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映画『十二人の怒れる男』/部屋に充満する熱気、偏見、そして怒り。

 映画史に輝く、永遠の傑作。『十二人の怒れる男』(1957)を観ました。やはりとんでもない映画でした…

 以下、あらすじです。Wikiより。

父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員が評決に達するまで一室で議論する様子を描く。

法廷に提出された証拠や証言は被告人である少年に圧倒的に不利なものであり、陪審員の大半は少年の有罪を確信していた。全陪審員一致で有罪になると思われたところ、ただ一人、陪審員8番だけが少年の無罪を主張する。彼は他の陪審員たちに、固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを要求する。

陪審員8番による疑問の喚起と熱意によって、当初は少年の有罪を信じきっていた陪審員たちの心にも徐々に変化が訪れる。

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 非常に優れた脚本と演技、そして演出でも有名な映画ではありますが、社会史的には、アメリカの陪審制度の是非を描いたものとしても認知されているっぽいです。

 ところで、陪審制度とはなにかと言いますと、コトバンクによると「法律の専門家でない一般市民の中から選ばれた一定数の陪審員が審判に参加する制度」というもの。

 この制度、アメリカではずーーーっと行われていますが、日本では戦時中に停止されて以来使われていません。


 では、映画に話を戻します。

 僕が思うに、この映画の最も重要なポイントは、「偏見を以て、人を罰してはいけない」という点です。

 特に陪審員3番、7番、10番の持つ差別的な感情は、人の運命を決める場における、いわば「腫瘍」です。取り除かなければなりません。

 3番は息子との確執を軸に、「最近の若者はおかしい」という、縄文時代からあるような言説を盾にし、7番は裁判自体には興味がないものの、自分の意見のなさを追求してきたユダヤ移民の陪審員11番を「移民」という理由で退けようとし、10番は体内で膨むに膨らんだ、異常とも言えるほどの貧困層への差別的な感情をむき出しにし、なんの根拠もなく被疑者を死刑へと追い込もうとします。

 特に3番と10番は、自分とは異なる言説を、「差別的感情=決めつけ」という呆れるほどの個人的な理由で徹底的に否定し、なんとか打ち勝とうとします。一方で、10番が「有罪」を主張したのは、「周りがしていたから」という理由。このような人物がいることで、映画により深みが出ます。

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 そう、この映画の素晴らしい点には、それだけに終始することなく、偏見や異議はもちろんのこと、自分の意見すら表出させることのできない人物を描いているというのもあるのです。

 10番は先ほどから言っている通り、12番もそのような人物です。興味があることは自分の広告の仕事だけ。饒舌に見えて、自分の意見などなにもない人物です。8番が雄弁に自分の主張を語っている際も、3番と〇×ゲームをし、テキトーに過ごそうとしています。


 我々はこういった人物の行動を「あり得ない、人の生死がかかっているのに」と憤りますが、果たして自分がこういう人物にならないという保証などあるでしょうか?我々も彼のような人物なのかもしれません。法のことなどほとんど知らず、多数派の言うことをまんまと受け入れ、それを真実となんとなく思いつつも、世論がそれとは逆の方向に流れると、その波に乗り、自分もまんまと主義主張を変えてしまう人物。そのような人物に自分がならないということは、誰に保証できるでしょうか?

 『十二人の怒れる男』は、つまるところ「我々」を描いているから、僕は本当にすごい映画だと思うのです。我々のほとんどは、10番や12番のような人物です。他人のことなど、それが生死に関わる問題だとしてもつゆ知らず、面倒だから、自分の考えなどないからなどという理由で、なんとなく流し、結果はどうあれ問題を早急に収束させようとする。悲しいかな、僕らの多くは、こういう人間だと思います。僕は、そう思います。

 それに我々の心の奥底に潜んでいる差別的感情を揺さぶるのもすごいです。犯した罪が全く同じでも、その犯人が日本人であるのと移民であるのでは、世間の反応は著しく異なるでしょう。それには差別的感情が潜んでいると思います。決して普段から言っているわけではないにしても、やはり我々にはそのようなものが潜んでいるのだと思います。


 ただ、希望があるのは、8番や9番などの人物がそのような雰囲気を打破しようと奮闘した点にあります。僕の目には、大げさかもしれませんが、公民権運動やウーマン・リヴに貢献し、人々の権利を守った聖人のように映ってならないのです。彼らの奮闘は、まさしく人類の希望。無気力で身勝手で、偏見を抱える人々を説得し、真実を追求していくその様は、見事としか言いようがありません。彼らの奮闘劇には目を見張るものがあります。

 それに8番が駆使していた、説得の話術も見事なものでした。彼が説得するのは、自分とは全く正反対の主張をする人々。それに一部にはまったく話の通じない輩もいます。そのような状況に対して、彼は「譲歩→主張」という基本的ではありつつも、非常に効果的な方法で詰めます。「この時、彼女はこうしてたんだよな?」と、有罪派も納得することをあえて確認し、その後に「でもこれはこうだろ」と、自分の主張を通します。こうすることで、相手が理解するための受け皿を一度用意するのです。これには相手の意識をこちらにいったん好意的に傾けさせる効果があります。最初に相手が納得しない主張を放っては、相手が激高するだけですから。これは見事です。


 この「物事の判断に、差別的感情が入ってはならない」という、今現在でも当たり前に通用するこの主義を、およそ65年前に行ったことが個人的には驚きです。差別的な感情を取り除く、という観点で見ると、陪審員が全員男性であるというのも、歴史的にはそういう時代だったのだろうとは思いますが、現代の視点で見ると奇遇にも皮肉に見えて仕方がありません

 そして最後になりますが、僕がこの映画で一番好きなシーンは、10番が異常なほどの差別的なスピーチをしている最中に、室内のほとんどの人々が彼に背を向けて、反対の意を表するという場面です。

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 僕はこのシーンを見て、こう思いました。他者の差別的な感情に触れたときは、無駄に激高し、否定するのではなく、それがまったく以て聞く価値がない戯言だと理解させるのが一番であるということです。

 こうやって背を向けるというアクションは、間違いなく偏った人々に効くことでしょう。少しづつこうやっていけば、いつかその日が来るかもしれませんよね…

 また明日!

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