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そもそも博報堂を辞める必要はあったんですか?辞めなくても社会派クリエイターはできたのでは?#1

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はじめまして。(株)社会の広告社の経理担当の妻です。私は結婚するまではテレビディレクターをしていました。某局のニュース・経済などの番組を制作していたのです。その後、夫(山田英治)と結婚し、子供ができてからは十数年、専業主婦をしていたのですが、子供たちが小学校に上がって高学年になる頃から、テレビの仕事に復帰しました。そんな中で、昨年突然、夫が長年勤めた広告代理店を辞めて、独立するということで、私もそれを機にテレビの仕事をやめ、夫とともに広告会社を経営することになりました。しかし私は広告クリエイターの仕事のことはよく知りません。しかも夫は「社会テーマ」を専門にしてやっている。謎だらけの夫の仕事のことをパートナーである以上、知っておきゃなきゃ! ということで、このような企画を始めることにしました。夫の仕事は、けっこう特殊な仕事だと思うので、noteを読んでいるみなさまにとって興味深い話も聞けるのではないかと思っています。それでは第一回目のインタビューを始めたいと思います。

妻「それではインタビューを始めたいと思います。なんだか照れますね。」

夫「照れますね」

妻「でもお父さん(我が家でそう夫のことをよんでいる)の仕事のことって全然知らないし、家では具体的な話はあまりしてなかったので、これを機に過去に振り返りつつ、根掘り葉掘り聞いてみたいと思います。何とぞ、よろしくお願いします。」

夫「よろしくお願いします」

妻「そもそもなぜ、大手広告代理店の博報堂を退社して、社会の広告社を立ち上げたのですか。だいたいは把握しているのですが、一応、聞きますね」

夫「はい。僕は25年間にもわたり、博報堂でクリエイターをしていました。コピーライターとして入社して、ビールとかクルマとか不動産会社とか、ありとあらゆる大手企業の広告をつくってきました。この前、安室奈美恵さんが引退されましたが、彼女が出始めの頃、僕も新人コピーライターで一緒に仕事をして、そして僕が会社を辞めた昨年、彼女も引退となって、それは平成の終わりとほぼ一緒だったので、感慨深いものがありました。君と出会った頃は、たぶんファーストフードとかの担当だった頃かなぁ。会いたいタレントさんを提案し、その方でCMをつくる。一見華やかだけど、企画を通すためにけっこうハードな日々でした」

妻「私は当時、テレビの経済番組の仕事をしていたので、近いようでいて、遠い世界だなぁと思ってました」

夫「当時、僕は広告の仕事と並行してインディーズ映画を撮ったりして、忙しい毎日でした。あ、映画の撮影の最終日に打ち上げをして、気づいたら24時間くらい飲んでいたということもあったね。そんな感じでまぁ、広告会社のクリエイターとして仕事してきました。映画の方も並行してやっていて、NHKの「中学生日記」の脚本を書かせてもらったり、映画会社といっしょに原作ものの企画をすすめたり、クリエイターとしてはいろいろやらせてもらっていました。もちろんここでは書けないような強烈な挫折体験とかもありましたが・・・。

そんな時に東日本大震災が起きました。ちょうど長塚京三さんと市川実日子さん出演のショートドラマのロケハンをしている時で、世田谷の路上にいたのですが、アスファルトが波打って、コンクリートの壁が倒れそうになって、その脇を歩いてたおばあちゃんが下敷きになりそうだったから必死に倒れないように壁を手で押さえて。いったん揺れが収まったら、これは夢か現実なのかわからなくなって、アスファルトにごろんと仰向けになり、しばらく空を見てました。なんときれいな空の色だろうと思いながら、あぁ、こんな感じで世界は終わっていくんだなぁと思ったりしていました。君たちはどうしてたっけ?」

妻「私は子供の幼稚園のお迎えでちょうど園庭にいたところでした。こわかったし、すごく不安でした。お父さんが空見てキレイだとかいってる時・・・」

夫「すぐに電話したけど、つながらなかったね。それで翌日には原発が爆発して東北がたいへんなことになって…この日を契機に、僕のクリエイターとしての方向性が大きく変わっていったんです。

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(↑震災から約10日後、気仙沼へ。当時担当していたクライアントの店舗の復旧のために、初めて被災地に向かった。その時の写真)                                               

当時、大勢の人が被災地へ行き、震災復興にあたっていました。民間のCMがオンエアできない状況になり、会社に行ってもやることがなくなり、自分にできる支援は何かと考えました。そこで自分はCMを作るプロなんだからと、いろんな支援活動のCMを作るボランティアを始めることにしました。

それが「チャリTV」というプロジェクトです。ボランティア団体に片っ端から電話をかけ「CMを作らせてください!」と言ってアポをとりました。自家用車で被災地を回りながら、カメラ持参で撮影し、ナレーションも自分の声で録音、コピーも考えて、音楽は知り合いのミュージシャンにお願いしてCMを制作。完成したCMを次々に「チャリTV」のサイトで公開しました。そのCMは今でも見ることができます。

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ツイッターを活用し、必要な被災者に必要な支援物資を提供する仕組みを作った「ふんばろう東日本」のCM制作が最初です。

また津波で塾が流された子供たちの放課後の学習支援をする「NPOカタリバ」との出会いもありました。震災遺児たちが高校や大学に行くためのドネーションを集める団体のCMや、被災して飼い主と離れ離れになったペットのマッチングをするためのプロモーションムービーも作りました。

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(↑空気公団の山崎さんとチャリティソングも作りました。)

自然エネルギーを増やす活動から一次産業の支援活動まで、またグローバルなNGOから地域の小さな団体まで、ありとあらゆる社会的事業と接点を持ちました。

そんなふうに動いてみて、初めて気づいたのは、こうした社会課題は、震災の前から存在していたということです。震災を機に加速され、より深刻になったのです。被災地には、以前からこれらの課題があったし、それは、実は日本全国で共通の課題だとはじめて気づいたのです。

例えば、過疎、空き家問題、高齢化、孤立化、6人に1人が貧困、シングルマザーの半数が貧困など。日本は課題先進国だと言われていますが、ほころびがはっきりと見え始めました。

今まで働いていた広告会社では、仕事の相手は大手企業の宣伝部の方々ばかりでした。広告の仕事は、企業の課題、商品の課題を解決するためのものですが、日々、目の前の業務にいそがしく社会の問題に直接ふれることもありませんでした」

妻「なるほど、そうだったのですね。もともと社会問題に興味があったわけではなかったんだぁ」

夫「どちらかというと子供の頃から新聞を読むような社会派?という面はありました。CMをつくる時も商品を売るためだけじゃなくて、どこかで人をクスッとさせたり、世の中をハッピーにしたい、と思ってCMを作っていました。でも、社会がこれほどまでに深刻な状況になっているということを、よりリアルに感じることができたのは震災があったからなんです」

妻「まだまだ話はつきそうもありませんが、今回はこのくらいにしましょう。次回もよろしくお願いします」

夫「よろしくお願いします」

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⇧被災地の子供たちとサッカー。いい表情を撮るためでもありました。ミュージシャンのHARCO(青木慶則)さんも参加。

―「経理の妻が社会の広告社について聞いてみた。」②へつづくー

社会の広告社WEBサイトはこちらから 


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