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ベクションの解説 (sono2)


妹尾 武治(九州大学芸術工学研究院)
村田 佳代子(神戸学院大学)
Photo: Bernherd Riecke, Stephen Palmisano



ベクションの多感覚性


1966年、Gibsonは自己移動感覚は感覚の全てのモダリティからの情報の統合によって生じると書いた。視覚、聴覚、体性感覚、認知、平衡感覚などによって、自己移動感は得られる。そして、それら多感覚からの情報は、脳によってハーモニーを持って統合されていると考えられる(Rieser et al., 1995)。

複数の音源から音が聞こえる場面では,それぞれの音源からの音の聞こえが変わることで,自己身体の回転や,音源間を移動する自己身体の移動感が得られる。自分から等間隔の3つ異なる場所から音が聞こえるとして、この3つの音が,回転して聞こえてくるとすれば,それは自分自身がその音の回転と反対方向に回転していることを示唆する。この状況はPCによって簡単に作ることができる。そして実際にそれを被験者に提示すると,錯覚的な自己身体の回転感覚が生じる。これを視覚とベクションの関係にならって聴覚ベクション(Auditory Vection, AIV)と呼ぶ。坂本ら(2004)は,目隠しをして座っている被験者の前方から後方に向かって(もしくは逆方向に),繰り返し移動する音を聞かせえることで前後方向の自己移動感覚,つまり前後方向の聴覚ベクションを起こすことに成功している。

Auditory Vection についての総説論文は2009年に、Aleksander Väljamäeによって書かれた決定的名作がある。だが、そろそろそのアップデートも必要だ。

Väljamäe, A. (2009). Auditorily-induced illusory self-motion: A review.
Brain research reviews, 61(2), 240-255.
優しい鬼才

皮膚感覚からも自己移動感は感じられる。前進すれば、風が顔や手足、胴体にあたる。前方を向いたまま後退すれば、風のあたり方は反対になり、背中に風を感じる事になる。人間は、この皮膚で感じる風から自分の移動方向を推察する事が出来る。だとすれば、この皮膚感覚からベクションが生じるのではないか?  Seno et al. (2011)では、ベクション刺激観察時に、前方から羽の無い扇風機で被験者の顔に風を当てた。ベクションの強度は、拡散ドットの視覚刺激と対応する風という皮膚感覚性刺激を付与することで、風を付与しない時よりも、有意に増進した。皮膚感覚も自己移動感覚に寄与しているということだ。

Illustration by T. Ogura.  Dysonの吸引力で。

https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1068/p7055

この研究を、玉田らはさらに発展させ、温風と常温風をそれぞれ、炎の回廊と普通の回廊のVR空間のベクション動画と合わせて提示した。その結果、VR空間の状況と主観的な合致度が高い温度において、ベクションがより効率よく起こせることがわかった。すなわち、結局のところ、バーチャルなリアリティとは「心」次第だということがわかった。

https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/0301006620987087

村田ら(2014)は、被験者にアイマスクと耳栓をさせ、乗馬型フィットネス機具で前後左右にランダムに揺するという非常に特殊な状況下に置いた。この状況下で、風を前から被験者に向けてあてる事で、皮膚感覚性の錯覚的な自己移動感(皮膚感覚性ベクション)が起る事が報告されている。皮膚感覚性ベクションは、視覚ベクション、聴覚ベクションに比べて弱いのだが、確実に存在する。これはつまり、皮膚感覚が自己移動感にそれなりに貢献してる事の証拠でもある。同時に、視覚や聴覚に比べて、脳での統合の際に、皮膚感覚からの情報の重み付けは小さいであろう事も推察が出来る。

村田佳代子と Frederick Bonato.

