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【没後20年】大天才の中の天才、ジョージ・ハリスン

 今日は、ジョージ・ハリスンの20回目の命日である。

 彼は、1943年の2月25日に生まれ、2001年11月29日に亡くなった。

 僕は、2000年の12月末に生まれたため、彼と同じ世界を1年弱生きたことになる。

 ジョン・レノンは僕が生まれる20年も前に亡くなったので、あまり彼が死んだという実感はないが、ジョージの死は僕の中で比較的現実的なことなのである、なぜか。

 もちろん彼は元ビートルなわけだし、世界的に有名な超有名ギタリストなわけだし、唯一無二のロックスターなわけだけど、そういう意味で僕の中ではジョージはすごく特別な存在の一人なわけである。


 なんとなくいつも思っているのだが、日本でのジョージ・ハリスンの知名度はマジで低い。本当に低い。

 僕が大学1年生の時、外国人の先生の英語の授業で、「ビートルズのメンバー、全員言える?」という質問があった。僕は知っているので、答えを言うのを口止めされた。すると周りの人はまず、ジョン・レノンを挙げた。これは当然、知っているだろう。日本でも圧倒的な知名度を誇る、ロックスターであるから。そして次に挙がったのは、リンゴ・スターだ。名前が目立ちすぎる。異常だ。そして辛うじてポール・マッカートニーが挙がった。こればっかりは知ってる人もいれば、知らない人もいるだろう。しかし、ジョージ・ハリスンは挙がらない。本当に挙がらない。

 ビートルズに何の興味もない人が、ジョン・レノンしか挙げられないのは別に妥当だが、ジョージ・ハリスンのことを挙げられる人は本当にいない。

 昔、水曜日のダウンタウンで、「SMAPのメンバーを挙げてください、と言われて、吾郎ちゃんから挙げる人0人説」というのがあったが、もしそれをイギリスでビートルズバージョンでやれば、間違いなくそのポジションには、ジョージが来るはずである。


 そんなジョージであるが、なぜそこまで知名度が低いのか。

 それはやはり、彼がジョン・レノンとポール・マッカートニーという大天才二人に囲まれていたことが一番の原因だろう

 ジョージ自身も、才能あふれる人物であるが、やはりこの二人はすごかった。本当にすごかった


 しかし、そんなことはジョージ自身もわかっていたのだ。

 自作の曲のギターソロを弾けず、ポールに弾いてもらったり、自分が曲を作っても収録されるのは多くて3曲、少ないと1曲。こんな状況では、大天才の中で目立つことなどできるはずもないのである。

 そこで彼はとある行動に出た。


 この動画(NHKにて放送された『最後の授業』での講演)での、みうらじゅん氏が語ったことを基にすると、ジョージ・ハリスンは「自分探し」をしにインドへ行った最初期の人間であったという。

 よく「インドに行って自分を変える」などという者がいるが、その発端はジョージ・ハリスンであることを僕らは忘れてはならない。

 ジョージは、インドで生涯の師となる、マハリシ・ヨギとの出会いや、彼のインド音楽におけるキャリアの確立を促した存在、ラヴィ・シャンカールとの出会いを通して、宗教、スピリチュアル、そして東洋思想などといった自分独自の「道筋」を見つけ、追及していった。

 その影響もあってか、あまりに宗教に入れ込みすぎて、妻のパティ・ボイドとの関係も冷め切ってしまったりもした(ジョージが浮気したのも原因ではあるらしいけど)。


 とにかくジョージのこういった新たな道筋の発見と導入は、ビートルズの音楽に幅を持たせることに成功した。

 名作『ラバー・ソウル』に収録されている、"Norwegian Wood (This Bird Has Flown)"や、"If I Needed Someone"などには、インド音楽の影響が色濃く示されていて、次作の『リボルバー』に収録されている、"Love You To"は、それらよりももっとインド音楽に接近している。


