並行して、「親との対話」というのも、忘れてはならない要素である。親が誰かに子育ての相談ひとつできるだけでも、何か現状を打破できるかもしれない。それだけで、将来の子どもに対する暴力・暴言の可能性を抑えられるかもしれない。

そんなことを感じさせられた、日曜の午後の出来事であった。

2023.02.27
ShareKnowledge(けい)

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