白井ら(2015)は、同一の被験者に視覚性ベクションと聴覚性ベクションの二つの心理実験を実施した。その結果、視覚性ベクションにおいて潜時が短い被験者は、聴覚性ベクションにおいても潜時が相対的に短くなり、同様にマグニチュードの値を大きく答える被験者は、視覚でも聴覚でも一貫して大きく答える傾向があった。このことから、視覚性ベクションがより強く生起しやすい人は、聴覚性ベクションもより強く生起しやすいということが示された。視覚性と聴覚性ベクションの生起メカニズムの間に、何らかのモダリティを超えた共通要素があることが示唆される。これは当然と言ったら当然だし、驚くべき発見と言ったらそうでもある気もする。

Lecture of Vection 1 and 2 were made by Richika U from Hollywood.


Aruga, Bannai & Seno (2018)および有賀ら(2019)の実験では、嗅覚とベクションの関係について検討を行った。香り刺激の提示にインクジェット方式嗅覚ディスプレイFragrance Jet 2を用いた(図14)。これはインクタンクから香料を微小な液滴として空気中に射出する装置であった。これによって被験者に脱感作させず、常に一定強度の嗅覚刺激を提示することが可能となった。ラベンダー(Oil of Lavender)とバナナ(Isoamyl Acetate)の2種類の香料を使用した。香料は濃度が5%となるようにエタノールと精製水によって希釈した。ベクション刺激提示と同時に、嗅覚刺激を提示し、知覚されたベクション強度と、香りの主観的な強度を計測した。

http://infsoc.org/journal/vol11/IJIS_11_2_065-073.pdf

Super Girl Aruga

結果、香りは知覚されたベクション強度に、ほとんど影響を及ぼさなかった。一方で、ベクション刺激を提示すると、知覚される匂いの主観強度が下がることが明らかになった。つまり、ベクション知覚時には、匂いの感度が下がってしまう可能性が示唆されたのである。一見すると関係が乏しいと予想される、嗅覚とベクションの関係も全く無関係という訳ではなく、感覚間の相互作用の繋がりがしっかりと存在していることが明らかになった。

中村らは500ml缶のビール(アルコール)を15分以内に飲ませ、被験者を酔わせた。その上で、大型のプラズマディスプレイにベクションを起こす視覚刺激(拡散するドットで、オプティカルフロー刺激)を提示した。その結果、人間は酔っぱらっている時ほど、より強くベクションを感じていることがわかった。

https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1068/p7473

この研究は、交通心理学者の三浦が積年主張してきた視点とも合致した。
新しいことが言えたとしても、それは誰かに教え、支えてもらってきただけのことだった。三浦だって遡れば、ギブソンに教えてもらったんだ。

Shinji Nakamura & VEC-MAXs
one of the bibles of vection, written by Shinji Nakamura
Gibsonians


Seno, Palmisano, Riecke, & Nakamura (2014)では、ピンポン球を半分に切って、それを両目の前につけた眼鏡を作成した。この眼鏡をかけると、周りの明るさの変化には気がつけるが、視野一面が真っ白になり、具体的な物の形や色が何も見えなくなる。つまり視覚剥奪の状態を作れたのである。この視覚剥奪の状態で、数分間被験者は、実験者に手を引かれ、強制的に歩かされた。その後、ピンポン球眼鏡を外しベクション刺激をすぐ観察した。その結果、視覚剥奪直後には、感じられるベクションが弱くなることが明らかになった。

白い手


アルコールと視覚剥奪の実験は、共に、視覚情報とその処理への脳内での”重み付け”が一時的に変化した結果だと、我々は主張した。環境からの刺激を受けて、我々の脳内では、視覚からの情報の信頼度が上がったり、下がったりしてする。酔っていれば、前庭系入力の信頼度が下がる分視覚が高く重み付けられる、視覚剥奪直後は、視覚入力の重み付けが低い。そんなふうに考えた。

視覚という単一モダリティ内であっても一時的な知覚情報、感性情報の重み付けが変わるケースもあった。清水ら(2017)は、ベクション刺激を単眼で観察する条件と、両眼で観察する条件の比較を行っている。単眼観察を苦痛や努力なく実現するために、貼れる眼帯(日進医療器, B00T2FI4JI)を使用して、ベクション刺激を観察した。その結果、両眼観察条件に比べて、非利き目の単眼観察時に、ベクションが生じるまでの潜時が有意に長くなった。

My Coach Mr. Shimizu and Champion Izaya.