 ジョージが持ち込んだのは決してインドだけではなくて、有名外部ミュージシャンをビートルズのレコーディングに誘ったのもジョージが最初であった。『ホワイトアルバム』に収録されている、"While My Guitar Gently Weeps"のレコーディングには、当時クリームというバンドに所属していた若き天才ギタリスト、エリック・クラプトンを誘った。

 この曲のギターソロパートは、クラプトンが弾いているのだが、もはや本当にギターが泣いている(Weeps)しているのか?と思うくらいの熱演で、ギター弾きの度肝を抜いてしまうような作品に仕上がっている。ジョージはクラプトンを引き入れたことで、曲のクオリティの向上につなげたほか、当時ピリついていたスタジオの雰囲気を明るくすることに成功した。グッジョブ、ジョージ!である。


 そしてビートルズ終末期に制作・レコーディングされた大傑作の二つ、アルバム『アビー・ロード』に収録されている、"Something""Here Comes The Sun"は、彼の音楽家としての評価を完全に確立した。

 この2曲は、このアルバム内では飛び抜けて出来が良く、もはやレノン=マッカートニー作品すらも凌駕するほどの出来であった。

 かの有名なフランク・シナトラは"Something"を、「20世紀最高のラブソング』と称しエルトン・ジョンは、「おそらくこれまでで最高のラブソングの1つ。『イエスタデイ』よりも遥かに優れている』と称した

 つまり、このころのジョージは、いわゆる「何か不思議なクリエイティブパワーが作用していたかもしれない時期」であったというわけだ。例を挙げると、2020年ごろのHaimや、2015~2016年ごろのback number的なことだと思ってもらえればいい(違う)


 このころから、ジョージはまた一つ大きな強みを得ることになった。それはスライドギターの奏法である。フレットの弦をプルプルさせて、キュイーン!!!とさせる、アレである。

 この奏法は、すでに”Let It Be”のソロパート部分で完成の域まで達していて、あまりに美しいギターソロをこの曲に提供している。ぜひご一聴あれ。(1:57-2:26)


 ビートルズ解散後、ジョージは今まで作り溜めていた曲たちを一度に放出するために、ソロアルバムの制作に取り掛かる。そして完成したのが、伝説のアルバム、"All Things Must Pass"である。このアルバム、当時では異例の3枚組であり、そのボリュームも当時話題になったらしい。

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 このアルバムは、彼が今まで身に着けてきた、インドモチーフや、宗教的要素、そしてスライド・ギターが存分に用いられており、それらを好むファンにとっては珠玉の一枚となっている。

 特に2曲目の、"My Sweet Lord"は、自分の信じる神をポップに讃える名曲である。僕はこの曲を通して、神とのつながりは、あくまでカジュアルでもいいんじゃないか?という気づきを高校の頃に得たものであった。


 ジョージはその後もソロ活動を続けていき、バングラデシュの難民救済を目的としたチャリティ・コンサートの開催や、ボブ・ディランなどと始めた覆面バンドである、トラヴェリング・ウィルベリーズの結成、日本での大々的なツアーなどを行った。

 しかし、1999年には肺がんが発覚。その後も体調は良くならず、2001年11月29日に他界。享年58歳であった。



 ジョージ・ハリスンはビートルズの中で末っ子だった。それとレノン=マッカートニーとのスキルの差が、彼に劣等感を持たせていた。

 しかし彼は真っ向から彼らに勝負するのではなく、独自のアプローチを展開。そして終いには、20世紀最高のラブソングと呼ばれるほどの名曲を作ってしまった。

 たまたま大天才の中にいただけで、彼自身は紛れもない天才だ。

 それなのに彼がビートルズの中にある程度、身を置き続けたのは彼の競争心というよりもむしろ、その中でいかにして目立っていくかという意地もあったように感じる。

 ジョージの曲を聴くと、いつもそんなことを思うのだ。

 そんな努力の人、素敵な人、スピリチュアルな人。

 そんな彼と1年未満という短い間ではあったが、同じ世界に生きていたことを僕は嬉しく思う。誇りに思う。

 没後20年、いつかあなたのライブが観たいと思う。



 また明日!!


小金持ちの皆さん!恵んで恵んで!