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傷と時間、そして祈り/岩井俊二「キリエのうた」

岩井俊二がアイナ・ジ・エンドを主演に迎えて作り上げた映画「キリエのうた」。運命に翻弄された男女4人の物語と銘打たれた3時間の大長編だが、その核を成すのは真っ直ぐな"祈り"である。トラウマと時間にまつわる構成、そして虚構で現実を語ることの意味についてこの記事では書いていきたい。

なおこの映画には震災のシーン、また性加害のシーンがあるため鑑賞には注意されたい。こうした描写をトラウマにまつわる映画で描く必要性については、この作品を必要としている人にこそ避けられる可能性があることも含めて考え続けなければならないと思う。本作については不安や恐怖と並走することが必要と思える映画ではあったということはここに記しておきたい。


トラウマと時間

主人公の路花/キリエ(アイナ・ジ・エンド)は東日本大震災の震災遺児である。彼女は被災をきっかけに話すことが出来なくなった。しかし歌うことはできた。その歌に惹かれた人々が集まり寄り添いながら彼女の物語は進む。

路花/キリエは被災した瞬間を詳細に思い出すことができず、記憶は断片的なものになっている。また失声に至っていることからもPTSD(心的外傷後ストレス障害)らしき症状が出ていると言える。PTSDは大災害や事故・事件など生命に脅威を与える強い体験(心的外傷=トラウマ)の後でフラッシュバックや対象の出来事の回避、過緊張や感覚の麻痺などが起こる精神疾患である。こうした症状は当事者を常に追い詰め、安全な居場所を見つけられなくする。

精神分析家のキャロライン・ガーランドは、癒えていないトラウマは「時間」の入らない心の『3次元空間』に存在していると述べる。ゆえに、ふとした瞬間に体験そのものの恐怖や不安が呼び起こされフラッシュバックに至るのだ。そしてこのトラウマが癒えていく過程においては"時間経過"が重要となる。忘れ去ろうとしたり、心の外に追い出そうとするのではない。トラウマに時間を与え、過去のものとして記憶することが重要なのだと言う。

「キリエのうた」は複数の時間軸が唐突に切り替わるような編集が施されており、まるで時間を失った世界のように見える。これは心的外傷を描く映画として大きな意味を持つ。いつ何が起きるか分からない不安と物語が併走していくのだ。路花/キリエは語ることのできない不安や痛みを歌に託す。そして歌声とともにトラウマを過去として刻み込み、時間軸を束ねていく。そして彼女が最後に辿り着く場所で「今」を生きることを迷いなく選んでいた。


「キリエのうた」という題の物語としては間違いなくトラウマの回復を描いているように思う。しかし、映画全体としてハッピーエンドという実感は湧きづらい。路花/キリエに関わっていく夏彦(松村北斗)が抱えた痛みは「守る」という宣言に標榜される"勇敢な男性性"が脆く苦しいものかを実感させるし、イッコ(広瀬すず)の去就は思うように未来を生きられず忌み嫌っていた"女性らしさ"を武器にして生きることを選ぶ現実のままならさを伝える。

ある面は治癒だが、ある面は悲劇。虚構の世界で“傷を癒す”ことを描くのであれば映画的なカタルシスを意識しても妙ではないはずだが「キリエのうた」はそれを拒む。それは本作が無力感を前提に作られた作品だからだ。



祈りが突き抜ける

災害という脅威を前にした時、はっきりと言葉や表現は無力である。その形容としてどれほど恐ろしい表現を用いようとも、災害の瞬間が持つ恐ろしさには叶わない。それは大きなスクリーンで立体的な音響効果を携えた映画表現においても然りである。それでもなお、なぜこの映画が生まれたのか。

それは我々が祈ってしまう存在だからとしか言いようがない。「キリエのうた」は祈りを祈りとして描く映画なのだ。祈ること、それ自体が現実に即効性があるわけではない。何も起こさないことだって多いだろう。しかしどうしてか我々は大きな脅威に対して祈ってしまう。映画という虚構の中で描かれる災害は本当の恐怖を表現しきってはいないだろうが、それを鑑賞している我々が抱く祈りは紛れもなく本当だ。「キリエのうた」が露悪的とも言えるほどの無力感を描いてまで引き出したかったのは我々の祈りではないか。

映画の中では路花/キリエの歌声が祈りとして通奏している。もはや現実世界なパブリックな存在になりつつあるアイナ・ジ・エンドに、虚構世界の路花/キリエの人生を投影することで、その歌声が虚構から現実へと突き抜けていく。そして我々が"現実らしき"虚構を目撃しながら祈っていた感情も、この目の前にある"現実"へと接合していく。アイナがキリエの歌をメディアで歌う度に、そして心震わされる度に、その祈りが現実へと滲出していくような心地になる。トラウマは記憶して過去にできる。しかしその傷を想う祈りは絶やしてはならない。その意志がアイナ/キリエの歌にあるように思うのだ。


この映画に対して感動ポルノであるとか、震災をだしにした映画だと言う人もいるだろう。確かに言ってしまえばそうなのかもしれない。しかし、そうした言葉で形容されるものだとしても、祈りではあることに違いはない。虚構と現実が重なり合い、《いまここを歩く》ための祈りはここにあるのだ。

世界はどこにもないよ
だけど いまここを歩くんだ
希望とか見当たらない
だけど あなたがここにいるから

何度でも 何度だっていく
全てが重なっていくために

Kyrie(アイナ・ジ・エンド)「キリエ・憐れみの讃歌」より






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