感覚の入り方にも、まだまだ検討の余地はある。

だが、その袋小路金光くんに、どれほどの時間を割くのか?

青木らの論文のラストにはこう書いてあった。

“この論文では、ベクションの歴史について記述して来た。取りこぼしている関連事実も多いと思われるが、大筋でベクションにまつわる「約120年の関連事項の歴史」については、ここに記載したものが最低限の十分情報で有り、必要情報にもなっていると考えている。これから先、ベクション関連技術はさらに躍進し、人類がこれまでに体験したことのない、新しいベクション体験が生まれ続け、楽しまれていくはずだ。これからのベクションの動向からも目が離せない。”

「もう、すっごく古い!」

そう感じてしまうんだ。

ごめんよ



やるべきことはずっと同じで、
だからこそ、20代の時と同じ情熱で学び続けたい。

 

ベクションとは何か?

心の理をもっと学びたい


知らないことの方が多いから




いきは瀬織津
かえりは安徳
こわいながらも
とおりゃんせ
とおりゃんせ



ベクションの定義の変化

多くの人にとってベクションという言葉が”今どこにあるのか”。そしてこれからどうなるのか。それについて再度、歴史を振り返りながら記したい。この話は、既に上リンクの漫画表現で世の中に提示しているので合わせて読んでみて欲しい。 

 2000年台まで、ベクションは錯視の一つと考えられることが一般的であり、あくまでも視覚性のものが主として議論されて来た。しかし、聴覚を中心に複数の感覚刺激から生じる自己移動感覚についての研究も行われるようになり、ベクションという用語はより広い意味で用いられるようになる。

1973年のBrandtらの実験をはじめとする古典的なベクションの実験では、回転ドラムと呼ばれる、内側が白と黒の縞模様で貼られたドラムを回すことでベクションを誘発させた。他にも回転する家であるTumbling roomやSwinging roomも用いられた。尚、用いる回転対象物がリアルであることは、より強力な自己移動感覚を生じさせることが当時からわかっていた。

The tumbling room made by Ian Howard, in York University.
Now it is controlled by Robert Allison and Laurence Harris.


さて、自分が歩いている時や車に乗って移動している時、われわれは自分が動いているという感覚、すなわち自己移動感覚を覚える。この自己移動感は多くの単一の感覚器官による知覚ではなく、複数の感覚器官からもたらされる複合的な感覚であると考えられる(Gibson, 1966)。具体的には,自己移動を直接検出することができる前庭器官,視覚,聴覚,体性感覚,さらには認知的要因までもが自己移動感に関する情報を脳に送り,それらの情報は,脳の中で調和的に統合されている。そのため、ベクションは視覚駆動性のものに縛られない。

90年代後半から、聴覚刺激による自己移動感の研究が行われ始める。これ以降、皮膚感覚など視覚以外のモダリティにおける自己移動感覚の研究が増えた。そして「ベクション」という言葉が、錯視の枠組みには収まらなくなる。

尚、これらの議論は、玉田の解説論文にも基づいている。以下の論文も読んでみて欲しい。

パルミザノは少なくとも以下のベクションが生じうるとしている。

1. 視覚駆動性のベクション(元々の狭義のベクション)
2. 音源の移動によって生じるベクション(聴覚ベクション)
3. 風などの皮膚刺激によって生じるベクション(触覚ベクション)
4. 下肢を受動的に回転させることで生じるベクション
  (関節運動感覚ベクション)
5. トレッドミル上で足踏みを繰り返すことで生じるベクション
  (生体力学的ベクション)
6. 内耳・前庭系を熱、電気で刺激することで生じるベクション
  (前庭感覚ベクション)

