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歌い踊り揺れる/宮藤官九郎『不適切にもほどがある!』【ドラマの感想】

宮藤官九郎脚本によるTBS金曜22時ドラマ最新作『不適切にもほどがある!』が完結した。”好きなものを好きと言う“が基本姿勢でありながらもここ数年は総合点を重視した嗜好になっていたが、本作に関しては部分点が突き抜けすぎて自分にとってかなり好きなドラマになってしまった。

確かに雑な描写は多々あるし、正直サカエ(吉田羊)は最後までどう捉えれば良いか難しかった。しかしそれだけで見限ることは私には出来ない。今の私に必要な"揺さぶり"をくれる作品に思えたからだ。ゆえにこの記事では個人的な話をベースにしながら、この作品を掘り下げてみたい。



カウンセラーは歌い踊る

「不適切〜」の主人公である小川先生(阿部サダヲ)は彼自身の価値観に基づいた言葉を、問題に直面した人々に投げかけて揺さぶりを掛ける。そして、その姿を買われてテレビ局でカウンセラーとして働くことになる。価値観や考えの相違にまつわる問題や社会のシステム上の問題に直面しては、その度に驚きながらも双方の意見に橋を渡そうと奮闘する姿が描かれていた。

劇中、ミュージカルとしても描かれることの多かったこれらのシーン。時に対話や理解が果たされ、時に小川先生の考え方にも変化が及び、時にその不可能さに歌も踊りも不発に終わることもあった。そう、異なる背景を持つ他者の集まりにおいて話が全て綺麗にまとまることなどない。だからこそミュージカルという超現実的な演出が、その困難さの象徴として機能していた。


私は精神科医として患者とその関係者(家族や職場の人)の双方と話すことが多い。関係者の振る舞いが患者に影響を与えている場合や、患者の不安定さが関係者を巻き込んでいる場合など様々なケースがあり、こうした状況の調整においては私もカウンセラー的な役割を担うことになる。その意味で、小川先生にはとてもシンパシーを覚えたし、勇気づけられもした。

診療場面では時にギョッとする価値観を口にする人と出会う。そんな人に対しては時に強く指摘する必要もあるし実践もしてはいるが、断罪するだけで事態が良い方向に転ぶわけではないと身をもって知っている。その人を取り巻く因子に思いを馳せ、その価値観に至った背景や理由を探ることで初めて言えることもあるし、その先で真の意味で心に橋が渡されることもあるのだ。


重要なのはどう伝えるかだ。そう考えれば例えば3話の「娘だと思えばいい」も誰かには刺さる言葉である。時代にそぐわぬ妥協案だとしても、この人にはこういう伝え方であれば分かってもらえるかもと考える重要性には代えがたい。小川先生のように直感的な言葉で歌って踊ることができない私はその伝え方について膨大な選択肢を考え、面談前には祈るように言葉を磨く。

心を無意識で縛るものから開放するために時に相手にとっては不適切で突飛な言葉を伝える私もまた、客観的には歌って踊る超越的な姿に見えているかもしれない。そんな超越的な姿勢が時に対話の壁を砕く。そう強く信じて取り組んでこそ、時に壊せぬ壁の存在も実感する。8、9話にあった"不可能"にまつわる感情の描写は実際に頭を抱えた出来事を思い出し、反芻もした。


ネガティブ・ケイパビリティという言葉がある。物事における不確実さに身を置く能力のことで、素早く結論を出したり、決着をつけたりする姿勢に拮抗する概念である。カウンセラーとしての最重要な"自らを揺さぶった状態にする"ことを言い当てた概念だと個人的には思う。ドラマを通じてその難しさを改めて実感した。両義的で居ることを更に深く考えたいと思った。



人らしさの可能性

本作では小川先生のみならず、様々な人物がタイムトラベルを行い、様々なことに気付いていく。中でも5話で小川先生が自分と娘・純子(河合優実)が1995年の阪神大震災で亡くなることを知る展開は本作の方向性を大きく変える出来事であった。本来、小川先生や純子は令和の世界を見ることはできなかった。しかし、タイムトラベルが運命的にその不可能を可能にしたのだ。

私の父は阪神淡路大震災の日に出張で神戸におり、被災する可能性があった。もしかすると父は1歳の時からおらず、今とは違う私がここにいたかもしれない。また本作の放送開始日に陣痛が始まって生まれた我が子は実は生死が危ぶまれていたこと、その1週間後には妻が緊急入院したことなど、人生がどうなるか分からない運命の分岐を意識し続ける日々が直近に様々にあった。

だからこそ、見るはずのなかった世界を見ることになるという本作の作劇は切迫したものとして届いた。理不尽な死の存在を前に、それでも未来を信じようとすること。時空を超えて家族を想おうとすること。回収なんかしようとせず、取っ散らかりながら今を生きろと伝えること。泥臭いメッセージが物語を駆動させるドラマ後半には人らしく生きる人々の姿が光った。


最終話では小川先生が昭和に戻り、決定的に変わった自分の価値観に気づく。違う世界に触れた結果である。しかし同時に変わりない感情の存在にも気づく。時空を超えたからこそ変わったこと、時空を超えたぐらいでは変わらないこと。その2つがどちらもあり続ける。異なる価値観に触れた上で変/不変のどちらもあることは人らしさの可能性と言えるのではないだろうか。

劇中の不適切発言を笑うことも、現実の問題として批判することも、令和は窮屈と言うことも、令和の価値観が正解と言うこともその人らしさだ。それが不意に揺さぶられ、変わるべきものを変えられたり、なかなか変われなかったり、けど変わろうとはしてみたり、その上でここは変えられないと思ったりする。この、人らしい揺らぎを思うことが寛容の意味する所では?と私は考えた。


本作には、明らかな誤りや笑いにするには迂闊すぎるものと、登場人物があえてそう振る舞うことで我々に思考の時間を与えるもの、2つの不適切表現があった。前者は当然見直されるべきだが、後者の持つ"揺さぶり"は今後も私の心に残り続けるだろう。7話でナオキ(岡田将生)が話していたように、そのドラマの一部だけで好きなドラマとして刻まれることもあると実感した。

そんな個人的な実感もあり、私は本作を個人的な話と共に語りたいと思い、部分点重視でこの文章を書いた。ネガティブ・ケイパビリティを志すならばもう少し"否"の話も書くべきだろうが、それをするためには宮藤官九郎が今後何を書くのかを観たいと思った。"否"の話は2054年になって始まるかもしれない。それまで自らを揺さぶり続け、どんな可能性も思い浮かべて居ようと思う。


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