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カミーユの揺りかご:ショートショート

 1997年9月のある日の午前、7歳だった私は訳の分からないまま、内戦の傷跡がいまだ生々しいカンボジアの地へ降り立った。

 隣国タイの首都バンコクを経由しなければならなかったので、成田空港からジャンボジェット機でやってきた私たち家族は、そこで打って変わり、プロペラ式の小型旅客機に乗り換えていた。ちょうど手に持っていたJALのおもちゃ飛行機と、そう変わらないようなこんな飛行機に乗って、墜落してしまわないものか、7歳の私が感じた底知れぬ恐怖を想像してみてほしい。

 しかしもっと想像してみてほしいと思うのは、小型飛行機を降りた直後から、空港のいたるところで目にする人々の姿が概ね、ベレー帽を被り、浅黒い肌に厳めしい軍服を身にまとう兵士たちだったことだ。彼らはみんな、その肩にAK47カラシニコフ銃をひっさげていた。

 彼ら兵士たちに囲まれながら、私たちは滑走路から空港屋内へ移った。

 目と鼻の先にいる兵士たち、肩にかかるアサルト銃の数々、腰に装着された拳銃、サバイバルナイフ・・・だがとりわけ私の目を引いたのは、隙間という隙間から覗き見えた、果てしなく広がっている平原、そして蜃気楼に揺れる遠い彼方の地平線だった。

 のどかにも感じられた滑走路とは対照的に、屋内は物々しい不穏な空気が流れていた。そんななかでも遠慮を知らない当時の私は、やはり兵士たちをまじまじと見つめるのだった。銃を背負う感覚、銃身と引き金に手を添える感覚、ブーツの踵をこつんこつんとして歩く感覚・・・彼らの味わっているすべての感覚が気になって仕方がなかった。

 すきを見て、私は親から離れ、彼らの一人に近寄ってみた。

 そしてカラシニコフのつややかな銃床に触れてみた。木製なのに、鉄のように冷たく、重たい質感だった。
 気づいた兵士が振り返り、小声でクメール語をかけてきた。

「コン パッ!コン パッ!」
最後に英語を付け加えた。
「ドンタッチ!」

 振り払う彼の手には、親指がなかった。付け根にあるのは、赤く色づいて渦巻く肉に覆われた傷跡だけだった。そして彼の目は微塵も笑っていなかった。
 恐怖のあまり、私は泣き出してしまった。

 しかしそのときだった。空気を切り裂くような轟音が耳をつんざいたかと思えば、凄まじい爆音が響き、大地は揺れ、無数の悲鳴が上がった。

 親指を失ったその兵士は私を抱きかかえ、一目散にどこかへ走り込んでゆく。一歩ごとに彼の踏み込む衝撃が腹に強く響いて、すんでのところで嘔吐するところだった。幸い、その前に彼は何かの障害物のもとに滑り込み、私はただ思いっきり力を込めて目をつぶっているだけだった。

 甲高い悲鳴はやみ、男たちの叫ぶ声が散発的に聞こえてくる。そんな時間がしばらく続くうち、
「ヘイ!ヘイ!」
と揺さぶられ、目を開いた。

「アーユーオーケイ?」

 そう訊ねてくる兵士の顔は、たいそう楽し気に笑っていた。

 私はその意味をはかりかねた。しかし後になって考えてみれば、これがカンボジアで炸裂した最後の砲弾であり、平和への号砲であったのだ。


 経済の回復した今でこそ治安は良好であるが、当時は誘拐殺人や強盗殺人など日常茶飯事だった。泥沼の内戦が終わって間もないとはいえ、結局のところ、裕福な人々は裕福だったのだ。首都プノンペンには小さな遊園地が偏在していて、そこを狙って、逆恨みによる爆弾テロが度々おこった。(無差別殺傷はもはや日本でも珍しくないのだが・・・)

 私の家族もまた、決して資産に恵まれていた訳ではないが、裕福な部類のうちに属していた。インターナショナルスクールへの毎日の登下校は、専属のドライバーとボディガードを雇い、自車による送迎で行われた。

 毎日が苦痛だった。英語もできなければクメール語もできなかった。

 唯一の救いは、いつも気にかけてくれる上級生のある女の人がいたことだった。名前をカミーユといった。色白で長い黒髪、そして黒い瞳をしたアジア系の彼女は、休み時間になると、私のところまでやってきて、お菓子をくれたり、ドラえもんやしんちゃんのシールをくれたり、わからないところあった?と心配してくれたりするのだった。

 私はすっかりカミーユの優しさと愛情で頭がいっぱいになり、永遠に彼女に心配されていたいと思った。
 あるとき私は、授業中に仮病をした。仮病といっても、お腹が痛かったのは確かだった。ただ、ちょっとばかり、大げさに苦悶してみせたのだ。異変に気付いた隣の席の子が授業を止め、先生に知らせた。どうしたの?どうしたの?と、心配する先生をよそに、かわらず苦し気な顔を演じる私だった。

 そうして、私がカミーユを慕っていることを知っていた先生は、埒が明かないと判断して彼女を召喚し、まんまと私は彼女に介抱されるのだった。そのとき彼女が保健室で私のお腹に施してくれたのの字の感触を、私は今でも克明に思い出すことができる。不思議なことに、多少の腹痛であれば、どんな胃薬よりも効くのだった。

 昼休みはもっとも幸福な時間だった。当然ながら、私はカミーユとその取り巻く友人たちに混じって昼食を食べ、そのあとは地べたに居座る彼女の上に抱きかかえられ、後頭部に乳房のやわらかい感触を感じながら談笑を静聴していた。

 もう少し、そのやわらかみを感じたいと思った私は、指でつんつん触れてみてみたり、露骨に揉んでみたりしたのだが、さすがの彼女もこれには否を突きつけるのだった。

"No, you can't do that" 

と、少しに睨んだ目をして冷たく言うものだから、私は彼女に嫌われてしまったのではないかと恐れた。しかし変わらず抱き続けて愛情を注いでくれた。事なきを得たのだ。

 だがその一方、こんなにやわらかくて気持ちのいいものを、どうして自由にさわれないのか、腑に落ちなかったのは事実だったし、正直に言えば、30歳になった今でも納得できずにいる。

 冗談はさておき、死というもが強烈な悲愴を帯びて感覚を襲ったのもこのころだった。体育の授業を教えていた黒人の先生が、強盗に遭って撃ち殺されてしまったのだ。しかもそのことを知ったのはやや時間が経ってからで、彼の授業が少しは好きだった私は、担任の先生に、どうして体育の先生が変わってしまったのか、めちゃくちゃな文法で問い詰めてみたが、先生は何も教えようとしなかった。

 なにはともあれきっとどこかで元気にやっているのだろうと信じきっていた私は、後日、ドライバーの人が、読んでいた新聞を「これこれ」と言いながら指さすので、見てみると、あの黒人の先生が血まみれの無残な亡骸となって写真に写っていた。

 陽気に真っ白な歯を見せて笑っていた先生の姿とは、似ても似つかぬ姿だった。その死に顔は、まさしく断末魔の叫びだった。一切の生命的な兆しを感じられなかった。以前にぞれが意識を有していたなどとは、とても信じられなかった。私が感じたあの生命的躍動はなんだったのか?

 悲しみにくれる私を、カミーユは強く抱きしめて放そうとしなかった。

( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>