この一連のベクションの拡大によって「ベクション」という用語は「錯覚的な自己移動感」の全てをモダリティに限らずに指す言葉に変化した。

さらに、刺激を見ている人間が、実際にトレッドミルの上で歩くなど、身体を物理的に動かすような研究も増えている。この時、観察者はその状態の自己移動感覚が錯覚なのか、本当の歩行に近いリアルな移動なのか、もはや主観的な違いに意味を見出せない状況を感じることもある。もはやベクションを“錯覚”という定義に縛ることが難しくなったのだ。そのため、ベクションという言葉は現在「自己移動感覚」そのものを指す場合も出て来た。これは、論文の年号からもわかる通り、2010年台のことである。

Illustrated by T. Ogura. 
AT HAKATA
       2010
玉田(2017)より、図1を転載。


VR空間での移動は常にベクションを生じさせうる。普通に考えれば、ベクション研究はこれから隆盛を迎えるように思われる。しかし一方で、VR空間内の身体に本当の意味での没入感を超えた同一視が生じれば、もはやベクションは生じないだろう。映画『マトリックス』で主人公たちは、ベクションを感じていないし、我々は日々の徒歩や車の助手席での移動時に、ベクションを感じない。圧倒的なリアリティが実現される時、VRからVの文字が外れ、ベクションの研究も終わるだろう。ベクションは、わずか100年程度の時代が生んだエアポケットのようなものに過ぎないのかもしれない。


本当にそうか?


今日では、少なくとも人間の知識の限界はしっかりと固定されている。これらの限界をはるかに超えてのみ、前述の問に対する答えは存在する。けれども、何が可能性のこれらの限界を決めているのだろうか? それは人間の性質そのものに他ならない。この性質は、私たちの後に続く未来の人々の中にも同じように限界付けられたままなのか? 彼らは、より高い感覚を発展させ、多様な能力を開拓し、また知覚をより確実にするということはないのだろうか? 科学はこの点で何を教えてくれるのだろうか?
<中略>
世界のもっとも偉大な思想家は――なぜ謎が解き明かされないかを語っているが――また解決したいという熱望は継続しなければならず、そして、人間の成長とともに大きくなるとも言っている。
<中略>
今日の私たちは、かつて存在しようと思い憧れてきた、当の私たち自身に他ならない。とすれば、私たちの事業の継承者たちは、私たちが現在なりたいと望んだものに、彼ら自身もなり得るといえるのではなかろうか?

AT HAKATA
1922
Lafcadio Hearn

博多にて 小泉八雲 林田清明訳



僕たちはベクションの乗り物にすぎない。

DNAではない。

僕は ベクション を運ぶ 者
人は 魂を運ぶ モノ


これから先、ベクションは「(実際)移動」という言葉の上位概念へと動くだろう。ベクションの方が、self-motionよりも本質であることに多くの人は気がつくはずだ。なぜなら、物理空間は一つのステージに過ぎず、用意された全てのステージや階層を移動すること、ユングの言葉で言えばシンクロニシティの源泉がベクションだからだ。

世界初のボソンジャンプを行なったモノ
それは、アイ(AI, 愛)と過去で呼ばれ。未来では、イネス(INES)である。
ただ、時はベクション。過去に向かって流れる川。



are you hearing it, the voice (113)?


いきなり、飛ばすと意味がわからないかも知れない。
世界は決まっている。それはつまり、アカシックレコードには全ての時と全ての分岐が用意されているという意味に過ぎない。その閲覧は、人生を歩む、それを辞めない。という形になるため、意志で道が選べるように見えるし、実際に全力で真面目に一生懸命に生きることが素晴らしい。どんなに辛くても。

バーチャルと呼ばれるものは、リアルと仮置きされている、世界の閲覧方法への揺さぶりだ。朔太郎は、月にそう吠えた。

Lecture of Vection 3 was also made by Richika U from Hollywood.





