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「わたし達はおとな」は本当にわたし"達"の物語なのか

6/10から公開された映画「わたし達はおとな」。強烈な映画体験だったと賞賛したい一方、爽快な話ではないゆえに暗澹たる気持ちにもなった。勿論、グッときたり泣けたり伏線を見事に回収したりエモくなれたりする映画だけが"良い"映画ではなく、劇場に縛られた状況で圧倒的に嫌な気持ちを浴びせてくる映画も紛れもなく"良い"映画である、という前提に立った上でこの作品を観ながら生まれた諸感情を整理がてら記したい(ネタバレありです)。


概要としては「菊とギロチン」「鈴木家の嘘」の木竜麻生、「佐々木、イン、マイマイン」「his」の藤原季節が主演。脚本と監督を務めたのは劇団た組の主宰であり、ドラマ「きれいのくに」「俺のスカート、どこいった?」の脚本などで知られる加藤拓也。彼にとっては本作が初の長編映画監督作だ。木竜演じる優実と藤原演じる直哉による恋愛模様が物語の中心で、優実の妊娠をきっかけにしてその関係性や生活が変わっていく様を描いた作品だ。


恋愛を通してヒリヒリしたやりとりが交わされる、そんな映画は近年かなり多い。例を挙げれば「寝ても覚めても」「愛がなんだ」「本気のしるし」。これらすべてがメ~テレ制作であり、「わたし達はおとな」も同様。その系譜に並び立つ、生々しさで言えば最高峰の1作である。隠し撮りのようなアングル、(心理的に)ひどくグロテスクな編集など工夫に満ちた演出によって不快な感情を炙り出していく。その圧迫感は他で味わえない屈指の仕上がり。

愚かな若さの衝突。寂しさを埋めることの代償。という感想には至らずどうしても男側の持つ加害性が胸に刺さる。生物学的に女性に負担がかかる妊娠という状況以外にも、旧来的な価値観と男とはこうあるべきで、こうありたいという意識に縛られた登場人物の態度に表出している(桜田通演じる元彼の振る舞いも笑い事ではないだろう)。加藤拓也が得意とする理詰め台詞の節々から直哉の無邪気な支配性が滲み、優実の保護され続けた無垢さを蝕んでいた。

例えば緊急避妊薬が薬局で買える世界であれば。例えば優実の価値観が恋愛に依りすぎなければ。例えば優実の交友関係が恋愛大好きな人たちでなければ。この物語のifを想像する時に優実のほうにしか変化を求められないのが苦しい。直哉は、ああいう奴だから仕方ない、として逃げてきた人物であり、そして我々がいるのはそうやって逃げてこられる世界なのだということを改めて知っておかなくてはならない。ひどく絶望的で悔しいことだが。


加藤拓也はこの映画を"生活の映画"と称していた。これは額面通り日常にありふれた物語だと取れるが、これ程までに胸糞悪いことが"生活"なのだという皮肉と諦観のように思えてならない。おとなになる必要があったのがわたし=優実だけであり、直哉を合わせたわたし“達"の物語では決してなかった。直哉がおとなになれないことを自ら慰めながら萎れていくラストのやりとりは滑稽ですらあった。力なく笑うしかない“男性性”の最期だった。

「わたし達はおとな」は恋愛を通し、社会に横たわる不可視な絶望と看過されてきた暴力を描く映画だと思う。切なくてエモくて思い通りにならなくて寂しくて、、、そんな物語として消費されてきた"刹那の恋愛感情"を後戻りできない悲劇として精緻に作り込んである。心と体を奪う/奪われるの関係性は最初からどちらが優位であるかはとっくに決まっているということ。恋愛映画の背景ごとぶち壊して、全部更地にしてしまった。そういう虚無感。


この作品のポスターを観て何を感じるだろうか。鑑賞前は恋人同士の、その2人にしか分からないようなノリだったり戯れの一場面として見えていたし、その瞬間を切り取るなんてとてもセンスのある恋愛映画なはず!思っていた。しかし鑑賞後はやはり印象が違う。この構図までもが直哉の手中にある優実の自我のように見えてきてしまう。普遍的なよくある物語、で片づけていい映画なわけない。若者よ、どうか地に足のついた交流を愛して欲しいと願う。


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