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短編 『宝石』

 望遠鏡を眺めていた彼が、こちらに笑顔を向けながら、アルビレオを見つけたと楽しそうに叫んだ。暗闇の中での彼の無邪気な笑顔は、肉眼で見上げていた星よりも輝いているようだった。今夜は、二人でテントを張って気の済むまで天体観測をする予定だ。僕らはテントと寝袋とガスコンロ、少しの食料なんかを登山用リュックに詰めて、通学に使っている自転車で山奥までやって来た。望遠鏡は大荷物だが、これがないと始まらない。この望遠鏡は、二人でお金を出し合って購入したものだ。
 僕ら二人は、星を見るのが大好きだった。入学初日に僕の前に座っていた彼が話しかけてきて、すぐに打ち解けあった。彼とは、毎日のように時間を過ごした。僕は、彼程には宇宙に関する知識も熱量も持ち合わせていなかったが、彼のおかげでたくさんの星を知った。中でも彼が好きだった星がアルビレオだった。アルビレオは、はくちょう座の嘴の部分にあたる星である。この星は二重星と呼ばれていて、肉眼では一つの星にしか見えないが、望遠鏡で覗くと二つの星が観察できる。片方の星は黄色く輝いていて、もう一方の星は青色に輝いている。その美しさから、天上の宝石と呼ばれたりもしている。
 今夜は、雲一つない透き通る夜だ。温かく身体を包み込む闇と、頭上を照らし続ける星々。隣同士に並べた椅子の上で僕たちは、何時間も空を眺めていた。
 午前三時を回った頃、ようやくテントへと入ることにした。光のない小さな空間で彼と少しだけ会話をした。
「君の将来の夢は?」
普段星のことしか話さない彼が不意に聞いた。
「・・まだ決めてないな。君は?」
「僕は、星空を撮影する写真家になりたいんだ。写真家になって、みんなに星の美しさや素晴らしさを伝えたいんだ」
「じゃあ、今度僕ら二人でまたお金を貯めてカメラを買わないか?僕も君の夢を応援したい」
「本当かい?でも高いぜ」
「大丈夫だって、望遠鏡だって買えたじゃないか。この望遠鏡とカメラで星空を撮りまくろうぜ」
「めっちゃいいなそれ!」
「来年にはきっと買えるさ」
「そうだな」

 いつの間にか眠っていたようだ。目が覚めた時、僕の前では、焚火が燃えていた。ぼんやりとする頭が働き出すまで、じっと炎を眺めていた。一時間ばかり経った後でようやく僕は立ち上がり火に水をかけた。水蒸気を含んだ木目の粗い雲煙が上空へ舞い上がった。辺りは漆黒に包まれる。そして頭上のざわめきはより一層強くなる。薄っすら見える三本の足に僕は近づいた。上体を屈め、覗き込んだその先には二つの宝石が隣り合って輝いている。僕はシャッターを切る。そして暗黒が打ち破られる瞬間まで切り続けた。
 東の空が明るくなると僕は荷物をまとめ始める。まとめた荷物を肩に担ぎ、バイクへと戻る。荷物を積み終わると、エンジンをかけ、じりじりと熱くなり始めたアスファルトへバイクを走らせる。街までは半日程で着く。今日は日差しが強い。青空を浮遊する鳶が彼方に見える。ゆらゆらと浮かんでいる姿は、近づいてくるように思った次の瞬間には遥か遠くに消えている。意味もなく飛んでいるのだろうか。この世界には無意味なことがたくさんある。思考も不毛だ。答えのでない問いを考え続ける身体。とめどなく流れ続ける思索は失意の靄の中に僕を閉じ込める。もしも僕が君だったなら。振り払えない憂いを引きずり続けながらひたすらにバイクを走らせた。
 日が傾き始める頃、僕は写真店へ立ち寄った。奥の事務室にいる店主は、丸い眼鏡をかけ、白い髭を生やしていた。白髪を七三分けにし、知的で柔和な人柄がにじみ出ていた。
 僕に気づいた店主が微笑みながらこちらへ近づいてきた。
「いらっしゃいませ。何か?」
「写真を現像してほしいのですが」
「もちろんです。一時間程いただきますが、大丈夫ですか」
僕は頷いた。
 現像を待つ間、僕は近くの雑貨屋へ赴いた。その店でガラスと真鍮でできた写真立てを購入し、写真店へと戻った。
 店内をぶらぶらしていると低い声が聞こえた。
「お待たせいたしました」
僕はレジの方へと向かった。
「とても綺麗な写真ですね」
店主が言った。
「ありがとうございます。」
「この星はサファイアとトパーズなんて云われてますよね。本当に美しい……。この星の星言葉を知っていますか。」
「いえ……」
「人に尽くす、です。二重星らしいですよね。これは、ご自身で撮影されたのですか」
「……いえ、友人です。」
「そうですか。才能がお有りですね」
「ええ、その通りです……」
 写真を受け取り、店を後にした。

 時刻は午後五時になっていた。大きなすりガラスの付いた灰色の扉の前に僕は立っていた。僕はハンドルに手をかけその扉をスライドさせる。開け放された窓から吹き込む風が、白のカーテンたちを揺らしていた。真っ白なその部屋は明るく輝き、現実にあるようには思えなかった。沈みかけの夕日が差し込む部屋の、窓際の片隅のベッドへと近づく。等間隔に鳴り続ける機械の音。かすかな呼吸の音。
「やあ。元気かい?君に渡したいものがあるんだ」
僕は、封筒から写真をそっと取り出した。そして透明に煌めいている写真立ての中へその写真を入れ、ベッドサイドテーブルへ置いた。
「もう少し待っていてくれ……」
歪みだす空間に身体の火照りを感じながら、俯きがちにその部屋を出た。扉を閉めてから少しの間、その場で立ち尽くしていた。
 足音が聞こえ、ふと顔を上げると遠くから看護師がこちらの方へ向かってくるのが見えた。僕はそちらの方向へ歩き出す。俯きながら看護師とすれ違った。仄暗い廊下の先を見つめなおすと、そこには非常口の緑の光が力強く輝いていた。



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