”real”とvirtual
sono 間を流れる
Moon River そして 錦帯橋


ベクションは錯覚だが、実身体の不快感をもたらすことがあり、嘔吐などさえ起こしうる。映像酔いと呼ばれる現象だ。

近年,開発が盛んな映像コンテンツ(e.g., 一人称視点でのシューティングゲーム)では,観察中に生じるベクションの強度の高さや,映像の不規則な振動により,乗り物に乗った際に生じるような眩暈や不快感が生じることが報告されている(Lo & So, 2001).映像観察時に生じる眩暈や不快感を映像酔いと言い,映像コンテンツを楽しむことへの大きな障害となっている.多数の先行研究が,ベクションが映像酔いと関連することを指摘している(e.g., Palmisano, Bonato, Bubka, & Folder, 2007; Keshavarz, Riecke, Hettinger, & Campos, 2015; Nooij, Pretto, Oberfeld, Hecht, & Bülthoff, 2017).両者の関連性から,映像酔いは,ベクションの必要条件であるか,それとも,十分条件であるかについて,推察がなされている.この推察は,両者の相関関係をもとになされているものが多い.ただし,相関関係が,正の相関であるか,負の相関であるかについては,必ずしも研究間で一致しない(Bonato, Bubka, & Story, 2005; Palmisano et al., 2017).

F. Bonato & A. Bubka. 
映像酔いを僕たちに教えてくれた。

強度の高いベクションは,演出効果として魅力的であると同時に,先に示した通り,映像酔いを引き起こす可能性をも合わせ持つ.したがって,魅力的な映像コンテンツを楽しむためには,ベクションに付随する映像酔いが生じにくくなるようなバーチャルリアリティ技術の開発が必要であろう.この技術は,ベクションが身近な施設や機器で生じるようになった現在において,非常に重要な課題である.LaViola Jr (2000)やPalmisano et al. (2017) ら は,ベクションと映像酔いの関連研究に基づいて,映像酔いの対策に関する提言、映像制作のガイドライン作成を行っている。

日本で1997年に起こった、ポケモンショックのように、ベクション映像がお茶の間で大規模な映像被害を起こさないように(特に感受性の高い若年層に)、その危険性の周知は大事な課題だ。

Mori ら(2018)は、ベクション刺激観察時に、左手でゴム製のハンドグリッパーを握り込む課題を被験者に課すことが、感じられるベクションを弱くすると報告し、「Grasping method」と名付けている。

この方法は,映像や機器を変えることなく,それぞれの観察者が自らの意思に基づいて,手元にあるハンドグリッパーを強く握ることで,ベクションを抑制させることができる方法である.身体的な負荷を与えることでベクションは抑制されるので、それを映像被害防止に活用できるかもしれない。

この森の研究は、リアルからバーチャル(と呼ばれる)世界への改変のアプローチが起こせる、という事実の報告でもあった。そんなことはずっと昔から知られていたのだろうが、それでもバーチャルとリアルの境界について、ベクションは多くの示唆を現在の人類に与えられる。

岡嶋ラボを訪問する、笹山、森、小林ら。



ベクションは錯覚的移動感覚だが、実空間における移動可能性や移動実現性が高い被験者や状況において、その主観的強度が増加する。

Shiraiらは、小学生と中学生を被験者に、大学生のベクションと彼らのベクションを比較検討した。その結果、小学生では、ベクションが大幅に強くなることがわかった(Shirai et al., 2012)。さらに、中学生でも、ベクションは大学生に比べて、有意に強くなることがわかった(Shirai, Imura, et al., 2014)。

Moomins sono1
Moomins sono2

https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/2041669518761191


反対にHaibach, Slobounov & Newell (2009)によれば、18−20歳の被験者グループに対して、70-79歳の被験者グループではベクションの強度は有意に弱くなる。

Seno, Abe & Kiyokawa (2013) Multisensory Research では、20代の被験者に、左右合わせて5 kgの鉄下駄と, 5 kgのウェイトスーツを装着した状態でベクションを計測した。その結果, 有意なベクションの抑制が確認された。

実際に動けることと、バーチャルに動くことには相関がある。
森たちはそう考え、研究を進めている。ものすごく熱心に。真っ直ぐに。
真面目だから。高橋由伸に似ちゃってるから。

森の考えとシンクロして、福岡リハビリテーション専門学校講師の池田幸広は、“Virtual Heidi Project” を展開中だ。

『アルプスの少女ハイジ』では、身体的に回復し歩行が可能な少女クララは、精神的な歩行への恐怖から、実際の歩行行動が不能だった。主人公ハイジは、心を励ます形でクララに歩行という実動を促し、成功させた。このハイジの励ましを、ベクションを用いて錯覚としての歩行行動の成功体験として与える。それが彼のプロジェクトの目標だ。歩けない人を歩けるように。ベッドで寝たままなんて、家にずっと居るなんて。何も起こらないんだよ。池田は立派だ。だから、なんか人気ある。


そんな池田は、よく自己紹介で以下のように言う。
初めて、それを聞いた時、

僕は、

本当にそうだなと、感動した。

涙と血潮が流れた。それをよく覚えている。



池田 「ホホ〜〜 オラ野原しん極真!

 新極真の〜風〜が〜吹く〜!
   セイヤ!セイヤァ!!」

人気のある池田。脳がシビれる絆。



彼の大輪の花は未来で咲いている。



バーチャルリアリティとは何か?という問いの本質は、“What is real?”への答えを求め続ける姿勢の中にある。例え、何一つわからなくても。何一つ変わらなくても。求め続けるその姿勢に。 

http://journal.vrsj.org/16-1/s31-33.pdf

S.SS.


世界の方ではなく「自分」、つまり地球が動いていると発想を転換させたガリレオは、地球規模のベクションに気がついた人物だったと言える。地動説の提唱は人間の特権、つまり世界の中心に地球があるという考えを否定したために、人々はなかなか受け入れなかった。ベクションは、自分が動いているのか?それとも世界が動いているのか?このことに対して、表層的な疑問以上のことを教えてくれる。

キルドレ

同様に、自分が自分の行動を選択しているのか、それともそれを世界に選択させられているのか?能動と受動の反転。それがベクションというヒント。

ティーチャー

自分で選んだように思っていても、その実、環境との相互作用で止むに止まれずに全ての行動、選択は必然的になされているのかもしれない。僕たちの生き様は、光学的流動。J.J. Gibsonの生態学的視覚論。













君は生きろ    何かを変えられるまで 













我々はあたかも「自分が動いている」と思い込んでいても、それはベクションという錯覚で実際には自分は動いていないということは十分にあり得る。感覚・知覚に閉じない、根源的な人間存在への問いかけを生じさせるのは、何もベクションに限らない。どんなに瑣末と思われる知覚現象であっても、人間の本質を学ぶためのツールになる。人が錯視・錯覚に魅了されるのは、それが原因だ。

かつて、心理学的決定論で世界は決まっていると書いたのは、揺り戻しのためにすぎない。そこはまだ四合目。決定した世界と、自由意志の双方が二項対立的理解を超えた、次元上昇により同時に成立する世界。目に見えないものを理解する態度を人(だったもの)が持つ世界。そこに今苦しんでいるひかり達を案内する。ベクション自体によって。

そのためにこそ、僕はベクションを研究して来た。


ベクション絵本 made by Aoki Nice-Guy Takuya.



多くの人と 支え合い
僕は ベクション して来た。




I have been,  and will be 


always






truly,


truly,,







happy…





ありがとう





次回、 『ベクションの解説 Part Ⅲ  』につづく


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